『萌芽』前編(352氏)

―――――――――シェリル サイド

軽く用事を済ませて、時間通りにスタジオに向かうシェリルの気分は上々だった。
コンサート後の疲れを癒す為にと、この2日間、強制的に休みを取らされたのである。
おかげで、ランカと会うのも2日ぶりだ。これで、機嫌が悪くなる筈が無い。
本当は、約束でも取り付けることが出来れば良かったのだが、
よりによってランカが兄達と約束をしていたので、シェリルは遠慮したのである。
休みをゆっくりランカと過ごす事が出来なかったのはシェリルにとって不本意だが、
その寂しさの裏で、ランカが家族と大切な時を過ごせているのだと思えば、苦ではない。
それに、2日ぶりに会うランカは、いつにも増して、輝いて見えるだろうから。

なのに、スタジオ前でシェリルが出会ったのは、落ち着かない仕草をしているエルモだった。

「おはようございまーす。……って、どうしたのかしら? 社長さん」
「あぁ、シェリルさん、おはようございマス。
 いや、ちょっと困ってマシて」
「機材のトラブルでもあったの? それに、ランカちゃんは?」

普段なら、ランカはシェリルよりもずっと早く、現場に入っている。
エルモが何に困っているのかは知らないが、シェリルが気になるのはランカの不在の方だ。
しかし、シェリルがランカの名を出した途端、エルモが更に慌てた素振りを見せる。

「そそそ、そのランカちゃんなのデスヨ、問題ハ!」
「ランカちゃんがどうかしたの? まさか倒れたとか?」

エルモの口から飛び出たランカの名前に、シェリルはすかさず反応する。
ランカに問題が起きた。となれば、気になるのはランカの中にあるバジュラとの繋がりだ。
幾度となく重ねられた検査の結果、ランカの健康にはなんら問題がないと結論が出ているが、
何せバジュラの研究はまだ中途だ。想定外の何かが起きても不思議ではない。
すぐに体調不良を疑ったシェリルに、エルモは首を横に振った。

「いいえ、多分、健康に問題はないようデス。
 パッと見ただけでは、特に落ち込んでいる風でもないのデスが。
 ついさっき、歌の練習をされていたのを聴いていたら、その調子がね、ヘンなんですヨ。
 いつものランカちゃんじゃないんデス」
「……分かったわ。ランカちゃんの様子を見てくるから、場所を教えて?」
「分かりまシタ」

エルモからランカの居場所を聞いて、シェリルはスタジオの裏に回る。
出来て間もないスタジオの裏側は、あまり整えられたとは言い難い、自然そのものの庭だ。
そこへ近づくにつれ、シェリルの耳に、愛しい声が聞こえてきた。


―――それなら 私の唇の 日記には 貴女の名前 何回呼んだか書いてある

ランカが正式にデビューしたシングル、「ねこ日記」だ。
ランカらしい、可愛い恋の歌なのに。今は、聞く者の胸を詰まらせる切なさがある。
シェリルは足早に裏庭に近づくと、ランカの後姿に声をかけた。

「こんな所でどうしたの、ランカちゃん?」
「シェリルさん!」
「もうすぐ歌の収録時間よ。と言っても。今の貴女に、それが出来るとは思えないけど」
「どうしてですか!? 私、今もこうしてちゃんと歌って」
「確かに歌ってはいるわね。でも、歌とそれに乗せる感情が、まるで合ってないの。
 歌はね、時に言葉より表情よりもずうっと、饒舌なのよ。
 ……何か、あったんでしょう? 話して、ランカちゃん」

シェリルは水を向けるが、ランカから返ってきたのは沈黙だった。
ワンピースの生地を両手で強く握り、俯く姿は、まるで何かに耐えているかのようだ。
ランカのそんな様子を見ていたくなくて、シェリルは更にランカに近づく。
あと一歩で、腕を伸ばせば触れる距離に入る。その寸前で、ランカが拒絶するように言った。

「ごめんなさい。話せないんです、シェリルさん」

その一言に、シェリルは足元が不安定になったような錯覚を受けた。
初めて会った時から、ランカはシェリルに懐いていたし、
シェリルもまた、そんなランカを可愛く思っていた。
何もかも話せる程、親密だったという事ではないけれど。
歌を通じて、気持ちを分かち合っていたのは間違いない。
そんなランカが、急に遠くに感じられてしまうのはこれで2度目だ。

「話せないだなんて。そんなの許してあげないわよ、ランカちゃん」
「……」
「フロンティアを飛び出していった時も、貴女は私に何も言ってくれなかった。
 もう、あの時みたいなのはコリゴリなんだから!」

ランカがフロンティアを去ったと聞いた時の衝撃を、シェリルはまだ忘れられない。
大きすぎる消失感と、おきざりにされた寂しさとで、どうにかなりそうで。
あんな思いは、2度としたくない。その一念で、シェリルはランカの手を取った。




―――――――――ランカ サイド

隙を突いて掴まれた腕を解こうとしても、解けない。
伝わってくるシェリルの熱い体温を感じながら、ランカは視線を上げた。
ランカの腕を掴みながら、シェリルがいつになく真剣な表情でこちらを見ている。
真剣というより、焦っている、というべきか。

「でも、私……」

話せる筈が無い、とランカは心の中で叫ぶ。
ランカの心が乱れている原因は、シェリルにあるのだから。
このスタジオに入る少し前。時間が余っているからと、寄り道をしたのが悪かった。
通りに面したカフェで、シェリルがアルトと会っているのを見てしまったのだ。
2人が何を話していたのかは知らない。
ただ、シェリルが満面の笑みを浮かべていた光景だけがランカの脳裏に焼きついている。

「ランカちゃん。お願い、話して」
「ダメです。話せません!」

シェリルがアルトを好きでいるなんて、分かりきっていた事だ。
なのに、コンサート初日の帰りにシェリルが囁いた言葉を、ランカが間違って解釈して。
たったそれだけの事で、勘違いしてしまった。
シェリルもまた、ランカに想いを寄せてくれているのではないかと、甘い夢を見てしまった。
だからこれは、自業自得なのだ。


「……分かったわ。何があったかは、聞かない事にする。
 でも、何か私に出来る事はないの?」
「え?」

強情なランカに、シェリルがようやく諦めたと思えたのも束の間。
新たに問われた内容に、ランカは虚を突かれた思いだった。
ランカがシェリルにして欲しいこと。そんなもの、あり過ぎて困るくらいだ。
私を見て。私を抱き締めて。私にキスして。私が触れるのを許して。私の思いを受け止めて。

……そんなの、言えるわけがない!

「私に出来る事。手伝える事があったら、何でも言って?」
「……じゃあ、この腕、離してください」
「そう……分かったわ」

極力平静を装って、ランカは言う。
これ以上、シェリルの体温を感じていたら、泣きついてしまいそうだったから。
僅かな間を置いてシェリルの手が離れた時、ランカは安心と寂しさとに同時に襲われた。


つづく。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2009年02月11日 18:38
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。