無題(665氏)

私の手の上で、彼女のそれが動く。
爪の上を走るひやりとした感触と、耳をくすぐる浅い吐息。
その度に小さく震えそうになるのを、私はただただ必死に堪えていた。

ベッドに座った私を背中から覆いかぶさるみたいにして、真剣顔のシェリルさんが向き合っているのは桜色のマニキュア。
それをシェリルさん自身の爪に塗っているだけなら、特に問題はないのだけれど(ううん。こんな体勢の時点で私の心臓の負担的にはかなり問題あるけど)今シェリルさんの持つ桜色のマニキュアの筆が走る先は、私のそれで。
しっかりと私の手を捕らえるシェリルさんの左手のせいで、私は数十分この体勢を余儀なくされていた。




事の発端はいつも通りシェリルさんの気まぐれだった。

久しぶりにシェリルさんと一緒のお仕事だったから、仕事の合間に彼女のお部屋を訪ねた。
ここ数ヶ月、一緒のお仕事もオフが重なることもなくて、会えない日が続いていたから、私はわくわくとどきどきの気持ちいっぱいで彼女のお部屋のインターフォンを押したんだ。
出迎えてくれたシェリルさんは、いつもの綺麗な笑みで、ぎゅう、としてくれたんだけど、久しぶりのハグも早々に「ランカちゃんに似合うマニキュアがあるから」って、ベッドまで引っ張って、今に至る、と。

これでも、一応、抗議はしたのだ。
マニキュアなら自分でできます、とか、塗ってもらうにしても向かい合わせの方がやり易いでしょう、とか。
そもそも、今これをやる必要はないじゃないですかって。
だけど、当のシェリルさんはそんな私の抗議なんてどこ吹く風で、「いいから」「早く」と急かすのみ。
シェリルさんはとーっても頑固な所があるから、こう!と決めた事は簡単には改めてくれない。
……先に惚れた方が負け、って昔の人ってほんとに上手い事言う。
この場合も、シェリルさんに心底惚れちゃってる私に、断るなんていう選択肢はなかった。

シェリルさんの細い指が私の左の薬指を固定する。
彼女は右手に持ったマニキュアの筆で、私の爪にするりと一つ色を引いた。
同時に、シェリルさんの吐息が耳元を撫でて。私は、ぴくりと身体が竦みそうになるのを必死に堪える。
鼓動がいつもより早いのはこの体勢になった時から自覚しているけれど、こんなにも密着していたら背中のシェリルさんにも聞こえていそうで恥ずかしかった。

桜色に染まっていく私の爪とは反対に、シェリルさんのそれは何の色もついていない。そのままの肌の色。
そういえば、いつだったか、マニキュアとかネイルアートの類はあまり好きじゃないと言っていたことがあったっけ。お仕事以外でそういうのしてるのも見たことないし、シェリルさんのお家でもそれらしいのを見たことはなかった。



それじゃあ、今私の爪を彩っているこれは ―――。


(……自惚れても、いいのかな。)


このマニキュアは、シェリルさんが私のために買ってきてくれたものだって。
そう、思っていいのかな。


きゅ、と胸の奥が切なくなって、無性にシェリルさんに抱きつきたくなった。
ちらりと左に目をやると、近すぎる距離に彼女の真剣な横顔。
長い睫が僅かに伏せっていて、その奥の空みたいに青い瞳は真っ直ぐに私の薬指をとらえてる。
衝動が抑えきれなくて、私は小さく口を開いた。

「……シェリルさん」
「だめよ。動かないで」

口では反応してくれるけれど、視線は薬指に向けられたままで少しだけ寂しくなる。

やっぱりこの体勢は苦手だ。
背中全体で彼女の温もりを感じられるのはいいけれど、真正面からその顔を見ることができない。
見て、もらうことができない。

薬指の爪を彩っていた筆が、今度は小指に取り掛かった。
相変わらずシェリルさんは指を見つめてる。

「シェリルさん……」
「なあに?あと小指だけなんだから、もう少し待って」

めげずに呼びかけてみるけれど、返ってきたのはそんな素っ気無い言葉。

少しってどれくらいなんですか、あと何分ですか?
訊ねたかったけれど、これ以上言うと、もう!って怒らせちゃいそうだったから、
精一杯の気持ちをこめて、私の肩に顎を乗っけるシェリルさんの頬に、額をすり寄せた。
そしたら、一瞬シェリルさんの動きが止まったような感じがしたのは、私の気のせいかな。

元々他の指と比べて面積が小さい小指の爪は筆が数回往復しただけで終わったようで、
シェリルさんは脇に移動させてあったマニュキアの小瓶に蓋をした。
それをそのまま、ぽい、とベッドの上に放り投げて。
思わず小瓶の行方を目で追っていたら、今までマニキュアを塗られていた手にシェリルさんのそれがするりと絡む。彼女の方を向こうとしたけれど、お互いの頬が触れててそれは叶わなかった。

「それで、何をそんな声出してるのかしら?ランカちゃんは」

なんだか意地悪そうな声音でそんなことを言うシェリルさん。
それでも、やっと意識がこちらに向いたことに少しだけ胸が弾んだ。

そんな声ってどんな声だろうと思ったけど、今はもっとずっと聞きたかったことを訊ねることにした。

「このマニキュア、どうしたんですか?」

桜色と肌色が交互に揺れる手を見つめながら訊ねたら、色素の薄い髪の毛がさらさら頬をくすぐった。どうやら、シェリルさんが首を傾げたみたいで。

「買ってきたのよ?」

心底不思議そうな声が返ってきた。
シェリルさんの細い指が私の手を柔らかく握るから、私も小さく応える。

「でも、シェリルさん、マニキュアってあんまりしないじゃないですか」

また、さらさらと頬をくすぐるシェリルさんの髪。
今度は反対側に顔を傾けたよう。



「……?だって、ランカちゃんに似合うと思って買ってきた物だから」



「私用ではないわよ」と。
なんでもない事のように、さらりと返ってきた言葉。

更に強くなる、切ない痛み。
どきどき、と鼓動が早まる。

そんなこと、そんなに簡単に言わないでほしい。

だって、―――。

絡むシェリルさんの白い手を今までよりも強く握り返した。



――― どうしようもなく、嬉しくなってしまうから。



同じくらいの力で握り返してくる細い手。
それだけのことなのにたまらなくなって、私は、は、と小さく息を吐き出し、シェリルさんの頬にまた甘えるように額をすり寄せた。

「シェリル、さん」
「んー?」

「……ぎゅってしてください」

強請るようにそんなことを言うのはすごく恥ずかしくて、でも、どうしてもしてほしくて、小さく小さく呟いた。
そしたら、耳に届く私の声と同じくらい小さな笑い声。


「だーめ。まだマニキュア乾いてないもの」


「取れちゃうでしょう」と、悪戯っ子のようなその声音。
それは長くない付き合いの中で何度か耳にしたことのある声だった。
彼女がこんな風な喋り方をする時は決まって、何か良からぬことを考えていたり、私をからかっている時だ。

切ない気持ちと高鳴る鼓動、胸の中が色んな感情でいっぱいになってしまって、鼻の奥がつんとした。
こんなことで泣くのは嫌だったけど、こんな風にシェリルさんに突き放されたことが悲しくて、寂しくて。
彼女がからかっているだけだって分かっているけれど、どうしようもなくなって。
意地悪。シェリルさんの、意地悪。

突然、私の手を弄ってた彼女のそれがするりと静に外れた。
それはそのまま私の顎のラインを撫でて。

「シェ、―――」

名前を呼び終わる前に言葉を封じられた。
本来シェリルさんの名を呼ぶはずだった所に、温かいモノが触れていて。
目の前には彼女の長い睫。

キスされていると、そこにきてようやく脳が理解する。

同時に、顔中に集まってくる熱。
首筋も、耳の後ろも、どこもかしこも熱くなって。
そうなってやっと私は、ぎゅ、と目を閉じた。

暗くなった視界の中、感じるのはシェリルさんの唇の感触だけで。
下唇をやんわり食まれる、それだけで小さく震える身体。
シェリルさんの唇は、下のそれと同じく上も食み、下唇をぺろりと舐め、口の端っこに、ちゅ、と音を立ててキスして離れていった。

小さく息を整えて瞼を押し上げると、鼻先が触れそうな距離にいるシェリルさんと目が合う。
どうして、さっきはダメって言ったのに。
視線で抗議すると、シェリルさんは唇の端をゆるく持ち上げて、


「キスもダメだなんて、言ってないでしょう」


なんて、悪びれもせずに言って、顎を持ち上げてた手でするりと頬を一撫でした。
そんな動きだけでも背中がざわざわして、身体がびくりとしてしまう。
私は、私の手に絡んでいる彼女のそれを、ぎゅう、と握り、その視界から外れるように少しだけ俯く。

絶対、絶対、分かってやってるんだ。それで、私の反応を見て楽しんでるんだ。
そう思ってても、素直にシェリルさんの手の上で転がる自分がいて。
それだけ、この意地悪な人の虜になっているんだと自覚する。

やっぱりシェリルさんは意地悪だ。
だって、こんなことされたら、もっとずっと欲しくなるに決まってるのに。

鼓動が早まる。
頭の中でどくりどくりと血の流れる音を聞きながら、理性と欲求の間で揺れ動く。

――― だけど、答えなんてとおに出ているのだ。




「シェリルさん、ぎゅってしてよ……っ」




掠れてしまった言葉は届いただろうか。

こんな風に中途半端に抱き締められるのはもう嫌だった。
ちゃんと顔が見たい。ちゃんと見てほしい。それで、ちゃんと抱き締めてほしい。

シェリルさんが息を呑んだのが分かった。
絡んだ手が持ち上げられて、爪を撫でる彼女の指。
私の身体を囲んでいたシェリルさんの足が移動したのが気配で伝わる。

絡んだ手が離された、その瞬間。

突然、強引に身体が半天した。
次の瞬間には、背中にすべらかシーツの感触。
顔の周りを色素の薄い柔らかな髪が覆っていて、鼻先が触れ合うくらいの距離にシェリルさんいた。
彼女はちょっとだけ不満そうな表情を見せて、私の肩口に顔を伏せた。

「……そんな可愛い声、私以外の人に聞かせたら承知しないから」

ぽそりと呟かれた言葉。その意味を図りかねて首を傾げた。
とりあえず、小さく名前を呼んでみると、ぎゅ、と抱き締められる。
やっと与えられた、感触に、体中がじんと痺れるような感覚に陥って。
くっついている所からシェリルさんの温度が伝わって、じわりじわりと全身に広がっていく。
密着した体。だけど、全く重さを感じないのは、シェリルさんが体重をかけないようにしてくれているからで、そんな小さな配慮が嬉しかった。

「爪立てていいから」

まるで世間話をするように発せられた言葉に一瞬反応できなかった。
徐々にその意味を理解するにつれ、これから起こるであろう事が脳裏を過ぎって身体が熱くなる。
けれど、そういうことを何でもないように言ってしまえるシェリルさん余裕っぷりに、なんだか悔しくなって、私は彼女の肩をそっと引き寄せた。

「……マニキュア剥がれちゃいますよ」

精一杯強がって言ったのに、シェリルさんは私の肩口で小さく笑ってて。





「そうしたら、また塗ってあげる」





言葉と同時に降ってきた唇に、悔しいけれど、逆らう術なんて持ち合わせていない。

大好きな白い肌に爪を立てるなんて、できるわけないじゃないかと心の中で思いながら、私は彼女の首に両腕を回して静に引き寄せた。







おわり

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最終更新:2009年04月18日 12:23
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