零距離(2-579氏)

時折、厨房の方から、店長が皿や調理器具を片付けている音が聴こえてくる。
その音に耳を澄ませていたナナセは、ふと、すぐ側から聞こえてきた声に、目を瞬かせた。
正確には、声ではなく、寝言である。

「グレ……シェ……なら……私だって……」
「ぐれ? グレープフルーツの夢でもみてるんでしょうか、ランカさん」

途切れ途切れの寝言に推理を働かせながら、ナナセは視線を下にずらす。
幸い、ナナセの独り言は、寝言の主であるランカを目覚めさせる事無く済んだらしい。
戯れに翡翠の髪を手櫛で梳いてみると、柔らかな感触と共に、
店で出している中華料理のスパイスの香りがして、ナナセは自然に微笑んでいた。

「今日は、お疲れさまでした、ランカさん」

急な病欠が2名も入ったからと、昼過ぎから店長に呼び出され。
それから閉店まで、ランカはずっと働き詰めだったらしい。
それを聞いたナナセは「どうして自分も呼ばなかったのだ」と店長に詰め寄ったのだが、
そもそもナナセを呼ばなかったのは、ランカの意思などだと知って、言葉を失った。
「ナナちゃんはコンクールの〆切り間近で大変だから。私が2人分働きます」と宣言し、
その通り通常の倍以上働いてみせたランカの優しさと強さを感じて、胸が熱くなったのだ。
ランカの気配りのお陰で、ナナセは無事絵を仕上げてから、バイトに入る事が出来た。
自分が知らないところで受けていた恩恵を、知ったのはその時である。
ナナセは勿論、すぐランカに感謝の意を伝えた。
それにランカは「何てことないよ」「ナナちゃんにはいつも助けてもらってばっかりだから」
「偶には私の事も頼っていいんだっていうトコ、見せなきゃね」
……そう笑顔で返したのだけれど。
流石に激務だったのか、終業後着替える間もなく、控え室で眠ってしまった。
いつもより青く感じる肌色を見て、ナナセは一も二もなく、
店長にしばらく休ませてもらえるよう許可を貰い。
そして、ランカに膝枕をしている現状に至る。


「……ん。あ、ナナちゃん。おはよう……じゃないよね。あれ?」
「あぁ、ランカさん。大丈夫ですか?」
「これ、娘々の制服……ひょっとして、私いつの間にか寝ちゃってた?」
「はい。あ、時間なら気にしないで下さい。
 店長さんにはお願いしておきましたし、オズマさんにも連絡しておきましたから」

本当は、オズマに連絡した際、「すぐ妹を迎えに行くから」と頼まれていたのだけれど。
ナナセはその申し出をやんわりと断っていた。
自分の為に行動してくれたランカに報いたいという気持ちもあった。
しかしそれ以上に、ランカを独り占め出来る時間が、少しでも多く欲しいと思ったからだ。

「うわ、もうこんな時間?
 ごめんね、すぐ着替えるから!」
「いえ、気にしないで下さい。
 店長さんも、身体を休めてから帰った方がいいって仰ってましたし。
 もう少し休んでからでも……」
「でも、それじゃナナちゃんの帰りも遅くなっちゃうでしょ?
 ごめんね、ナナちゃんだって、絵を描き上げたばかりで疲れてたのに。 
 折角、ナナちゃんに恩返ししようと思ってたのに、結局迷惑かけちゃったね」

着替えをしながら、ランカがすまさそうな声で言う。
未発達ながらも魅惑的なランカの身体をなるべく見るまいと視線を逸らしていたナナセは、
聞き捨てならないランカの言葉に、ついそちらを見て。
少し赤くなって、それでもランカと向き合った。

「恩返ししなきゃいけないのは、私の方です!」
「え?」
「ランカさんのお陰で、私、どれだけ助かってるか……。
 それなのに、またこんな風に、気を遣ってもらって。
 本当に、ありがとうございます、ランカさん」


ひたすら、美術の世界に没頭してきたナナセ。
絵以外に心を動かす事を忘れかけていた頃、それを思い出させてくれたのは、ランカだ。
ランカを通して見える世界はとても鮮明で、輝きに満ち溢れていて。
いつの間にか、ナナセにとってランカこそが、輝きを発して見えるようになった。
眩しさと温かさとを与えてくれる、まるで天使のような存在。
あまりに光に溢れているから、どんなに手を伸ばしても届かない気がする。
あまりに愛に満ちているから、どんなに両腕を広げても捕らえられない気がする。
それでも恋焦がれ、少しでも助けになりたいと思うようになるまで、時間はかからなかった。
恋慕を伝えようと、思ったことはないけれど。
だって、ランカはあまりに綺麗すぎて。
ナナセが手を触れたら、汚してしまいそうだから。

「そう、かな?
 でも私こそ、ナナちゃんにいつも我儘聞いてもらったりしてるし」
「ランカさんが我儘だなんて! そんな風に思った事なんて1度もないです!」
「……じゃあ、1つ我儘聞いてもらっていい?」
「1つどころか、2つでも3つでも、好きなだけ仰ってください!」
「うん。じゃあ、お言葉に甘えちゃう」

そう言って、ランカが着替えの手を止める。
チャイナドレスを脱いで、私服のスカートを穿いてはいるが、上半身はまだ下着姿だ。
ランカはその格好で、ナナセに抱きついてきた。
女の子同士、じゃれ合う事は数多くあれど。
深夜と言ってもいい時刻、想い人に下着姿で抱きつかれては、平静でいられる筈も無い。
心拍数を上げた己の身体と、ランカの急な行動とに戸惑いながら、ナナセは声を上げる。


「らららら、ランカさん!?」
「ごめんね、驚いたかな?
 でも私、ずっとこうしたかったの。
 ナナちゃんをぎゅうって抱きしめてみたいなぁって」
「驚き、ますよ」

上擦りそうな声を何とか抑えて、ナナセはどうにか答えた。
何しろ驚きすぎているせいで、会話に応じるだけでも精一杯なのだ。
だが、ランカの行動は、抱き締めるだけには留まらなかった。
ナナセの、同級生と比べても大きい方である胸に、頬を摺り寄せてきたのである。

「……ごめんね、私、ナナちゃんを困らせてるよね。
 でも、ナナちゃんもいけないんだよ。我儘言っても良いって言うから。
 そんな事言われたら、甘えたくなっちゃう。……期待、したくなっちゃうもん」
「別に、困ってなんか」
「そう? だったらもっと、困らせちゃうような事、言うよ?
 あのね、ナナちゃん。私、ナナちゃんが好き。ナナちゃんの彼女になりたい」
「好き? ランカさんが、私の事を?」

あまりに想定外過ぎて、ナナセの思考が追いつかなくなる。
自然、無口になったナナセの様子を、ランカは否定の意と受け取ったらしい。
唐突にナナセの背中から手を放して、距離を取る。

「やっぱり、これは流石に困っちゃうよね。ごめんなさい。
 でも、ナナちゃんを好きなのは、本当なの。
 ……ごめん。おかしいよね。忘れちゃっても、いいから」
「忘れません」
「え?」
「大好きな人から、好きだって言われたんです。忘れられる筈、ないじゃないですか」


恋焦がれた人が、同じように自分に恋をしてくれていた。
届かない筈だったものに、手が届いた、確かな感触。
その喜びをもっと深く味わいたい、感じたい。
衝動のままに、ナナセは右手でランカの左手を、左手でランカの右手を捕まえた。

「大好きな人……って、私の事なの?」
「ええ、そうです。私も大好きです、ランカさんの事」
「ホント? 冗談とか誤魔化しとかじゃなくて、本当の本当に?」
「はい、本当の、本当です」

ナナセが強く頷くと、ランカは掴まれる一方だった手を動かし、握手するような形に変えた。
2人は視線を交わすと、更に手の形は変わり、互いの指同士が絡まるような繋ぎ方になる。
自然と近づいたナナセとランカは、そのまま、口付けるかのように顔を密着させて。
けれど唇同士は繋げず、ただ頬を寄せ合った。
今はまだ、これで十分だというように。



おわり。

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最終更新:2009年10月31日 22:09
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