無題(2-695氏)

「寒い……」

小さく呟いた言葉は、夕方の空に消えていく。陽が沈みはじめて、あたりは一層寒さを増してきた。
さむいなぁ、と改めて呟いてから、流れていく人混みをちらりと眺める。待ち人は未だ現れない。
時計はすでに、待ち合わせの時間を15分ほど過ぎていた。

「……」

今日もあの人は遅刻のようだ。今まで一度だって待ち合わせの時間に現われたことはないけれど、自分はこうして待ち続けている。いい加減約束の時間の15分前についてしまうのはやめようと思っているのに、その時になると気が急いてしまっていけない。

「さむいなぁ」

人はこれだけいるというのに、待ち続けるあの人だけがいない。そのことがなんだか少し寂しくなって、変装用の帽子を目深に被りなおした。
自分自身では有名になったつもりなんてないから、いまだに変装という習慣がない。けれどお兄ちゃんもあの人も、過保護なくらいに言い聞かせてくる。それでもいまだ、目深に被るこの帽子に慣れていない。
視界が狭くなるし、何より背の高いあの人の顔がよく見えないからあまり好きではないと言ったなら、一体どんな顔をするのだろうか。

「……寒い」

もう何度目になるかわからない言葉を呟いたら、目の前にふっと影がさした。はっとして顔を上げると、目の前の人は穏やかに微笑んで、自分の首にそっとマフラーをかけてくれる。

「アルトくん……」

そっと名前を呟いたら、その人はひょいと肩をすくめて隣に腰掛けてきた。

「遠くから見えたから」

待ち合わせか?問い掛けながらポケットを探り、暖かい缶コーヒーを渡してくれる。
きっと手をこすり合わせる私を見つけて、急いで買ってきてくれたのだろう。
そんな優しい彼に、私はほんのり笑って、そうだよ、と返した。

「ありがとう、あったかいね」

苦いものはどうも苦手な私にはカフェオレを、自分自身はブラックコーヒーの缶を開けながら、彼は私の手に触れてくる。
冷たいな、と呟いてから、首にかかるマフラーを巻き直してくれた。


「どこかに入って待ってればいいだろう」

間近で歪む端正な顔に苦笑すると、彼はもう一度私の手に触れて、そっと体温を分けてくれた。
暖かい。

「でも、それで入れ違いになって、待たせちゃったら嫌だし」

大きな掌に包まれながらのほほんと笑ったら、彼は大仰にため息をついてやれやれと頭をふった。

「自分が待たされ続けてるって言うのに」
「うん、そうなんだけどね、でも」
「わかったわかった。もう言わないよ」

でもでも、と言い募る私の言葉を遮って、アルトくんは笑う。
その笑顔は優しくて、でもどこか呆れていて、私がわがままを言った時にお兄ちゃんが見せるものとよく似ていた。
大好きだなぁ、と思う。

「ふふ」
「なんだよ、変な奴だな」

思わず笑ってしまったら、彼は片眉を上げて、首をかしげる。
なんでもないよ、と返しながら、私は暖かいカフェオレをゆっくりと啜った。

「それにしても」
「うん?」
「なんでこんなに遅いんだ、待ち合わせの時間はいつだよ」

そんな私に肩をすくめたアルトくんが、ビルに掲げられた大きなモニターを見て低く唸る。
そのモニターでは銀河の妖精が歌っていて、その画面の右上にはデジタルの数字で「05:25」と表示されていた。


「えーと、五時、だったかな?」
「はぁ?!もう30分近くたってるじゃねぇか!!」

この寒空の中でそんなに長い間待ってたのか!
眉根を寄せて怒鳴るアルトくんを、何人かの人がちらちらと見ていく。
まぁまぁ、と宥めながら、本当は15分早く来ていたことは言わないでおこう、と強く思った。

「ったく、何やってるんだあいつは」
「うーん、何してるんだろうねぇ」

収録やライブリハに遅れた事は一度もないのに。
改めて誰かにそう言われると確かに、何をやっているのだろう、と思う。

「連絡は?」
「毎回ないよ」
「毎回?」
「あ……」

言ってしまってから、しまった、と口を塞ぐがもう遅い。
恐る恐る隣を見たら、青筋を浮かべたアルトくんがスチール缶を握りつぶすところだった。

「あんの、馬鹿野郎がぁぁああああああ~っ」

べこっ、という音に、ひぇえ、と首をすくめるけれど、そんな私にお構いなく、アルトくんはぶつぶつと何かを呟いている。
所々聞き取れた言葉はあったけれど、怖いので聞かないように心がけた。これはあの人と会ったら間違いなく喧嘩になりそうだ。
どうやってそれを止めようか考えて、少しだけ憂鬱になる。
ちらりともう一度アルトくんを見上げると、眉間に皺は寄っていたけれど、もう怖いことを呟くのはやめていた。

「何でこんなに遅れるのか、聞いたことあるのか?」

その代わり、私をじっと見つめて問いかけてくる。
その質問に首を振って返して、私は目を細めた。

「聞かないことにしてるの」
「ん?」
「私と居ない間のこととか、あまり聞かないことにしてるの」

そうして、見下ろしてくる端正な顔に、そっと微笑みかけた。

「縛りたくないんだ。あの人はとても自由奔放で、だからこそ軽やかで、綺麗で。それが私の大好きなあの人だから」

縛りたくないの。
再度小さく呟くと、優しい彼は私と同じように目を細めて、そっか、と小さく返してくれた。


「でも、あいつはそんなこと思ってないと思うぞ」
「そんなことって?」
「縛ってほしくないとか、軽い体でいたいとか」

きっと、もっともっと、貪欲だと思う。
そう、どこか思い馳せるように呟く横顔を見ながら、私は、そうなのかな、と考えた。
でも結局、わからないままだ。いつもいつも、あの人のことがわからないまま。

「もっと、聞いていいんじゃないか?」
「……」
「あいつもそれを望んでると思う」

諭すようにそう言って、アルトくんは笑った。
その笑顔にいつも勇気付けられている自分は、そんな彼になにを返してあげられるだろう。

「あいつから、相談されたことがある」
「え?」
「お前のこと。何も求めてこないって。ただ無欲に、自分の望むことだけを叶えてくれるって。自分のことが、本当に好きなのかな、って」
「そんな!好きに決まってるよ!」
「だよな。俺もそう言った。でも、あいつは」

そこまで言ってから、アルトくんは、冷めてしまった私のカフェオレをそっと奪い取り、代わりにもう一度この手を包み込んでくれる。
いつだったか、男の人の手は冷たいと聞いたことがあったけれど、そんなことはないな、と、今彼の手に触れながら思う。

「俺さ、あいつが遅れてくる理由、少しだけわかるような気がするんだ」
「アルトくん……」
「俺はまだ、そういう人に出会ってないけど、でも、あいつの気持ちはなんとなくわかる」

繋いだ手から感じる温もりは、かつて切望したものだった。
けれど今は、この場に現れてくれないあの人のことを想う。

いいんですか。私、アルトくんと浮気しちゃいますよ。

思いながら、なんだか少し泣きたくなって、私は俯いた。
本当に好きでいてくれるのか、なんて、私の方が聞きたい。何を思って一緒にいてくれるのか、私に何を求めているのか。
かつて夢見たあの人は、捕まえているのかどうかすらわからない。捕まえたと思っていて掌からすり抜けられてしまうのが怖いから、初めから隙間を作って、逃げ出されても気付かないようにしている。

「もっと、貪欲でもいいんじゃないか。お前は少し、遠慮しすぎだ」

それで二人とも不安だったら、元も子もないだろ。
落ち込み始めた私にそう言って、アルトくんは冷えた手を温めるように、私の手をゆっくりさすった。
その仕草がなんとなくお母さんみたいで、心がほんのり暖かくなる。


「やさしいね、アルトくん」

微笑んでそう言ったら、彼は微苦笑をして私の頭をぽんぽんと撫でた。

「あぶなっかしいんだよ、お前は」

思考も、行動もな。
そう言ってから、私の背後に一度だけ鋭い視線を送る。
振り返ってみたけれど、そこに何があるわけでもなく、不思議に思って彼を見たら、何も言わずにただ肩をすくめただけだった。

「さて、俺はもう行くかな」

そうしてからフラリと立ち上がり、もう一度私の頭を撫でる。
缶コーヒーのゴミをまとめて持ちながら、コートの襟をそっと立てた。

「もういっちゃうの?」
「これから訓練なんだ、それにお前の待ち人も来たみたいだしな」

そしてゆっくりと歩きだした彼を追って視線をめぐらせたら、その肩越しに、近づいてくるあの人が見えた。

「あ……」

嬉しくなって声を上げたら、その人は小さく手を振って微笑んでくれる。
シェリルさん、と言い掛けて、ここが往来であることを思い出し慌てて口をつぐんだら、そんな私の代わりにアルトくんが声を上げた。

「遅いぞ。何分待たせてるんだ」

苛立たし気な言葉にシェリルさんは一瞬足を止めたけれど、再度ゆっくりと足を進めて、アルトくんの前で立ち止まる。

「なによ、アルトのくせに私にお説教?」

強気な言葉にアルトくんは一瞬黙ったけれど、やがて押し殺したような声で低く呟いた。

「お前が遅いと、こいつが危ない目に合うんだよ」
「……どういう」
「連れていかれるところだったんだぞ」

最後の言葉は、よく聞き取れなかった。
けれどそれを聞いたシェリルさんが表情を固くして、気を付けるわ、と言うのを、はらはらしながら眺めていた。

「あの、二人とも」

やっぱり喧嘩になってしまうのかと思って声をかけたけれど、予想に反して、二人は小さく肩をすくめて笑っただけ。


「まぁ、これ以上やっても寒いだけだしな」

ぽかんとする私に噛んで聞かせるようにそう言って、アルトくんが振り返る。
綺麗に笑う姿を状況がわからないままに見上げてから、私は慌てて首元のマフラーに手を伸ばした。

「あ、マフラー」

急いでほどこうとする私の手に自分の手を添えてそれを制しながら、アルトくんが笑う。

「次に会うときに返してくれればいい」
「でも……」
「今日はつけてろ。毎度待ち惚けを食らわせる馬鹿へのいい御灸だ」

馬鹿への、のところに力を入れて、アルトくんは意地悪そうに笑った。
その横でシェリルさんが苦々し気に眉を寄せたけれど、結局口を開くことはしなかった。

「じゃあ、またな」
「うん、ありがとね」
「ああ」

そうしてアルトくんと別れてから、私はシェリルさんをじっと見上げる。
去っていくアルトくんの背中を見つめている横顔はなんとも言えない微苦笑で、それが優しげだったから、寂しくなってその手に自分の指を絡めた。

「シェリルさん」

名前を呼びながら手を引いたら、逆にその手を引かれて、指先に口付けられる。

「待たせてごめんなさい」

そうしてささやかれて、私は自分の頬が熱くなるのを感じた。

「め、ずらしいですね、シェリルさんが遅れてきて……謝るの」

その気恥ずかしさをごまかすようにごにょごにょと呟いたら、シェリルさんが苦笑して、そっとアルトくんのマフラーを解く。
代わりに、長い自分のマフラーの半分を私に巻いてくれてから、言いにくそうに二、三度視線をさまよわせた。

「うん、あのね」
「?はい」
「その、ありきたりで恥ずかしいんだけど」

珍しく言い淀むシェリルさんの、サングラス越しの瞳をじっと見つめる。
そうしていると、やがて観念したのか真っすぐに私を見て、頬を染めながら小さく囁いてくれた。


「待ってる間は、私のことだけを考えてくれる……でしょう?」

まるで秘め事を告白するように目を潤ませて、シェリルさんは言う。
ストロベリーブロンドがさらりと頬にかかり、表情に影ができる様がすごく綺麗。
うっすらと染まった頬が愛しくて、私はなんだか泣きたくなった。

初めて言葉にされた独占欲に、鳩尾の辺りがきゅぅーっとなる。
さっきアルトくんが言っていたことが本当で、それが夢みたいで、目の奥が熱かった。

「シェリルさん……」
「笑っていいわよ。幼稚な独占欲だ、って」

拗ねたように呟く言葉すら愛しくて、私はぶんぶんと首を振る。
この時の私の心の中は、きっとどんな言葉を尽くしても語りきれない。それくらい嬉しくて、照れ臭くて、愛しくて……。
寒かったでしょう、考えが及ばなくてごめんね。そう言ったシェリルさんを、すぐにぎゅっとしたくて仕方なかった。

「でも、もうやめるわ」

その代わりにつないだ手をぎゅっとしたら、シェリルさんも同じようにぎゅっとしてくれて、それが嬉しくて心がほわほわする。
嬉しさを隠し切れずに笑ったら、同じように笑ったシェリルさんがそっと囁いた。

「貴女を誰かに取られちゃったら本末転倒だし、ね」

そうして悪戯っぽく笑って、シェリルさんはアルトくんのマフラーを丸める。そして、そのまま自分の鞄にしまってしまった。
その様子をぼんやり見ていたら、つないだ手がそっと引かれる。
逆らわずに一歩踏み出すと、ゆっくりと背中に腕がまわって、優しく抱き締められた。

「恥ずかしいけど、言うわ」
「はい」
「ずっと私の傍にいて」

そうして耳元で囁かれる言葉に、はい、と返事をする代わりに、私もシェリルさんの背中に腕を回して、ぎゅっとその体を抱き締めた。
鼻先をすり寄せた首筋からはいつものシェリルさんの香りがして、それだけでこんなにもこの人が愛しく思える自分のことを、少し誇らしく思った。

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最終更新:2009年11月28日 23:38
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