最近は節電対策だとかで日中であってもエアコンを付けない、あるいは設定温度を抑える家庭がとても多い。そういう理由もあって、ここ美樹家においても、現在ではそれらは使われておらず、開けっ払って網戸を張った窓と、少しでも空気の流れを良くするため首振りで回る扇風機が使用されている。いつ買ったのかも定かではなく、物置の中に置きっぱなしであったものであるから、ルーターの発熱が少々心配な代物であった。
気温は優に35℃を上回っている。全身からにじみ出る汗のせいで、本来であるならばふんわりとした涼しげなデザインのワンピースは、背中にべったりと張り付いて不快な気分にさせる。午前中から午後すぎにかけて、市民プールで涼んで来たという事実が掻き消えてしまいそうなほどの不快指数であった。しかし、節電は美樹家の意向であり、完全にエアコンなしでこの夏を乗り切る体制に入ってしまっているこの家の現状を鑑みるに、ここで安易に冷房を入れてしまうのは躊躇われた。親友は点けても構わない、むしろ点けてと冗談めかして言ったが、常日頃からこの暑さを我慢している親友に合わせて、自身も耐えることに決めた。
――無理しない方が良かったかも……。
今となっては割と後悔しているのだが。
鹿目まどかは、美樹家のリビングにて今月発売の少女漫画を読みふけっていた。その漫画は、ありきたりな絵柄と月並みな内容の陳腐なものであった。野暮ったく鈍くさい、そしてとてもシャイな少女が主人公で、高校の登校初日にちょっとしたトラブルに巻き込まれる。彼女は颯爽と現れた美形の男子生徒に助けられ、そのことがきっかけで彼に恋心を抱く。しかし彼はイケメンで気立てがよく、瞬く間にクラスの人気者となる。少女は男子生徒に対して恋心を募らせる一方だが、自分に自信がなく、生来の臆病気質からかける事すらできない。一方で、その男子生徒も実は彼女を意識していて……という、王道まっしぐらな品だ。奇天烈な物語や、妙なキャラクタライズをされた登場人物たちが氾濫する昨今の漫画業界においては、逆にこういった作風が読者にも受けるのかもしれない。
まどかはこの漫画が嫌いではなかった。ただ読むだけではなく、実際にまどか自身の心情と照らし合わせ、どきどきしたり、時々涙ぐんだりしながら、ゆっくりと噛み締めるようにページをめくる。表情がころころ変わるので、彼女の顔を見る者がいれば、きっとその可愛らしさに顔をほころばせずにはおられないだろう。
悲喜こもごも、様々な感情を抱きながら漫画を読み進めていったものの、まどかは遂にこの一冊を読み終わってしまった。ふぅ、と万感の思いを乗せたため息をつく。この漫画の大筋は、勇気を振り絞って告白しようと試みる少女が、周囲のゴタゴタにまかれて結局機会を逸してしまうという流れの繰り返しだ。しかしこの巻の最後では、夕日と、広がる街並みをバックに少女がとうとう告白を成功させる。その顛末は次の巻での乞うご期待、といった調子だった。
読み終わってまどかは考える。自分にも、好きな人はいる。その想いを伝えられればどんなにか気が楽になるのだろう。しかし、それは口に出すべきではないし、また出してはならないものである。そのことを、まどかは知っていた。
――さやかちゃん。
まどかは、美樹さやかのことが好きだった。その意味は友人への親愛の情ではない。本来であれば、異性に向けられるはずの恋愛感情である。
弾けるような笑顔が好きだった。かばってくれる背中が好きだった。力強く引いてくれる手が好きだった。ふと見せる、自分なんかよりずっと女の子らしい仕草が好きだった。どこまでも真っ直ぐで、どこまでも友達想いで、どこまでも凛々しくてどこまでも繊細な、そんなさやかのことが、まどかは大好きだった。
――好き、なんて言ったら、さやかちゃん、困っちゃうよね……。
だから仕舞っておくのだ。言って、破たんするよりは、この胸が締め付けられるような、しかし、とても居心地のいい関係に収まっておくのが最良だ。絶対に表に出してはならない。こうまで想ってくれる「親友」に、手前味噌の恋愛感情を押しつけてはならない。まどかは、そう誓った。
しかし、夜になると夢想せざるを得なくなる。耳元でささやかれる愛を、重ねられた唇を、交わる身体を、決まって夢想した。
決してかなわない恋。叶えてはならない恋。自分は異常なのだと、幾度も言い聞かせた。親友は、普通に男の子が好きで、自分はそれを心から応援する。それで良い。それでも――、
――想像の中でくらい、さやかちゃんの恋人でいたい……!
からん、と、卓上のグラスに注がれた麦茶、その内に浮く氷が音を立てた。
物思いに沈んでいる間に随分と時間が経ってしまっていたようで、網戸越しに注がれる陽光は、すっかり橙色に変わっている。あれほど騒々しくはしゃいでいた蝉の鳴き声も今では静まり返り、ただ秋の訪れを告げる鈴虫の音が響いている。
タイマー式の扇風機は止まってしまっていた。
まどかは、横のソファでいつの間にか眠りに落ちていた親友の姿を見る。先ほどまで読んでいたはずの週刊少年誌を広げたまま胸の上に置き、ゆっくりとそれを上下させていた。
一切の警戒心もなく、無防備極まる体で眠っている美樹さやか。同年代の女子としては少々大柄で、しかし、全てのプロポーションがバランス良くまとまった肢体は、まどかにとっては見慣れたものだ。その面倒見の良い性格、その豊満な体つきと整った顔立ちから、さやかが男女を問わず人気者であるという事を、まどかは知っている。他のクラスメイトや、下級生から頼られ想いを寄せられるさやかを見て、まどかは誇らしいと思う反面、少々の嫉妬を覚えた。だが、こうまで無防備な表情を晒して眠っているのは、きっと自分の前だけなのだろうなと思うと、まどかは少しの優越感を味わった。
と、そんな想いを抱きながら眺めるまどかに、安らかな寝息で眠るさやかの額から、つう、と一筋の汗が流れて落ちるのが見えた。
まどかは、ごくりと、生唾を飲み込んだ。
それは暑さのせいか、それとも凝縮された想いによるものか。その時、普段のまどかならば、絶対に抱かない感情が芽生えてしまったのだった。それはつまり、さやかの額に流れる汗が、この世に存在する全ての飲料よりも、なお素晴らしい、グローリアスなものに思えたというもので、まどかの心中は、それを味わいたいという感情で支配された。それに歯止めをかける意識など微粒子レベルですら存在せず、すぐに行動に移すべく、まどかはゆっくりと立ち上がった。
静かな足取りでソファへと近づく。跪いて、さやかのおでこに唇を近づけると――、
ちぅ
と、静かな音を立てて汗を吸い取った。次いで、
ちろり
と、微かな音を立てて汗を舐め取った。
しょっぱい、しかし、ただの塩水などとは明確に異なる味が、まどかの口内に広がった。なんと形容すればよいのだろう。まどかは、人体から染み出したその汗の味を、的確に表現するだけの語彙を持たない。ただ強いて言うなら、それは「さやかちゃんの味」であり、それ以外には表現できないものだと、まどかは思う。
ふ、と意識がスライドする。途端に、まどかの顔は朱に染まり、耳まで真っ赤になった彼女は思わず立ち上がった。
口を手で覆い、目は焦点を合わせていない。
――なんで、さやかちゃんの汗を、舐めたいなんて、味わいたいなんて、思ったんだろう!
まどかは絶句し、言葉が出ない。これではまるで自分は変態のようではないか。もちろん、同性に恋をしている時点で、一般人とは異なっているという自覚はある。しかし、これはあまりにも、あまりにも――!
まどかは、自分の行動を白昼夢だと結論付けたかった。一瞬のまどろみの間に見た、恋慕の夢。そんな夢を見る時点で、変態であるのには変わりはないのだが、それでも現実であるよりは幾らかはマシだ。
しかし――、
口の中に今も残る残り香は、まどかの行動が現実の行いであるということを如実に表していた。
最終更新:2011年10月02日 23:10