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a.
よく言われることで、大人と子供とでは見えている景色が違うのだとか。それは、例えば身長的な意味だったり、例えば眼の水晶体の劣化によるものだったりと、物理的な意味合いもとても強いのだろうが、一番大きな要因は、やはり気の持ちようなのだろう。
何にでも強い好奇心を示して、責任や、その他一切の重荷をすら背負うことなく自由を謳歌できる、そんな時期には、目に映る全てのものが、たいそう光り輝いて見えるのだ。
永遠とすら思えるその時間は、実際にはほんの数年、物心ついてから何かを背負わされることとなる、ほんの数年の間だけ存在しえる、貴重で、大切な時間なのだろう。
そんな大切な時間に、恐らく自分にとって最高の親友の一人と一緒に過ごせたというのは、鹿目まどかにとって、それは素晴らしい幸せに思えた。
小学校5年生の8月、彼女ら、つまり、鹿目まどかと美樹さやかは、一つの不思議と出会ったのだった。
その年の見滝原は、編隊を組んだ航空機による爆撃を思わせる日中の暑さと、静まり返った水面のような日の入りの寒さとが同居した、とにかく過ごしにくい陽気だった。そのせいで体調を崩しがちになってしまい、夏のイベントに軒並み参加できなかったまどかは、見滝原に転居して以来初めてできた友人のさやかが、自分に愛想を尽かしてしまうのではないかという恐怖心に追われ、またさやかも、風邪をひいて寝込みがちの友人に何もできないでいる自分がたいそう腹立たしく、そういう互いにすれ違ってばかりの年だった。こういう良くないことばかりが起こってしまう年も、そうそうあるものではないだろう。
やっとまどかが外出できるようになったのは、既に夏休み終了の4日前で、殆ど手を付けることができないでいた夏休みの宿題を泣きながらやったことが、彼女の頭の中に印象強く残っている。後にも先にも、宿題をさやかに手伝ってもらったというのは、この一度きりだった。
宿題が終わったのは、2日後、つまり夏休み終了の2日前の夕方だった。もう残されているのは最終日だけで、せっかく最後なんだから精いっぱい遊ぼう、と、夕方の「夕焼け小焼け」が放送される時間まで、みっちりと出歩くという夏休み最終日・見滝原名所案内スケジュールが、主にさやかの手で組まれたのだった。未だ転居してきて間もなく、右も左もわからないようなまどかは、そのスケジュール表を見て、どんなところに連れて行ってもらえるんだろう、と眼を輝かせたものだった。
翌日は、気温がそれほど高くならないうちから家を出て、待ち合わせ場所の公園へと急いだ。さやかの普段感じさせるルーズさは、ことまどかに関しては発揮されないことが多く、この日も彼女は、まどかよりもずっと早く公園に着いていて、待ち時間に缶ジュースをぐいぐいやっていた。もちろんそれは、家からの距離などといった諸々の事情もあるのだろうけれど、それでもさやかは、転入してきたばかりのまどかに不安な思いをさせたくないと、いつもまどかを気遣って動いた。今日だって、本当ならさやかは、まどかの家へ迎えに行くと言ったのだ。それはさすがに申し訳ないと断ったのだけれど、そうやって気遣われることは、守ってもらえる喜びと、情けない自分に対する苛立ちとが、9対1で混じった複雑なものだった。
その日の散策は、午前中の部からとても素晴らしい走り出しと言えた。さやかが連れて行ってくれるのは、当然と言えばそうなのだけれど、まどかの知らない景色、まどかの知らない世界だらけで、その全てが煌めいて見えた。
緑に輝く芝生に覆われた小高い丘や、風鈴が沢山吊る下げられたガラス工房、ネコの集会場に、複雑な紋様が壁面に描かれたマンション。
それらの全てが、葉っぱの裏側に偶然見つけてしまった巨大な芋虫といったハプニングも含めて、とても素晴らしいものだった。
そう、まどかにとって、世界は光に満ちていた。それは、自分の手を優しく包み、それでいて力強く引いてくれる友の後ろ姿も例外ではなく、短く切られた髪の下にあるうなじも、ごくごく自然な、慣れたフォームで走る彼女のダイナミズムも、つまりは美樹さやかという彼女の総体が、事実として、輝いて見えたのだった。
とくん、と心臓が高鳴った。
その時はまだわからなかったその感情が、恋なのだと自覚できるのはもう少し先の事だ。
ともかく、当時まどかが感じたそのときめきは紛れもない事実で、その強さのあまり彼女の頭を打ち始めた雨粒にも気づかないほどだった。
そう、雨粒。急に湧いて出た入道雲は、ゴロゴロと特有の雷音を立てて頭上へ立ち上がり、そこからパチンコ玉サイズの雨粒を打ち下ろした。
痛みすらも感じる水のつぶての群れ群れには、殆ど病み上がりなまどかはもちろん、元気な風の子を象徴するようなさやかでさえも音を上げた。彼女らは、すぐさま近所の、しぶきが防げる路地裏へと逃げ込む羽目となってしまったのだった。
横殴りの雨は、ビルの壁に挟まれた狭い路地には入っては来れない。それでも、吹き付ける強い風は、壁に走るパイプを頼りに笛を鳴らす。不気味な重低音にしかならないそれは、未だ小学生だったまどかとさやかの不安を煽りたてるには十分すぎて、二人はその身を震わせることとなった。
びゅおおおお、と響く音は、強く湿った風を伴って襲い来る。その暴威から逃げるように、二人は入ってきた方と反対方向へ走った。
薄汚れた路地裏は、それだけで陰気で、動けば動くほどに髪をぼさぼさにし、着衣を埃に塗れさせた。まどかの白いワンピースはネズミのような色になってしまったし、さやかのTシャツとハーフパンツは泥だらけだ。それでも、それを気にする余裕もないほどに、彼女らには、打ち付ける風が、打ち鳴らされる音が、怖かったのだ。恐ろしかったのだ。そんな状態でもなお、まどかを先導して前を走るさやかは流石だったのだけれど。
二人は走って、走った。
息は上がり、肺が、埃臭い湿気で満ちた。
本来なら、人が通行するはずのない狭さに、肘がこすれ、血が出るように痛んだ。
それでも、二人は走り続ける。
さやかが手を引いて、まどかが、転びそうになりながらも、それに続く。
考えてみればおかしな事ではあるのだ。
なぜ、自分たちはこうまで長時間、一直線に伸びる路地裏を走り続けているのか。まどかは、半ば酸欠気味となった頭でぼんやりと思う。
もしかしたら、二人は永久に出られない迷宮か何かに迷い込んでしまったのでないかと、そんな考えが頭をよぎった。
もちろん、そんな魔法みたいなことはありっこない、と最近の子供にありがちな、リアリスティックな思考でそれを否定する。それでも――、
まどかは、唐突に眼をつぶった。
あまりにも眩しい光の中に、急に飛び込んだからだ。
酸欠の中の思考のせいで、出口に近づいていることに気付いていなかったのだ。まったくの無防備で、急に明るみの中に入れば、薄暗さに慣れた眼はパニックを起こして、視えなくなるのは当然だ。
うっ、と呻いて顔を覆う。片手は未だ繋がれていたので、それが出来たのは、もう片方の手だけだった。
その片手は、雨の匂い、埃の臭いがした。
もう片方の手は、どんな臭いなんだろう、とまどかは一瞬思った。
水晶体が急激に緩む独特の感覚がようやく落ち着いてきて、まどかはゆっくりと目を開ける。そういえば、普段なら呻いた段階で絶対に心配になって声を掛けるだろう友が、今に限っては無反応だった。
いったい何が起きているんだろう、と前を向いて、驚いた。
さっきまで、親の仇のように降り注いでいた雨と、その原因の積乱雲は影も形もなく、天にはこれ以上は蒼くならないだろうという澄み切った青空があったからだ。
そして、その下にある街並みは、最近になってようやく慣れてきた見滝原の町並みとは、明らかに様相を違えるものだったのだから。
赤と、白と、青と。様々な色のレンガが放射線状に敷かれ、模様を結び、それはさながらヨーロッパの聖堂前広場のよう。周囲の建築物も、まどかのよく知るビルディングとは違う、やはりレンガで造られたとんがり屋根の西洋建築物だった。
遠近法が良くわかるような、どこまでも続くこれまたレンガの道路の先には、あろうことか地平線が見える。
もっと印象的なのは、その道路の両脇には、様々な、カラフルなライトアップがなされた露店がいくつも展開されていて、見たこともないような料理、道具、玩具が売られていることだった。売り手も買い手も、どことなく異国情緒のある服装をしている。まどかは思わず目を丸くした。
当然、さやかもそうだったのだろう。声を掛けてくる筈がなかった。
「見に行こうよ。」
握る手の力を少しだけ強くして、さやかが言う。
まどかは躊躇した。確かに、目の前の町並みはとても魅力的なものではあるのだけれど、こんな見たこともないような場所にこれ以上足を踏み入れるのは、とても危険な気がしたからだ。だが、
「うん!」
何も、こわがることはないんだ。だって、わたしにはさやかちゃんがいるんだから。こうやって、わたしの手を引いてくれる、さやかちゃんがいるんだから。
まどかは、たぶん今までで一番明るい声で、返事をした。
b.
赤ら顔の、とある国民的子供向けアニメに出てくる、パン工場のおじさんのような顔をした人から、長さが50センチはあろうかというホットドッグを1本だけ買い、それを二人で変わりばんこに食みながら、まどかとさやかは歩いた。
普通なら、こういう未知の場所に来れば、心細さや不気味さを感じるものだろう。特にそこが、自分の知る街とは全く違う、そういう異次元のような場所ならなおさらだ。でも、そこは不気味さなんて欠片もない、そういう場所で、どこからか流れてくるバグパイプ――まどかはその時、その音がどういった楽器で奏でられるかは知らなかったが――の音色と、人々のどこか牧歌的な喧騒は、不安どころか、来たるべきワクワク感とドキドキ感をひたすらに煽り立てた。
アルコールランプであぶられた、透明な橙色のガラスポッドの中で、液体がごぼごぼと気泡を生み出す。曲がりくねった金属管から、蒸気が噴き出した。
タンバリンを持った猿の人形が、けたたましい音を立てて両手のそれを打ち鳴らした。
黄色い粉や、見たことのない香草で彩られた焼き魚を、おいしそうに食べる少年がいる。
瓶詰の野菜があった。嗅いだこともないスパイスの香りがあった。吊る下げられた肉の燻製が、煙を出す香炉が、並べられた陶磁器があった。
それらの全てが、まったくの「不思議」で、まどかの胸は心から踊った。もちろんそれは、さっきから手を握りっぱなしの、初恋の相手がいたからなのだろうけど。
「やあ、どうしたんだい、お嬢さん方。肘を擦り剥いているじゃないか。」
突然に話しかけてきたのは、黒い山高帽をかぶって、黒い燕尾服、黒いネクタイ、そして白いワイシャツを着た、白髭の老紳士だった。
「血が出ているなぁ……。いかん、いかんよ。女性は肌を大切にしなけりゃぁ。」
そう言って老紳士は、手に持った、これまた黒い、そして随分と古そうな革張りのトランクをぱかっと開けた。そして中からアロエの鉢植えを取り出すと、その肉厚の葉の一本をパキッという快音とともにへし折って、さやかに差し出した。
「アロエは傷に良い。少し、傷は乾いてきてしまっているが、それでも効果はあるだろう。」
「……ありがとう、ございます」
見知らぬ老人に話しかけられ困惑し、なぜトランクにアロエの鉢植えが入っているのかという疑問に囚われていたさやかではあったが、それでもお礼を言ってそれを受け取ると、
「ほら、まどか。肘見せて。」
「へっ!?」
「あんた、血ぃ出てんでしょ。傷に良いらしいから、つけてあげる。ほら、肘。」
「でも、さやかちゃんも血が出てるよ……。」
「あたしは良いの!ほら、まどか!」
「ううむ、感心だ。君には紳士の素養があるな。桃色の、君。そう、君だ。彼女はいい子だ。良い、友達だ。大事にしなさい。」
感心し、唸り、言われるまでもないアドヴァイスをして、老人は去って行った。トランクに入っていたはずのアロエを抱きかかえながら。
去っていく彼に、ありがとうございまーす、と大声でお礼を言って、さやかはまどかの傷を見た。
それほどひどい傷ではない。砂で擦ったように、皮膚には線状の血が浮いている。さやかがそこにアロエの断面を塗り付けると、ひんやりと気持ちよく、感じていた、チクチクとした痛みが嘘のように引いていくのが分かった。アロエは、さっきまで冷蔵庫に入れられてでもいたかのような、そんな心地よさだった。
おかえしにと、今度はまどかがさやかの傷にアロエを塗りたくる。傷は、まどかよりも少しだけ深かった。
「うおぉ、効くぅ!」
大げさなリアクションだが、先に体験しているまどかには、それはあながちオーバーな表現でもなかったように思われた。
そうこうしているうちに、空が薄暗くなってきた。先ほどまでの蒼は、今では、吸い上げられそうな、闇にも近い濃紺だった。
空の暗さとは対照的に露店のライトは明るさを増すが、それでも二人はもう、帰らなくてはならないのだ。
かなり歩き回ったはずなのに、二人が出てきた路地はすぐに分かった。レンガでできた家々とは不釣り合いに、その路地だけが切り取られたかのように、コンクリートの壁で出来ていたのだ。これ以上分かりやすい目印はないだろう。
まどかとさやかは、ここから出てきたときと同じように手をつないで、ただ、足取りだけはゆっくりと、細道へと足を踏み入れた。
30歩も歩かないうちに向こう側へ出た。行きは何分も走ったというのに、これほどまでに短い時間で、少し前まで大雨が降っていたのだろう通りへと出てしまった。
なにか、狐につままれたような気分で、上を見る。すっかり晴れた濃紺の空には、早くも一番星が光っていた。
その日、帰りが遅くなった二人は、特に咎めを受けることもなく就寝することとなった。まどかは今までずっと病気で臥せっていたのが理由で、さやかは、まどかの家から連絡が行っていたからだ。
まるで幻想の中にいたかのような半日間の体験は、冷蔵庫に放り込まれアロエがその事実を証明していた。
c.
パタン、とアルバムを閉じるように、思い出の記憶を仕舞い込む。
あれから二人して何度も探したけれど、結局あの異国風の街並みを見つけることは出来なかった。きっと、あれは一度きりの体験、二度とは行けない幻の町だったのだろう。
しかし、とまどかは思う。
宝箱の中に入った干からびたアロエの葉は、今も健在で、もしかしたらもしかするかもしれないなぁ、と。
そうだ。少なくとも、今、この世界では。
あの、二度と見る事のなかった街並みが、蒼い空が、レンガの家々が、ひょっとすると見つかるかもしれない。
「まどかぁー、おひるごはん、出来たよー!」
そう呼びかけるお婿さんに、今度提案してみよう。
また、あの町を、幻のあの場所を、二人で探しに行こうよ、と。
あの、思い出の場所へと通じる路地を、捜しに行こうよ、と。
「うん!すぐ行くよ、さやかちゃん!」
あの時と同じような、底抜けに明るい声で、まどかは返事をした。
全ての希望を抱いた少女たちが住まう、この楽園の地は、あの日まどかが感じたのと同じように、どこまでも輝きに満ち溢れていた。
[了]
最終更新:2011年10月11日 23:28