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744 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 18:49:22.19 ID:nIkY97zm0 [1/4]
甘々SSの続きが来る前にクリさや投下しとく


 そこは天国なのか地獄なのか、さやかには全く判別できなかった。
 普段いかめしい顔ばかり見る有名人に政治家。そんな人々までがまるでこの世の天国を見たかのように幸せそうに、羽毛を彷彿とさせて横たわっていく光景は天国にも見えたし、最後の一人までも倒れて回るテレビカメラが写し続けるひたすらの寂々は、地獄のように不気味な恐ろしさを醸し出してもいた。
 見滝原、いや日本、いや世界に及ぶかもしれない。そんな底の知れなさを抱かせる真っ黒な山をテレビカメラが写しだしたのは、見滝原を襲ったスーパーセルが突如として収まった直後。入れ替わるように現れたそれは、籠のように編まれた巨大な体を、まるでその様から竹冠を取ったような勢いで伸びて、文字通り全てを包み込み、幸せな地獄を創りあげていた。
 ……杞憂、という言葉がある。
 空が落ちてこないものかと心配で夜も眠れなかったという人を笑ってできた言葉だと言うけれど、その人が空を見ればまさに今がその時だと思うだろう。
 しかしさっきまで、……幸せそうに倒れるまで、テレビカメラのアナウンサーが声高に叫んでいた内容と、今の見滝原の様子は少し違っていた。
 見滝原における被害者は、スーパーセルを受けてのものだけ。あとはまったく無事だった。さやかが避難した見滝原中学の体育館から、住んでいたマンションに至るまで。親と周りが許すならさやかはこのまま家に帰って、冷蔵庫に残してきたとっておきのプリンをつまむこともできそうなくらいだった。
 このホールを中心に、見滝原を囲うように数キロ。その外はもはや編み込んだ数が多すぎて真っ黒になっている壁に阻まれ、それに触れると「導かれてしまう」らしかった。もっともその半分はスーパーセルの被害を受け、水に沈む瓦礫しか残っていなかったけれど。
 スーパーセルが消え、”黒い山”も襲って来ない安全地帯。それを認識した人々がちらほらと外に出て、とても戻れない日常を取り戻そうと嘆いては立ち上がる。
 黒い”壁”に触れて「導かれた」人を見て一時はその数を減らしたものの、触れなければ安全ということで少しばかりの、……すずめの涙ほどの平穏を取り戻す。
 なぜここだけが無事なのか。そんな大人の声をさやかは聞く。
 けれど、人の理解を越えたこの”山”あるいは”壁”に、理由を求めても答えなんて出るはずがない。
 そんなこと考えたって仕方ないのに。さやかは心でひとりごちて、また一歩踏み出し、空を仰いだ。
 けれどもそこに空は見えず、テントのように守られたこの黒い”山”の天辺が見えるだけ。それでも真昼のように明るいのだから、この”山”に意思があるとして、その待遇は悪くはない、のかもしれない。少なくとも、小さな子供みたいに回らない頭で、それでも何とか頑張ろうとした意思は感じる。
 そう、感じる。けど。
 ここだけ取り残されても困る。冷蔵庫にはいくらか食べるものもあるだろうけど、それが尽きれば、あたし達は死ぬしかない。
 餌も与えられずに閉じ込められ、見守られるだけのかよわい子猫。
 一度は風切り羽根を切って閉じ込めたカナリアに鳩の羽を繋げて空に飛ばそうとするような、……そんな。
 黒い壁に触れさえしなければ安全だと知った大人のうちの二人だった両親は、一旦は共に避難所から出たさやかに戻るように言って家に向かった。食料と寝具を運ぶために。
 しかしさやかはじっとしていられない性分で、その上気がかりなことがあった。
 別の避難所にいるまどかとほむら。
 恭介と仁美には幸いまだ携帯が通じた。ユウカや中沢は避難所が一緒だった。クラスの中でも多い方と言えるだろうさやかの友達は全員無事だった。まどかとほむらを除いて。
 ほむらは今どき携帯を持っていない貴重な子で、まどかには通じなかった。
 家族ぐるみの付き合いということで教えてもらって電話した、まどかのママの言葉が頭から剥がれない。
 あの子はスーパーセルの中出て行った。止められなかった、……止められなかったんだ。
 思い返す度に、さやかの胸に突き刺さった。
 だって、あれは。
 何があっても笑い飛ばし、あまり両親が家にいない、または両親には言えないこどもの悩みを抱えて相談するさやかを、しっとり胸に染みる優しい声で励ましてくれた、頼りになる、力強いまどかのママの、……嗚咽だった。
 ――なんで、なんで。アタシはあいつを行かせちゃったんだろうな。
 聞こえないと思ったのか分からない。信じられないくらい細い声で呟いたその声を、さやかは最期まで忘れなかった。

 早くなる足取り。スーパーセルに呑まれた場所まで辿り着くのに時間はかからなかった。
 漫画やアニメでよく見る光景で、けれどそれは現実で。
 文字通り全てがひっくり返り、水に浮く瓦礫しか残っていない。津波も地震も起こっておらず、ただそれに呑まれただけなのに。ゴジラが現れて荒らして行ったと聞いても、きっと信じられる。あれは海から来るもので、さやかの住んでいる県そのものに海はないけれど。
 ――絶望って、こういうものなんだろうな。
 身近なことなのに妙に他人事に感じてしまうのは、自分の居住地や友人が幻のように無事だからかもしれない。
 それとも。単に現実逃避しているだけかもしれない。
 見滝原は最近開発された地方都市。立ち聳え並ぶ真新しいビルをも砕き、水に沈めるスーパーセル。……まどかが無事な確率は極めて低い。
 生きていたとして、腕の一本、足の一本を失った姿でいることも覚悟しなければならない。それどころか、真っ赤な塊になって、見つけたとしてもそれがまどかと認識できないかもしれなかった。
 自分の想像に、喉が吐きそうに疼く。
 熱くなりかける目じりを、何度もまばたきすることで無理矢理抑え込む。
 ……震える手は、辛うじて握りしめて。
 体力は有り余っているはずなのに、動きたくないと拒む脚を奮い立たせて。さやかは歩いた。
 ローファーが水の中で心地の良くない感触に包まれるものの、がれきを踏んで怪我するよりは何倍もましで。
 膝ほども浸かっていないのに、今のさやかは鮪だった。
 足を止めれば、後ろを向けば。……まどかはもう。
 ――鮪は、最速にして水中を時速80kmで泳ぐという。
 そんな速度で泳いでいれば、勿論急には止まれない。
 今のさやかも、例外ではなかった。
 ほとんど茫然自失としていたさやかは、普段には有り得ない失態を犯した。
 「あッ」
 細い鉄線を剥きだした瓦礫に躓き、思わず手を伸ばした。
 目の前の、真っ黒な壁に。
 景色が反転して、目の前が妙にスローモーションになる。
 まどかを見つけられなかった。
 けれど、見つけられなくてよかったのかもしれない。
 わかってる。わかってる。けれど。
 ……見なければ、まだ信じられたから。
 思わず逸らした目の先に。
 さやかは見た。
 ほんとうにほんとうに綺麗なままで、けれど浅く水に沈んで。
 泳げないはずなのに何も。
 ぴくりとも動かない。
 ……一番大切な、友達の姿を。

 さやかは目を覚ました。
 見下ろした自分の手のひらはいつも通りで、ただその床だけが、さやかに言わせたたっくんくらいの歳の子がクレヨンで塗りつぶしたように真っ黒で。
 眩しさに見上げた空は、本物の太陽が輝いている。ふと、「導かれて」いったテレビの向こうの人たちの幸せそうな顔を思い出した。
 ……ここが、天国?
 左右を見渡してものっぺりとした真っ黒で、上には太陽が輝いているだけ。空は神々しいくらいの金色に染まっていて、そこだけは昨日と違っていたけれど。
 天国にしても妙なところ。
 さやかが首をかしげようとしたところで、それは迫ってきた。
 空が一度に黒に染まったかと思うと、だんだんと下降してくる。さやかの体が硬直し、息が止まる。
 しかしその黒はさやかを押し潰す前に収束し、横になった三角錐のような形を取った。……それでも三角錐の先ですら、どう少なく見積もっても昨日までさやかが授業を受けていた教室くらいはある。
 まさか。
 自他共に認める強い直感を頭から胸までに掛けて覚え、腰を浮かしながらももう一つの直感は告げていた。逃げることなどできない。
 ……これならまだ、黒い壁に取り込まれて「導かれて」いたほうがマシだったかもしれないって言うかもしかしてこれが「導かれた」人たちの末路なのかも。
 よく見ればさやかに覆い被さるその黒は手に似ていて、三角錐もよく見れば、人差し指だけを伸ばしている風に見えないこともなかった。
 けれども大きさは途方もなく違っていて、おそらく触れらるだけでもさやかはただでは済まない。
 現実逃避もかくやとばかりに周囲を見渡せば、背後の景色を四本の黒が格子のように分断している。
 さやかはゆっくりとつばを呑んだ。
 ……これは。手のひらの上だ。
 途方もなく大きい何かの。
 「指」の根元にいればおそらく格子状にそれらを見ることはない。つまりここはそれなりに「指」から離れていて、手首に近い位置のはず。ため息が出た。
 スーパーセル。黒い何か。そして、今の黒い何かの手の上。
 さやかの適応力は高い。それは自他ともに認めるところだけど、ここまで続くと頭が痛くなってきそうだった。
 逃げることは考えていない。大体逃げられないだろう。
 ……それに。
 さやかは人差し指を立てて覆いかぶさる「手」を見上げた。
 これに、害意はない。少し落ち着いて、直感が上手く働き始めていた。
 直感だけではないかもしれない。初恋の人にして恋人で、優しいけれどヴァイオリン以外にはとことん鈍い恭介でも、きっとすぐに気付く。
 仮にこの「手」に害意があるのなら、さやかは目を覚ます前に死んでいる。
 この大きさの差だ。「手」がさやかを殺そうとするなら簡単なことで、それでもさやかは未だに何もされていない。
 人差し指はさやかに触れようとして伸ばしたものだろう。けれど、その「手」は自分とさやかの大きさの差と、それに伴う行為の結果を理解したように動かない。少しずつ降りては、何かを伺うように、困ったように。
 勿論さやかにとっては天井に近い「手」が下りてくるのは怖かったけれど、その仕草を見ているとこれに何かする気はない、というのは思わずこぼれてしまう笑みとともに納得してしまうしかなかった。
 そして、――ここからは完全に直感。と言ってもそれなりの推理はあるけれど。
 「ここに」導かれたのはあたしだけ。
 「手」はさやかが見る限り、とても優しい。さやかと自分との大きさの差に、伸ばそうとした指を止めて考えあぐねるくらいには。
 そんな「手」が、何かを殺すとは考えにくい。
 たぶんこの「手」は、殺しているのではなく、ほんとうに「導いている」のだ。ここではない、どこかへ。
 そうして、その「どこか」はきっと。
 天国。
 ”導かれた”人の幸せそうな、まるでこの世の天国を見たような……そんな顔をいくつも見ていれば、そう想像するしかなかった。
 最初確かに、この手に押しつぶされるのが導かれた人たちの末路なのかもしれないと考えもしたけれど、「手」の事がある程度分かってからは、それは有り得ない、に反転していた。……それは親友のまどかが虫を殺した、と聞いていやそれはないでしょ、と即座に否定するのに似ていて。
 あの子は本当に虫の一匹も殺せない。部屋の隅でぬいぐるみを三体くらいまとめて抱いて怯えても、殺すことはできない。
 さやかがまどかの家に泊まりに行った時、偶然にも引っ越してからのこの家で初めて出たというアレ、……名前を聞くだけでもクラスの女子の半分は悲鳴を上げるだろうアレだ、が出てさやかがそつなく退治した時も、まどかは悲しそうにしていたのだからその優しさたるやこの世の中で生きていけるんだろうか、と余計な心配すら抱いたくらいだった。
 ……でも、まどかは。あの子は。
 どうして、スーパーセルの最中飛びだしていったんだろう。それが何を意味するか知らないほど、バカな子じゃないはずなのに。
 しかも、まどかのママが止めるのも振り切って。
 そこまで突っ走って、唐突に思い当った。……この「手」は、あの真っ黒な山のもの。
 ああ、あれだけ大きければ、あたしなんかありんこみたいなものかもしれない。逆の立場になって考えたら、あたしだってありんこを潰さずに触れるのは、ちょっと怖い。単にあたしがガサツなせいで、まどかなら優しく触れられるのかもしれないけど。
 さやかはその場に寝転がった。眠る時のように横に。
 地面にしている「手」がかすかに震える。動きはわかるらしかった。どういう理屈かは、……ちっちゃいありんこでも手の上を這われたらくすぐったいからそれと同じ何だろう。たぶん。
 「……ねえ、あんた」
 動きがわかるのだから、言葉も聞こえるかもしれない。
 けれど聞こえなくても、理解してもらえなくても、別によかった。
 ただ。……何か喋っていないと、知らないうちに、一番肝心な時に前に出て庇うこともできずに、あたしなんかよりよっぽど優しくて素直で頭もよくて、おしゃれで素朴で女の子らしくて。いい子になれるはずだった親友が、
 「あんたは、まどかも……ほむらも導いたの?」
 「手」はやはり答えなかった。
 「……あたしは、どうしてあんたに導かれないの?」
 この「手」が導くのが天国であるのなら、あたしは何か、罪深い事でもしたんだろうか。
 まどかを止められなかったこと?携帯を持っていない上に両親が家にいることもないほむらに気付いてあげられなかったこと?
 ……仁美から、恭介を奪い取ってしまったこと?
 例えようもなくせつなくなって、目を潤ませ丸くなるさやかの背を、何かがそっと触れた。
 驚きに目を見開いて、振り向こうとしても背中に柔らかい何かが当たっていて、仕方なく頭だけを振り向かせる。
 大きな大きな、真っ黒な指先が、慰めるようにさやかに触れていた。
 尤もそれは大きすぎて、さやかの目には壁が触れているようにしか見えなかったけれど。
 「……わかるの?」
 さやかは壁のようなその指先に、そっと手のひらを当てる。
 動かない指先に、微笑んだ。
 「あんたは優しいんだね」
 身体を起こして、寄りかかる。
 姿形は全く違うのに、それは。
 細やかに気を配って、慰めてくれる、親友の心遣いによく似ていた。

 けれどそんな心遣いも、かたちが違っては行き届き切らないことに、さやかが気付くのに時間はかからなかった。
 この「手」は、優しい。
 優しいけれど、その優しさはさやかの身体にまでは届かなくて。
 「……ごめんね」
 人間の、弱い体が恨めしくて。さやかはぽつりとつぶやいた。
 お互いに、何もできない。それは分かり切っていた。
 この「手」の上から逃げ出すことなんてできなくて、「手」も逃がす気はないようで、ある時さやかがこの「手」の端に行こうとしたら、押しとどめられてしまった。指の一本でもさやかには壁ほどあるのに、わざわざ手ごと使って。ビルのような壁が真っ正面にいきなりずどんと落ちてくるあの感覚は、しばらく忘れられそうにない。
 泣きかけたさやかを慰める程度には人の心がわかるくせに、端まで行こうとした途端その心うちも読み取ろうとする前に塞がれるのだからよほど逃がしたくないのだろう。さやかとしては、向こう側の景色を見たかっただけなのだけれど。
 こんな例外はあっても、この「手」は優しい。
 優しいけれど、それはやっぱり、一度は風切り羽根を切って閉じ込めたカナリアに、鳩の羽を繋げて空に飛ばそうとするような優しさで。
 「……雨、降らないかな」
 さやかは自分の骨ばった手を撫でて、小さくつぶやく。
 悲しい想像をして自分を追いつめて、流した涙で喉を潤すには、もう水が足りなかった。
 人は普通、水も何もなしで絶食すれば一週間で死ぬと言う。
 けれどさやかは少なくとも、28は金色が夜のとばりに沈み、新しく太陽が生まれるのを見た。
 一週間はまるっきり元気で、走りまわって「手」を慌てさせる余裕もあった。端に行こうとして止められたのも、この頃だ。
 二週間目になって、にわかにおなかがすいてきた。
 三週間目は、動くのをやめた方がいいかもしれないと思い始めた。
 そして、四週間目。……さやかはいよいよ、動けなくなってしまった。
 伸ばした手は太陽に透けて、か細い血管を映す。
 ……どうしてあたしは、飲まず食わずでここまで生きてこれたのか。
 それこそこの「手」の存在以上に、さやかにはさっぱりわからなかった。
 弱っていくさやかのことは「手」にも感じ取れているようで、何くれと気を使ってくれた。
 少しでも体力を使わないよう、さやかを立つのを嫌がり、それでもさやかが立って歩き倒れれば、すぐに支えてくれた。
 けれども、どうしてさやかが弱っていくのかは理解できないようだった。
 当たり前だろう、相手は食物の摂取など必要としない、生き物ともつかない何か。
 「手」からすれば、理不尽に違いない。小さな小さなものを、宝物のように優しく扱っているのに、刻一刻とそれは弱って、いまにも消えて行きそうにゆらめいているのだから。
 最近心配何だろうか、いつもそばに寄り添っている「手」の、壁のようでもどことなく柔らかい、不思議な感触をした指を撫でた。
 「ちょっと、寝るね」
 体力をこれ以上消耗したくなくて、「手」にも心配をかけたくなかった。
 金色の空はそろそろ落ちてきて、夜の帳が顔を覗かせていた。

 そんなふうにして、さやかはついに35回目の太陽を見た。
 「……ねえ」
 さやかは、小さく言った。
 生まれたての朝の陽が、さやかの青い髪をきらめかせながら薄い紫、あるいは金色に染める。
 「あんたはどうして、あたしを守るの?」
 たぶん、この星にもう命はない。テントのように守られていたあの空間の中にいた人も、人っ子一人残ってはいないだろう。
 まどかはもちろんのこと、どこに行ったかすらわからないほむら。人生の大半を片思いに費やして、やっとやっと結ばれた恭介。それを泣き笑いながら祝福してくれた仁美。泣いていたまどかのママ。まどかのママが嗚咽に沈んだ後、さやかを心配してくれたまどかのパパ。最後に電話を奪い取って、無邪気にはしゃいだたっくん。おそらく三人分の食料と布団を運んでくれた両親。天然ボケなユウカに、なんだかんだいって早乙女先生の無理難題を見事に躱していく中沢。
 きっと、みんな死んだ。あの中に守られながら、最後の食べ物も費やして。
 傲慢を恐れずに想像するなら、……それすらも。
 この大きすぎる存在にとってはありんこのように小さな、たったひとつを守るため。
 そうして、……さやかにとってそんなことをしてくれる存在は、「手」にとってのさやかと同じように、たった一人しか思い当らなかった。
 さやかの目から、涙がこぼれた。
 生温かいそれを頬に伝わせながら、小さく紡ぐ。
 ――なんで、なんで。アタシはあいつを行かせちゃったんだろうな。
 ……どうして、どうして。あたしはあんたに気付けなかったの。
 「……ねえ、あんた、……もしかして」
 さやかの身体が、ふっと黒をすり抜けた。
 「手」が、さやかを掬おうと伸びる。けれど何度手を下ろしても、さやかをその上に乗せることはできない。
 さやかはついに、編まれた黒い籠の中に沈んだ。
 「手」は茫然としたように動かなくなった。
 やがてその体の裾から少しずつ籠のような網目がほつれ、空気に溶けるように消えていった。
 その後には、真っ青に染まった空に雲が一つ二つぷかりぷかりと浮かんで、何もない大地を海を、太陽がひたすらに照らしていた。

2011.09.21-2011.12.24

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最終更新:2012年01月02日 20:52
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