たびだちのあさに





『ブレイドポートの朝は街そのものが、まるで眠りの魔法から覚めるようです』

おばあちゃんの手記にはそう綴られていた。
その表現はいいえて妙だと私も思う。
語り部だったおばあちゃんは1年に何回か何日も家を空けるときがあって、
小さかった頃の私はおばあちゃんの帰りをただ待ち続けていたけれど、
遠くの街でおばあちゃんはそんな風にお話をしていたのだろう。
ブレイドポートに住む人の前ではさすがにそんな風に語り始める事はなかったけれど。

おばあちゃんが亡くなってから半年、片付けても片付けても一向に減らない家財に
私は少しうんざりとしてしまっていた。
何の価値を感じたのかわからないようなガラクタ同然の物で埋め尽くされていた部屋の物が
すべて棚におさまるようになったのはつい一週間前の出来事だ。


緩やかに空を目指す石畳の道。
坂の向こう側からのんびりとマイペースに昇ってくる太陽が街に活気を与えてくる。
その証拠に道をあるく私の背後で機材たちの上げるあくびのような大きな音がそこかしこであがっている。
時計は5時半。この街は機械仕掛けだ。
人も街もぴったり、きっかり、同じリズムで回っている。
朝の陽に暖められた街が、霧の魔法から解き放たれる時が来た。
上層に向かって連なる職人街の茶色の鱗のような屋根が、
お嫁さんに子供が生まれておとといまで休んでいた時計屋の看板が、
陽の光に反応して魔石の力を弱めた街灯が、朝露にきらめいている。

この街はいつでもまぶしい。
昼も夜も、眠りから覚めた朝でさえ、人と物の力にあふれている。
おばあちゃんの遺品がすべて棚に収まったと安堵した1週間前、私は今と同じ感覚を感じていた。
本棚の奥にあった背表紙のそろった本にはおばあちゃんの思い出にあふれていた。
出会った人。出会った物。
どれだけの思いがあってその「物」が自分の周りにあるのか。
それら全てが綴られていた本の表紙には「つながりの物語」と書かれていた。
そこに書かれているものの中にはもう家の中にはない、私が何の価値も感じずに捨てたものもあって、
私は深い後悔に見舞われたのだった。
あんなに暖かさを感じていたおばあちゃんの部屋が、私の手で暖かさを奪われようとしていた。
それに気づいた日、私は半年振りにおばあちゃんの為に泣いた。



目覚めた街は騒がしい。
人通りの増え始めた中央通りを避け、わき道へと入る。
急な石畳の階段はわずかに湿気を帯びている。
路地裏にあるいつものデリの勝手口をたたくと、眠ったままの店舗とは裏腹にすでにコックスーツに身を包んだ主人が姿を現す。
「おはよう、アキラ」
「おはようジレットさん」
籐カゴを主人から受け取って、私は水筒を渡す。
「ホットミルクでいいのかい」
「今日は熱めでね」
ジレットさんは少し目を丸くするとしばらく引っ込んで、戻ってきた。
「積もる話がありそうだね」と差し出された水筒はいつもよりはるかに重い。
「入れすぎたんだよ」
ジレットさんはキュートにウィンクをした。


右の頬にに朝日を受けながら上層の飛空挺乗り場に差し掛かるころには息もだいぶあがっている。
灰色の壁に白いペンキで「3」と書かれたポートの周辺にはもう何台もの「カーゴ」が
空のホロの中に荷物を詰め込んでいる。
夜行で運ばれた飛空挺の荷物を中層や下層へと運んでいくためだ。
色とりどりの「カーゴ」の間を縫うように歩き、薄ねずみ色のカーゴのドアをたたくと、内側から乱暴に開けられる。
「ああ腹が減った!」
中にいた大柄なライオニール(といってもライオニールは元々でっかいけど)が声を上げる。
「あいさつぐらいしなさいよう」
私が頬を膨らませると、ライオニールはお前も口うるさくなったと笑った。
早く、とせかすその腕は筋骨隆々のライオニールのものとは違う。
「待って、とってあげるから!」
「このバルツオング様を待たせるとは…」
バルツオングの片腕は義手なのだ。
それもクルグットが作った精巧なライオニール用の。

バルツオング退役の軍人で、物心ついたころにはおばあちゃんと一緒に私の家に住んでいた「片腕ライオニールのおじちゃん」だった。
政権体勢が変わり軍がなくなって自治政権になってからも
バルツオングが自警隊に入る事はなかったって話しを前に聞いた事があるぐらいで、
(しかも話を聞いたのはまったくの他人からだった)
私は正直、バルツオングのことをよく知らなかったりする。
(よく知らないがゆえに、思春期に大喧嘩をした事があるけれど
それを話すとまた長くなってしまうので別の機会にしたいと思う)
今だってただの「カーゴ屋で片腕ライオニールのおじちゃん」なのだ。



「やっぱり、街をでようかなって」
満足そうに口ヒゲを拭いているバルツオングにそう言うと、
弓なりに上がっていた口はしがとたんにへの字になる。
「無理しなくても十分暮らしていけるぐらいのたくわえはあるぞ」
「そんなのバルトのお金じゃない…」
バルツオングはいつものように、私を娘のように思ってくれていること、これからもそうでありたい事を切々と語る。
でも今日の私はいままでと違っていた。
「おばあちゃんの本を読んだの。キラキラしてて、すっごくステキだった」
「…語り部がそんな貧相な表現で食っていけると思ってるのか?」
「私語り部じゃないもん。マスケッターだもん」
駆け出しのな、とバルツオングは鼻で笑って、少しすする音がした。



バルツオングは言った。
おばあちゃんの一言で、自分の生き方が変わったんだって。

『ブレイドポートの朝は街そのものが、まるで眠りの魔法から覚めるようですよ』

ゆっくりと街を照らす朝日を忘れられないって。

「もっといろんな物が見たいの。もっといろんな人に触れたいって思うの。
バルツオングだっておばあちゃんと出会って変わったんでしょう?
私にもそんなチャンスがないと、かわいそうだなって思わない?」

誰が思うもんか、とバルツオングは怒ったみたいに私の頭をくしゃくしゃっと撫でて、
水筒のミルクをぐいっと飲み干した。
私はなんだか愛されてるんじゃないのかな、まるで家族みたいだわ、と思いながら
つられたようにカップに残されたミルクを飲み込む。
ミルクはだいぶぬるくなっていた。
最終更新:2011年09月25日 03:57