拝啓エルクハイランドより 連載5回目 あさごはんとキッチン
エルクハイランドの春は朝が明けるのが早い。
ブレイドポートからこの街にやって来たのが日の明けが遅い晩秋だったので、
なおそのように感じてしまう。
季節に合わせて起きる時間帯を変えるという事に未だなれずにもう半年を迎えてしまいそう。
朝の日差しは清々しく、これから来るであろう暑い季節を予感させるにはしばらく時間がかかりそうだった。
空気の温まっていない、しんと冷えた一人きりの部屋。
暖かいベッドへの未練は後にして、椅子にかけてあったベストを手繰り寄せる。
隣の部屋から聞こえてくる生活音に一人ではない事に安心しながら袖を通す。
私が育ったブレイドポートでは、人が季節に合わせて生活の時間帯を変える事は一般的ではなかったように思う。
一昔前ならばともかく、魔石の技術の発達した今となっては夜であっても光がある、それがブレイドポートだった。
陽の光の有難さを感じない生活。それもまた、ブレイドポートの生活であった。
朝日とともに起き、陽が落ちると眠りにつく。
エルクハイランドの人々は未だ自然の一部として生活をしているのだと実感する。
人種の坩堝と言われている人口の多いハイランドですら、
人工の光と言ったらロウソク、ないしは魔石燭台程度なのだから
ブレイドポートの人々がいかに技術の上に生活をしていたかが実感できるというものだ。
初めてのエルクハイランドの春。
慣れなかった一人暮らしもよちよち歩きから成長したようで、
今ではそれなりに生活のリズムが出来上がっている。
ジーナビーナマーケットの仕事、そしてこのお話のお仕事がもらえた事。
目まぐるしい毎日の中、触れるもの全てが新しく、刺激的で、
それぞれがとても運命的なものであるように思えてならない。
そんな気分になった時には、私は決まってブレイドポートの愛すべき仲間たちへ手紙を送った。
ブレイドポートを発って約半年、帰って来た手紙には環境の変化を迎える知人も多かった。
私の変化と同じように、故郷でも同じ時間が流れているのだと
寂しさと同時に嬉しさも半々である。
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今日は朝ごはんとキッチンのお話をしようと思う。
今の部屋には猫の額ほどのキッチンがあって、洗面台と別れていないので、ここで顔を洗うしかない。
「キッチンをキッチンとして使いたいのよ」
というワガママに、上階の『偉大なる』クルグット、ピラルはキッチンの下に使い勝手の良い棚を入れてくれた。
(本人曰く「フートクエストで報酬をもらっても良いぐらいの出来栄え」)
彼女が豪語する通り、棚は非常に使いやすく、もろもろの小物がきちんと定位置に収まるように設計されている。
棚から引っ張り出した朝の洗顔のタオルはダブルガーゼ。
これはなんとなくこだわりで。
ピラルが素晴らしい棚を作ってくれたお陰で、キッチンはキッチンらしい姿を保っている。
壁の段差部分はハイランドに来てから作った保存食の瓶を並べるのに一役買っていて、
ピラルはそれをみて「陽の当たらない実験室」と命名した。
そう、このキッチンの難点は陽の光が全く入ってこない事。
ブレイドポートの家のキッチンが日当たりが良かっただけに
なんとなく落ち着かない原因となっている。
フートホームの庭には石造りの小屋があり、その地下に井戸がある。
水は地下の井戸から汲んでくる。
小屋の地下は室温が低く、常温で傷みやすい食材などは共同でそこに管理されていた。
顔を洗うために労力を使うというのも当初は面倒で仕方がなかったが
水のありがたみを感じる生活である。
(とはいえ、近所の井戸まで10分もかかる家庭もあるのだから、まだまだ便利な方なのである)
顔を洗い終えたころには庭で鳥たちの賑やかな鳴き声が聞こえてくる。
ニワトリ達の餌をやっているのはハルテだ。
ニワトリ達が餌を食べている間に手際良く卵を回収し、テラスから私の部屋に入ってくる。
朝の挨拶も早々に卵を受け取って、焼くのは私の役目だった。
卵を私に託し、一旦部屋から出たハルテが持って来たのは
一昨日作って石小屋に置いておいたバターと、バケツ一杯の水である。
「ベーコンは昨日ので最後だったから、またピラルにお願いしないとね」とハルテ。
ベーコンは作るのに時間がかかるのだけれど、
山仕事を営んでいた実家の影響で、ピラルは自分で作ってしまう。
得意の弓で狩りに出る事も多かったがベーコンの肉は大型獣の肉の方が良い油が出るので、
ピラルは小型の獣を狩ってはそれを肉屋に持って行き、ベーコンの元となる肉と交換してもらってくる。
当のピラルは朝にめっぽう弱く、ハルテは起こしに行ってくる、と言って部屋を出た。
「わぁ、甘い匂いが幸せ」
戻ってきたハルテの後ろにはぼんやりとしたままのピラルがくっついている。
「いつもと違う匂いがする…」
今日はベーコンなしなので、急遽フレンチトーストになったと言うと、
たまにはこういうのもいいと同意が返ってくる。
朝ごはんは毎朝私の部屋でこんな風に食卓を囲む。
机も小さくて、食卓をハルテとピラルが向かい合って座り、
私は壁に備え付けられたライティングデスクでご飯を食べる。
(フートホームに改築される以前、この部屋は書斎だった為
私にとっては都合の良い机があらかじめ備え付けられてあった)
お互い一人暮らしをしていたところ、私が寂しさ紛れに朝ごはんに誘ったのが始まりで
今は毎日の朝の儀式の一つになっている。
食事代などはわりとあやふや成り立っていて、
例えば鳥を飼っているのはハルテで、ベーコンを作るのはピラルで、
それを焼いたり場所を提供したり、片付けをしたりは私の仕事だ。
誰かが何か美味しいものを持ち寄った時は少し食卓が華やぐ。
食事の時には皆一日の大体の予定を語り合い、あとは毎日の生活の話を共有し合う。
皆働いている場所も違えば同じフートという訳でもない。
それぞれが一人暮らしをしているという認識なので、本来なら共有し合う必要もない。
共通点を探すのは難しいが強いて言えば、フートホームに居ながらも
私たちはどこのフートにも属していなかった。
朝食を食べ終えて、ハルテが汲んで来た水で食器を洗い、
一息ついたころには隣の部屋のハルテ、私の部屋の上に住んでいるピラルの
出勤の時間になる。
「行って来ますー!」
玄関でハルテの声が聞こえて部屋から顔を出すと、
振り返ったハルテが「何か欲しい物はある?」と聞いた。
私は『安くて良いからきちんと黒いインク』と答えた。
その私の隣をピラルが駆け抜ける。
遅刻ギリギリの姿はいつも通りなので私もハルテも手を貸す事はしない。
ピラルは私たちの中では一番年下だけれど、なんだかんだできちんと上手くやっているし、
なにより私たちの中では一番一人暮らしの経験が長いのだ。
「あっ、アキラ、ベーコンの肉、あと野菜一杯今日貰えると思う!
あと明日の夜でいいからジャム煮てほしい!」
風のように出て行ったピラルの今日の行き先は木工ギルドだ。
彼女はまだ若いながらも職人の隅に名前を連ねることを許されている。
ジャムは何のジャムだろう。
「今の季節だとベリーじゃないかな」とハルテ。
「あ、お砂糖買わないと無い」
買ってくるかと聞かれたので、それは私が買うと答えた。
私の勤め先はジーナビーナマーケット。
フート協会に所属している食料品店だ。
今日の予定は運送代行に原稿を出し、午後からの出勤だった。
ハルテとピラルが出て行き、振り返った部屋はとても静かで、
お腹がきゅうと締まる心細さがある。
私はなるべく意識しないように、ひとりじゃないもん、と思いながら
穏やかな午前を夢のなかで楽しむべく、
冷えてしまったベッドに潜り込むのだった。
最終更新:2011年10月25日 03:14