日が落ちる頃、港に着いた。水平線は沈んだ太陽の名残で、今も薄らぼんやりと光っている。風は湿気っていたが、北の冷たい空気を含み肌に纏わりつく。吊るされた看板が大きな音をたてている。
定期連絡船はまだ到着していない。先に着いていた王都行きの使節団は、各々暇を持て余しているようだ。その脇を縫うようにしてヴァンが桟橋に立つと、打ち寄せる波に藁屑や野菜屑が飲み込まれるのが見えた。夕闇の海はどす黒くうねり、空との境界は滅紫色に霞んでいる。風が強く吹きつけ、バケツが乾いた音をたてて転がった。積み上げられた木箱に当り、動きを止める。
仄昏く頼りない灯りが遠く水面に揺れる。段々とそれが大きくなるのを、ヴァンは見つめていた。
船が入港するとすぐに乗り込む。新天地に夢を馳せている訳ではなく、ただこの地を忌々しく思うだけだった。子供じみた感傷だ、と解ってはいてもそうせずにはいられなかった。
王都行きの積荷が運び込まれたところで、漸く出港した。船の中で夕食を済ませると、そのまま部屋へ戻った。窓から見える夜の海は陰鬱に重々しく波打っていた。その様は泥の海と大差ない。あの暗く、預言に縛られた街に残してきた妹の事をふと思い出した。
風は窓を強く揺らしている。明日は雨だろうか、とヴァンは思った。
予想通り次の日は雨だった。幸先の良いとは言えない出立に使節団の多くは不平不満を漏らしていた。導師の遣いに何を期待しているのだか、とヴァンはその様子を胸中せせら笑う。結局その日は、揺れる船の中で祈祷書を読んで過ごした。垢で汚れ、磨り減った祈祷書だ。それは、数少ない幸せだった頃の持ち物の一つだった。雨は航行中、何日も降り続けた。
夜明け前に雨は上がり、船は正午前にはバチカルに入港した。港に着くと南へと歩き出した。他の使節団と共に天空客車に乗り込み、近付く城下を眺める。均整のとれた美しい町並みだ。ダアトでの生活が長かった所為か、風が乾いて感じられる。土埃が目に入りそうになるのを慌てて拭った。天空客車が完全に停止したのを確認し、揺れる足元に注意しながら降りる。
安定した足場で、ヴァンは町並みを仰ぎ見た。この町を初めて訪れた者なら、誰もがそうせずにはいられないだろう。見上げた空は、随分と高く遠いように感じられた。聳え立つような町並みが、そう錯覚させるのかも知れない。
すぐに広場に行きあたる。シンメトリーの階段が二重になって、広場を囲んでいた。中央の集合商店に出入りする人の波は途切れる事がない。ホド戦争の記憶も未だ新しいが、この国の人々にとっては、遠い異国で起きた惨劇は自分達の生活に多少の陰りを見せただけに過ぎなかったようだ。その滑稽さに堪らなくなり、浅く息を吐き出すような笑みを溢した。
王との謁見は午後からで、空いた時間を潰すべく使節団は散り散りになった。ヴァンは宿屋の手配を終えると、集合商店脇の階段の陰に隠れるように建つ教会へと向かった。本国の大聖堂とは比べるべくもない、質素で小さな造りの教会だった。東の陽が、扉に色濃い陰を落としている。触れた取っ手の薄ら寒い感触に、肌が粟立つ。
教会の中は広場の喧騒が嘘のような静謐さだった。時間的な事もあり、人影はない。管理者である祭司がいない事に首を傾げながら、ヴァンは教会内に足を踏み入れた。一般信者の礼拝堂の前を素通りし、教団員以外の立ち入りを禁じる奥の壇上へ続く扉をくぐる。成る程、外観こそ簡素なものだったが、ここでもローレライ教団の威光は健在であるらしい。煌びやかな装飾の祭壇を見つめながらヴァンは思った。ユリアと思われる女性を模した巨大な彫像が中央に安置されている。左右から差し込むステンドグラスが赤い絨毯の上に鮮やかな陰を落としている。
ヴァンが祭壇へ近付いて行くと、そこに人影が在ることに気付いた。頭垂れて屈んだ背中は酷く小さい。子供だった。懸命に祈りを捧げる様子に声を掛け難く、ヴァンは黙ってその場を後にした。背中に僅かばかり掛かった鮮紅が、やけに印象に残った。
「おや」
再度一般礼拝堂に戻ったところで、五十前後と思われる男と出くわす。ローレライ教団の団員服を着ているところを見ると、恐らくはこの教会の祭司なのだろう。
「何か御用でしたかな?いつもこの時間は人払いをしているのですが」
表情に浮かんだ嫌悪感を隠そうともせず、祭司は言った。
「失礼しました。私は導師エベノスの勅命によりダアトから派遣されました、ヴァン・グランツ響長です。登城前のご挨拶に伺ったのですが」
後者は出任せだったが、祭司は導師の名に恐縮したように、慌てて表情を取り繕う。居心地の悪さに、ヴァンは別の話題を振った。
「そういえば、先ほど人払いと仰られていましたが、中の子供は……」
「あの方にお会いになりましたか」
「余程信心深いのでしょうね。私が背後に立っているのにも気付かず、一心に何かを祈っているようでした」
皮肉ではなく素直に、祈る子供に対し思った事を言った。ヴァンの言葉に、司祭の顔が嘲りを帯びる。
「何処ぞの貴族の子息だそうで、こうしてこの時間は人払いをして礼拝堂に篭っているのですよ」
「高尚な血筋の方々が考える事は解りませんな」と同意を求められたが、曖昧に笑みを返す事しか出来なかった。未だかつてあれ程真摯に、何かに祈りを捧げている姿を、ヴァンは母以外知らなかった。