使用人の朝は早い。布団の外へ差し出した手に触れる、外気のあまりの冷たさに驚く。ウンディーネデーカンの月も半ばに差し掛かったというのに、冬の寒さは一向に衰えを知らない。
ガイは意を決しベッドから滑り降りると顔を洗う為、洗面所へ向かった。
今日は買出しの仕事がある。使用人の仕事も四年ともなれば大分板について来たもので、様々な仕事がガイにも回ってくるようになった。
厨房へ向かい、朝食を済ませると中庭へ向かう。先に起きていたらしい同郷の庭師がガイに気付いた。挨拶にガイも軽く手を上げて返す。
「お早いですな、ガイラルディア様」花壇に手を差し込んだままペールが言った。周囲に人の目がない事を確認してから、ガイは老人に近付く。
「ルーク様でしたら朝の礼拝かと。買出しついでにお迎えに行って差し上げるくらいで丁度良いでしょう」
口元に浮かぶ微笑は穏やかですらあるというのに、言葉に含まれる意味合いを思うと酷薄さすら感じさせる。そんな老人の様子に、ガイは自然と笑みを溢した。この屋敷に来てからというものの、そんな風に笑いあえるのはこの老人をおいて他にいなかった。
それから他愛のない言葉を交わしあい、老人の昔話が本格的に長くなる前にガイは買出しに向かった。
エントランスではいつものように、使用人達が朝の清掃をしていた。挨拶をすれば返されて、それは故郷にいた頃と何ら変りのない生活のように思えた。けれどそれは酷く遠い、酷く残酷な日常でしかなかった。立ち並ぶ柱の中央に飾られた宝剣に目配せをし、ガイは扉をくぐった。気をつけてね、と日頃から仲の良いメイドが声を掛けてきた。返事をしようかとも迷ったが、結局上手く笑顔を作れる自信がなかったので、聞こえなかったふりをした。
朝の礼拝を終えた人々が教会から出てくるのが見えた。小さな「主殿」は、奥の礼拝堂を貸し切っている筈なので、もう暫らくは掛かるだろう。これなら一度屋敷に荷物を置いてから、再度出迎えに来るくらいの余裕はありそうだ、とガイは思った。
今朝早くに定期連絡線で、ダアトを経由して来たマルクトの物資が仕入れられた所為か、いつものこの時間に比べると集合商店の中はかなりの人込みになっていた。その間をすり抜けるようにして、器用にガイは覚書きに記された品物を購入していく。両手に合わせて三つ袋を抱えて、残りの荷物は後で屋敷の方へ届けてもらえるよう算段をつける事に成功した。両手に余る程の荷物だったが、ガイはそれを危なげなく抱えて歩く。見張りの兵士が気をつかって扉を開けてくれた。それにガイは礼を言うと会釈し、そのまま集合商店を後にした。
屋敷前へ直通の昇降機に向かう途中、林檎を落とした。その拍子にずり落ちそうになる紙袋を慌てて抱え直したところで、通り掛かりの男が石畳に転がった林檎を拾い上げた。男は十代後半ほどに見えたが、大柄な体躯とローレライの教団服とが、随分と落ち着いた印象を与え実年齢を曖昧にしている。
「あ、あの……」と口早にガイは礼を言う。「すみません、有難うございます」
男は少し驚いたような顔をして、それからすぐに微笑んだ。そんな男の笑顔に理由のない懐かしさを感じ、ガイは思わず俯く。
「家のお使いか?偉いな」
男は林檎を紙袋へ戻しながら言った。
「あ、いえ!俺はファブレ家の使用人で……あ」
頭を振った拍子にまたしても林檎が落ちた。足元を紅い玉が転がって行く様を、ガイも男も言葉を無くして目で追った。
居た堪れなさに閉口していると、そんなガイの様子に堪り兼ねたかの様に男が笑い出した。そしてそれから再び林檎を拾い上げ、袋の中へ戻すとそのままガイの腕から袋を二つ抜き取った。
「手伝おう」
「『神託の盾(オラクル)』の騎士様に、そんな事はさせられません!俺が怒られてしまいます」
ガイは突然軽くなった両腕と、男の唐突な行動に困惑した。必死に紙袋を返してもらおうと試みるが、男はただ笑うばかりだ。こんな事なら無茶をせずに、二袋に留めておけば良かったろうか、と数分前の自身をガイは呪った。
「久しぶりに笑えた気がした。これはほんの礼だ。気に病む事はない」
そう言って笑う男の顔がどうしようもなく淋しげで、それでいて何処か過去を懐かしむようであったからガイはそれ以上何も言えなくなる。
自分自身とこの男との印象が重なった所為かも知れない。遠い昔、まだ自分が陰謀も裏切りも知らずただ幸せであった頃、兄の様に、影の様に付き従っていてくれた使用人に、この男の笑顔が何処か似ている気がしたからかも知れない。
昇降機に向かって歩き出す男の後を追う。屋敷の前で荷物を返され、男と別れてからガイは名前を聞くのを忘れたな、と思った。
屋敷に戻ってすぐに、エントランスでペールに出くわした。土に汚れた軍手もそのままに、ガイを待っていたようだ。
午後からの客人を公爵家総出で出迎えなくてはならないらしい。紙袋を受け取ると、ペールは教会へ行くよう促す。ガイは後から届く荷物があることだけを伝えると、今来た道を引き返した。
階段を下りてすぐに、教会の前に目的の人物を見つけた。
公爵子息、ルーク・フォン・ファブレは深緋の髪を肩口に掛かる程度まで伸ばしている。何度か公爵夫人に髪を切るよう勧められていたが、結局そのままで来ているようだ。特に手入れをしているといった話を聞いた事はない。長さも疎らで前髪も目元に掛かっていたが、不思議と鬱陶しさは感じさせられない。
ガイの姿を見止めると、彼は「ガイ!」と嬉しそうに顔を綻ばせ駆け寄って来た。年はガイより四つ下だったと記憶している。並ぶと、頭一つ分と少し低いところでルークの赤毛が揺れた。
「悪い悪い、ちょっと遅れたか」
「平気。ガイ忙しいのに、いつもごめんね」
一転して、ルークの表情が少し曇る。またこれか、とガイは思いながら苦笑いを浮かべる。
貴族だろうと使用人だろうと、彼は心をくだき過ぎる。そんなルークを見る度に、ガイは少しの罪悪感と、そこから来る苛立ちを覚えた。
「ばーか、気にすんなって。あんま暇な使用人ってのも、格好がつかねぇからな」
「それに朝は免除されてるし」と付け加える。
「とはいえ、目と鼻の先の教会を行き来するのにわざわざ送り迎えを付けて、その上教会の内院貸し切るっていうのも結構、過保護な話だと思うけどね、実際」
貴族の子息らしからぬ気安さで、肩を竦めルークが言う。言いながら、それでも顔に浮かぶのは屈託のない年相応の笑みだった。
「それはまぁ、なぁ」
曖昧に笑みを浮かべて、ガイは適当な相槌を打った。
ルークの言うことはいつも正しい気がした。発せられる言葉の端々に、幼いながらも王族としての知性と教養とが見え隠れした。そこには誠実さこそあれど嫌味はなく、育ちの良さを感じさせる。人の上に立つべく育てられた、理想像ともいうべき姿なのだろう。そしてガイは、それを少しの羨望と、昏い情念の篭った目で見つめる。
「そう云えばさ、今日面白いことに気付いたんだ」
「また、か」
ルークの考えは面白い。自分より年下だというのに、時折真理をつくような難しいことも言う。言葉は年相応に拙いが、聡い子供だった。
「うん。あのね……」
「まあ、お前の言うことは難しくて、俺にはよく解かんねぇんだけどな」
言い掛けたルークの言葉をガイは遮った。ガイをそうさせたのは、煩わしさというより嫉妬だった。
遠い昔に、故郷と共に死んでしまった己の影を、彼の中に見つける度ガイは堪らなく辛い気持ちになる。もしかしたら今も自分は、こうして何の憂いも陰りもなく笑っていられたのかも知れない。何の恨みも憎しみも知らず、世界を美しいものだと捉えられていたのかも知れない。ガイがルークに抱く感情は、いつだって憐憫を孕んだ憎悪だった。
「そっか」
大して気にした風でもなくルークはそう言って笑った。ガイがこうしてルークの言葉を遮るのは初めてではなかったからかも知れない。
そして理不尽にも、ガイはそんなルークの態度に苛つく。言い掛けた言葉を飲み込み、自身を抑制する凡そ子供らしからぬ態度を、ガイは不快に思う。まるでガイのつまらぬ嘘や虚勢などお見通しなのだと、嘲られているように感じられるからだ。
遠くで教会の鐘が鳴る。今日も良い天気だ。
昼食を終え暫らく経った頃、屋敷の中が少し騒がしくなった。夫人に手をひかれながら、不満そうなルークが応接室に消えて十五分後のことだった。例の客人が来たのだろう、と思ったがガイには特に興味の惹かれる事ではなかった。一度だけ中庭からエントランスの窓の方に目を向け、またすぐに手元に戻す。今のガイには上流階級の社交よりも、花壇の害虫駆除の方が重大な任務だった。
一通りの作業を終えると、後は薬を撒くだけですから、と庭師に言い渡された。土いじりは昔から嫌いではなかったので、多少の名残惜しさを感じながらガイは中庭を後にした。
手を漱ぎながら、空いた時間をどう潰したものか、と考える。結局やる事もないので、ガイはエントランスへ向かった。怪しまれるかとも思ったがこの屋敷で心安らぐ場所など、そう多くはない。
飾られた宝剣を仰ぎ見た。金色の柄にはホド独特の文様が細工され、隼をあしらっている。真っ直ぐに伸びた刀身は細身で、蒼く輝いている中に、古代イスパニア文字で書かれた預言が薄く浮かび上がっている。
その剣の名を、心の中で唱えた。優しい呪文のように、それはガイの胸に広がる。決心を新たに迷いを拭う。それでも、矢張りガイはまた揺れる。その繰り返しだ。
応接室の扉が開き、教団服に身を包んだ男が数人出て来た。慌ててガイは柱から離れ部屋の隅に寄る。頭を下げ、視線は床に落とす。どうやら話は長く続くようで、合間に休憩が入ったらしい。公爵の案内で、そのまま中庭へ向かったようだ。一息ついて、それから改めて顔を上げる。そしてまだ部屋の中に人が残っている事に気付き慌てて再度頭を下げようとして、とどまった。
エントランスの丁度中央に、その柱はある。白亜の柱に飾られた宝剣は、かつてホドの地を収めていた領主の首級と共にファブレ侯爵が持ち帰ったものだ。それを、一人の男が見上げていた。
ローレライの教団服を着たその男は、つい数時間前に会ったあの男だった。その横顔から、感情は読み取れない。けれどガイはそれに一つの確信を抱く。無感動な眼差しは、いつも自分が剣に向けるものと同じだったからだ。
男が、ガイに気付いた。すぐに今朝方会った子供なのだと思い当たったようで、柔らかな笑みを浮かべてこちらに近付いてきた。
「また会ったな」
言って笑う男に、ガイは何と声を掛けて良いのか分からなかった。握り締めた拳が、汗で滑る。目の奥が熱い。反射的に俯くガイを、男は怪訝そうに見つめている。しゃがみ込んで、顔を覗きこまれる。
「どうした?」と訊かれ、頭に手を乗せられる。堪らなくなって、ガイの目から涙が溢れる。涙と一緒に、言葉も溢れた。
「ヴァン……!」
男の顔から笑みが引いた。驚きに目が見開かれて、彼は言葉を失う。そんな彼とは対象にガイは嗚咽と共に、今度こそ明確な意志を以ってを吐き出した。
「ヴァン、デス……デルカ……ッ」
こんなところを人に見られたらどう言い訳をして良いか判らないというのに、ガイは感情を抑えられなかった。六年、その歳月全てが台無しになるかも知れない。それでも、とガイは男の名を呼んだ。呼んで、ただ泣きじゃくった。男は言葉を失ったまま、それでもガイを抱きしめた。
「ガイラルディア様!」やっと紡がれた男の言葉は震えていた。ガイはただ泣きながら頷いた。