ヴァンがファブレ家に訪問するようになって二度目の春を迎えた。名目は公爵子息の剣術指南ということになっているが、実際は預言(スコア)成就の為のローレライ教団からの英雄の監視役だった。
去年の暮れに先代導師、エベノスが病の為に逝去した。後任は若干六歳の少年だったが、門外不出の「ダアト式譜術」を導師エベノスから受け継いでいるのは彼だけだった。反対意見が出なかったわけではないが、結局大詠師モースが後継人となることで話はついた。大詠師はどうやら新たな導師となった少年を自身の傀儡にする算段らしい。とはいえ、その辺りは新導師の方が一枚も二枚も上手だった。
ヴァンはこの春、とうとう詠師に任命された。それは導師イオン直々の言い渡しであり、最後まで反対した大詠師の意見も通らなかった。
門で既に顔馴染みとなった騎士に敬礼され、ヴァンも軽く頭を下げた。扉を開けエントランスに入ったすぐのところに飾られた剣に、いつも目が行く。その剣を見る度、懐かしさと悲しみとが胸を締め付ける。
すぐにメイドの一人が応接室へヴァンを案内した。このメイドとももう顔馴染みで、応接室に行くまでに他愛のない話をした。
応接室ではファブレ公爵と儀礼的な会話を交し、その後ヴァンは剣術指南の為にルークを探す、と言い残しその場を後にした。
部屋を出た所で、先ずは周囲を見渡す。ただし、目的の人物はルークではなくガイだった。
かつての主君であるガイと、庭師のペールには事の子細を話して聞かせてある。とはいえ秘預言に関わる箇所は伏せてあった。彼らの事を信用していないわけではなかったが、長いことルークと生活を共にして、情が移るとも限らないからだ。
廊下からは中庭が見える。春の日差しに芽吹いたばかりの若葉が眩しく輝いている。その光景に目を細めながらヴァンは外へ出た。日差しの強さに顔を庇う。若干の生温さを孕んだ風が吹き抜けていった。開けた中庭は計算して造られているのか、屋敷の影が殆ど落ちていない。柔らかな陽の光が存分に差し込む、そこは陽だまりだった。
中庭に備え付けられたベンチに腰を下ろし、空に浮かぶ音譜帯を眺めてから目を瞑る。ここなら屋敷の何処からも目がつく。もしかしたらガイやペールが先に見つけてくれるかも知れない。
近くにザオ砂漠がある所為だろうか、程よく乾いた風が心地良い。
故郷にあった先祖の墓を思い出す。幼い主の手を引いて、花畑を自慢した。吹き抜けから差し込む光は暖かく、そこはまるで楽園のようだった。そんなヴァンを見て、母は遊ぶところではないのよ、と苦笑した。信心深い母の手にはいつも祈祷書と、ロザリオとがあった。
暫らくそうしていると陽の光が遮られるのを感じた。風に流される雲が、少しばかりの陰りを生んだ。視線を中庭に戻すと、周囲を見渡す。矢張り相変わらず人気はないように見えたが、北の更地に目を向けたとき心臓がひとつ、大きく脈打った。
深緑の淵に深緋が揺れている。陽の当らない暗がりで、少年はひっそりと息を潜めていた。頭上で木々の狭間から見え隠れする空を見るでもなく、木漏れ日に指を透かすでもなく、ただ足元をじっと見据えて動かない。緑の絨毯に、木漏れ日が踊る。
預言の英雄だ。
紅い髪の掛かる小さな背中を見つめながらヴァンは思った。ただし、その背中は英雄たる威風堂々としたものは一切感じさせず、所在なさげに丸まっているように見える。後姿から表情を窺い知る事は出来ない。ヴァンやガイがどんなに望もうとも取り戻せない優しい陽だまりの中にあの少年はいる筈なのに、彼は何処にも居場所のない者のように見えた。
立ち上がり、ヴァンはルークに近付いた。背中は微動だにしない。陽だまりと陰りとの境界でヴァンが立ち止まると、紅い髪が揺れた。
「ルーク」
声を掛けると、ルークが振り返った。秘色の眼が、真っ直ぐに向けられた後に細められた。英雄でも、公爵子息でもないただの子供の笑顔が、そこにあった。
「師匠(せんせい)!」
ルークが駆け寄ってきて、そのまま腰の辺りに抱きつかれる。衝撃に前のめりになった。妹も久しぶりに会う時はこんな反応だったかな、とヴァンは思った。
「元気そうだ」
「はい。お久しぶりですヴァン師匠(せんせい)」
見下ろした顔には、はにかみ笑いが浮かんでいる。照れ隠しなのか、ルークはすぐに離れた。
「今日いらっしゃるなんて聞いてなくて……びっくりしました」
年のわりに、この未来の英雄はしっかりとした口調で喋る子供だった。ルークはいわゆる手の掛からない子供だったが、幼く賢い子供にありがちな生意気さはない。
もし自分が預言(スコア)に、ローレライという存在に憎しみを抱くに至ってさえいなければ、もっと純粋に彼を思いやってやることも出来たろうに、と思った。彼が預言の英雄でなければ、ローレライの完全同位体でさえなければ、と思った。けれど、そんな事は矢張り関係ない。教団を欺き、世界を欺き、そして預言(スコア)すら欺こうとしている自分が、幼子に心砕き嘘をつく事に罪悪を覚えるのは、勘違い甚だしいからだ。ならば、最後まで欺き通すだけだ。
「ああ、公爵に用があってな。稽古ではなかった」
「そうなんですか。父には……」
「もう会って来た。早めに切り上がったからな、お前の顔を見ようと思って捜していた」
正確には、ガイかペールから報告を受けようと思った。
「良かった!」
顔をいっそう綻ばせて、ルークが笑う。そしてヴァンの手を取り、屋敷の中へと促した。
「ガイに会ってあげて下さい。ヴァン師匠(せんせい)に会った後は、ガイ何だか嬉しそうなんです」
「勿論、僕も嬉しいです」付け加えるルークに手を引かれながら、ヴァンは苦笑を浮かべる。
馬鹿な子供だ、と思った。