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 礼拝堂に一人、イオンは立っていた。目の前には第一から第六までの譜石を切り出して造られた祭壇がある。背後にそびえるステンドグラスが、イオンと譜石とに色とりどりの影を落としていた。
 手で触れると、その温度差に驚く。暫らくして、境界がなくなる。それでも矢張り、それはただの石だった。そんなただの石に、人々は左右され時に殺し合う。
 イオンはそんなただの石の代弁者だった。そしてそんなただの石には、時として死の預言が記されている。だがそれは然程珍しいことでもない。先のホド戦争も、来たるアクゼリュスの大移動も、それに伴う戦争の勃発も、その全てが死の預言――秘預言(クローズドスコア)だ。
 このちっぽけなただの石に、それら全ては予め詠まれていた。
 秘預言(クローズドスコア)は詠師職以上でなければその存在すら明かされていない。曰く、「死の預言を前に人は正気ではいられない」からなのだそうだ。
 譜石の表面に刻まれた文字を詠むでもなく、ただ指でなぞっていると礼拝堂の扉が開いた。人払いをしていた筈なので目的の人物以外ありえないだろう、とイオンは顔を上げる。丁度扉が閉まるところだった。そこには深々と頭を垂れるヴァンがいた。
 ヴァン・グランツ、本名をヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデという。彼と言葉を交すようになったのは、イオンが導師になるずっと前だ。
 生まれてすぐに預言(スコア)により、次の導師となるべく未来を詠まれだイオンはローレライ教団に引き取られた。ダアトは愚か教会から出られることも稀だったが、それでも将来を導師として約束され、何不自由なく育った。そして、導師になる以前ほんの悪戯心に預言を詠み、そして自らの巫山戯た運命を知った。
 そんな時に、イオンはこの男と出逢った。
 ヴァンは魔界(クリフォト)の出身だった。それだけでなく、あのホドの生き残りでもあり、預言(スコア)などという妄執を生み出した当事者達の縁者でもあった。そんな特殊な立場にあった彼を、名前だけは以前から知っていた。そして、そんな特殊な立場にあった彼にだからこそ自分の胸の内を打ち明けてみようと思ったのかも知れない。
「お久しぶりです、導師イオン」
 近付くと、ヴァンが顔を上げて言った。口元には笑みが湛えられている。だがその笑みは最高指導者に対する媚び諂った笑みでなく、また尊敬の念の込められたものでもない。それは、秘密を共有するものの笑みだった。
「帰還したばかりなのに、呼び出したりしてごめんなさい」
「いえ、導師のお呼立てとあれば」
「判ってるのにヴァンは意地悪だね。何の為の人払いだと思ってるの」
「ね、共犯者さん」声が弾む。
 イオンはこの男と話すのが好きだった。誰にも言えない、胸の奥底の澱までも包み隠さず話す事が出来たからだ。そしてまた、そうさせるだけの力がこの男にある事も解かっていた。それは一種の才能ともいえる力で、彼の言葉は何故だか胸によく響く。世界中でただ一人、彼だけが味方であるような錯覚に陥る。そんな、良くない魅力がこの男にはあった。そして、そうと解かっている上で、イオンはこの底の知れない危険な男に依存していた。
「英雄さんは元気?」
「相変わらずだ」
「ふぅん。いいなぁ、バチカル。僕も行ってみたいな」
 その言葉は嘘だった。バチカルになど、行っている暇はイオンにない。
 ダアトは確かに息の詰まる街だったが、それでも恨めしいこの狂信者の檻でしか自分は生きていけない。そしてそこでしか出来ないことがある。それこそ、それはイオンにしか出来ないことだ。
 本心ではないイオンの言葉に彼が少し困ったように笑った。
「モースはまだ煩く言ってくるかも知れないけれど、取り敢えずあの話は決まりそうかな」
 詠師という肩書きだけでは思うようにヴァンを動かせない。予てからイオンは丁度空席だった主席総長の座にヴァンを推すつもりでいた。それが年内に決定したのだ。帰国したら真っ先に伝えようと思っていた。
「別に大詠師でも良かったのに。モースも始末すれば良いだけだし」
「邪魔なんだもん、あの人」イオンが言う。「確かに」ヴァンも言って笑った。
「だが、立て続けに幹部が病死するというのも不自然な話だ」
「そうだね。あの手は一度使ったら暫らくは無理だもんね。…ちょっと勿体なかったかも」
 またイオンは上辺だけの言葉を溢した。
 言葉とは裏腹に後悔はない。痛む良心を殺したのは自分ではないからだ。自業自得だ。そうして、予定より早く手にした地位と権力とを使い、下地を作り上げる。
「預言(スコア)は既に歪められた。我々に引き返すことは許されないのだ」
 宣言するヴァンの言葉は、寧ろ自身に言い聞かせるようであった。この男にも、矢張り迷いはあるのだろう。思うと、イオンは嬉しいような淋しいような気持ちになった。迷いのない、自分を少しだけ残念に思う。
「ヴァンは」
 口を開いたけれど、結局先に続く言葉が見つからずイオンは黙り込んだ。頭を振る。
「やっぱり、何でもない」言って笑う。
 彼に自分だけが依存しているのは猾い気がして嫌だった。いつだって対等でありたかった。彼とイオンは確かに、この世でただ一人包み隠さず本心を言い合える共犯者だった。イオンは、そんな彼に心の平穏を見出していた。だが、ヴァンは違う。ヴァンにはここではない、優しい場所に宝物のような思い出を仕舞い込んでいる。十以上も年の離れたこの男が自分を共犯者として選んだときに、イオンの心は決まっていた。
 だから詰まらない感傷は口にしない。下手な慰め合いもいらない。遠慮もしない。
「外郭大地が最終的に滅亡する運命なら、消しちゃった方がいいよね」
 子供の唐突さで、イオンはその言葉を口にした。ヴァンは肯定も否定もしない。先に続くイオンの言葉を待っているように見えた。
「ヴァン、マルクトから学者を引き抜いて部下にしたい、って言ってたっけ」
「ああ」今度は返事が返される。
「その人、フォミクリーの研究をしてるんだったよね」
 だが、その学者は返事を渋っている、といった話も耳にした。資金提供と地位あたりが妥当かな、とイオンは考えてからヴァンを見る。イオンの意図を何となしに理解したらしいヴァンが、もうひとつ頷いた。
「運命に立ち向かうには丁度良いと思わない?」
「レプリカ、か」
 その答えに満足して、イオンは肯定する代わりに微笑む。
「僕のレプリカを造ればいいよ。それで、ヴァンの好きに使えばいい」
 利用できるものは全て利用する。滅びの預言も、ヴァンの憎しみも利用する。誰かの為になど、生きている暇はない。
「その身体にフォミクリーを掛けるのか?危険すぎる。生物レプリカはまだ理論が確立されていない。完全同位体ともなれば……」
「でも、僕がいなくなったらヴァンは何の後ろ盾もなくなるよ?モースを牽制出来る駒はいるんじゃないかな」
「それが僕のレプリカなら、ダアト式譜術も使えるしさ」そう付け加えてイオンはヴァンに背を向けた。
 天井近くまで聳えるステンドグラスを見上げる。あしらわれたユリアの顔は微笑みこそ湛えてはいるが、何処か虚無感を漂わせている。
「利用できるものはするべきじゃない?」
 不可避の未来に抗う術は、もうこれしか残されていない。
「こうしようよ」
 透かしガラスの向こうで木々の陰がざわめいている。何処か遠くで、聖歌隊が譜歌を歌っている。
「試しに預言の英雄殿で、完全同位体を造るんだ」
「実験を?」
「そう。それで安全かどうか確かめて、僕にフォミクリーを掛ければいいんだよ」
「簡単に言ってくれる。預言の英雄である以前に、あれは王位継承者だ」
「やっぱり駄目?いい考えだと思ったんだけどな」
 口元に手を当てて唸る。ヴァンを見るとイオンの言葉を否定しながらも、何か考えている風だった。今度はイオンが、ヴァンの言葉を待った。
「どちらにせよ好都合、か」納得したようにヴァンが頷いた。
「ヴァン?」
「貴方の言うように、ルーク・フォン・ファブレを使うのが一番合理的なのかも知れんな」
「うん。ルーク・フォン・ファブレは超振動が使えるし…レプリカでも手元にあれば有利な駒になると思うよ」
 ヴァンは答えない。祭壇に上がると第六譜石に刻まれた預言(スコア)に指を滑らせる。それをイオンは目で追った。
「手元に残すのならば被験体(オリジナル)だ」
 そこで、イオンは彼の意図を理解した。イオンの提案は、自身が思っている以上に合理的だった。
 預言の英雄、ルーク・フォン・ファブレにフォミクリーを掛けるという行為は、成功しようと被験体(オリジナル)に害が及ぼうと、自分達にとって酷く都合の良い試みだったのだ。成功すれば、イオンへの負担は大きく軽減される。そして、失敗したとしてもそれはそのまま預言(スコア)を覆す布石になる。どちらに転ぼうと、有益だ。
「そっか。じゃあ、後は任せっぱなしにしちゃって平気かな」
 大概、自分も狂っている。死の預言(スコア)を前に正気でいられないのは、導師も例外ではないようだ。そんな事を、それこそ他人事のように考えた。
「預言の英雄を、攫おう」
 そう言って笑った。結構上手く笑えたと思う。
 イオンの生は、折り返し地点を迎えたところだ。



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最終更新:2008年10月08日 01:06