備え付けの大時計が午後の三時を告げた。これで今日の習い事は全て終わった。ナタリアは清々しくひとつ大きな伸びをする。横に座っていた音素学の講師とメイドとが、入れ違いに部屋へ入って来た。盆に載せられたティーポットの香りで、それがリゼだと判る。
「ストレートでお願いしますわ」ナタリアは告げるとソーサーを受け取った。
盆の上にはもう一つソーサーと伏せられたままのカップが乗っている。
「ナタリア様、ルーク様を連れ立ってファブレ公爵が陛下に謁見されているようです。後程、ルーク様が殿下にお目通りしたいと申し上げておりましたわ」
成る程、とナタリアは伏せられたカップの意味を理解した。
キムラスカ・ランバルディア王家とファブレ公爵家とは縁戚関係だ。そしてルーク・フォン・ファブレはナタリアの従弟であると同時に婚約者でもある。それは二人がこの世に生れ落ちたときから、既に周りによって決められていたが、ナタリアはそれを不満に思った事はない。
ナタリアが初めてルークと会話らしい会話をしたのは今から五年前だ。ナタリアは六歳だった。引き合わされた時のことは、今でも鮮明に覚えている。冬の空気の冷たいレムデーカンの月、ナタリアの誕生会に彼は叔母に手を引かれてやって来た。白髪交じりの父とは違い、彼の髪は鮮烈な赤色をしていた。
お礼の言葉を述べ、堅苦しい挨拶廻りを終えるとナタリアは思い切って彼に話しかけてみた。その時はまだ彼が将来、自分の夫となる運命にある事を知らずにいたので、これは単純な好奇心だったと言って良い。城から出たことのないナタリアは、同じ年頃の子供と話す機会も限られていた。これに対しルークはほんの少しばかり驚いた顔をした後、ナタリアが期待していた以上の笑顔を向けてくれた。不躾ともとれるナタリアに、幼いながらもルークは精一杯の好意を示してくれた。
以来、暇を見つけてはルークはナタリアに会いに来るようになった。ナタリアもそれを楽しみにしていた。今回のように公爵に連れられてということもあったが、多くはお忍びの訪問で、その度にナタリアは窓から秘密の外出をする羽目になった。
流石に、今日は髪に葉を乗せて現われることはないだろう。思いながら窓を眺めているとそれだけで楽しい気持ちになる。
「ナタリア様」扉の外から声が掛かる。意図を察し、扉を開けるよう促した。
「今日はちゃんと、扉からいらして下さいましたわね」
そう言ってナタリアが笑うと、ルークも少し困った顔をして笑った。
メイドが伏せられていた方のカップにも紅茶を注ぎ、退室するのを待ってからルークが口を開く。
「ナタリアは僕が窓から来るのが好きなのかと思ってた」
「ええ、好きですわ。その時は決まって、貴方は私を街へ連れ出して下さいますもの」
他に誰もいない部屋だというのに、二人は声を潜めて話し合い、そして顔を見合わせて笑った。
「今日の夕方には船に乗らないといけないんだ。またベルケンドに行かなきゃ」
「そう……ですの。それでは、また暫らく会えなくなりますのね」
「うん。だから今日は父上に無理を言って着いて来たんだ。街には行けないけど、これなら堂々と会えるし」
少し照れくさそうにしながら、ルークが言った。つられて、ナタリアも顔が熱くなる。
こんな時、浮かんだ表情の一つ一つがとても大切に思える。王女という立場である以上、何の駆け引きも打算もなくありのままの感情をナタリアに向けてくれる人間は限られていた。王女である、許婚である、それ以前にただのナタリアとしてルークは彼女に感情を向けていてくれているのだ、と実感する瞬間がナタリアは好きだった。
「今日は、ガイは一緒ではないんですの?」
決して不愉快ではない居心地の悪さに、ナタリアはもう一つ足りない影について訊いてみた。途端に、ルークがバツの悪そうな顔をする。
「ルーク?」
顔を背け黙りこんでいる。ナタリアはワザとらしく大きな溜息をひとつ吐いた。
「喧嘩したんですのね」
しかも、こういう態度をとるときは決まってルーク自身、自分の非を認めているときだ。なのに意地を張って仲直りが出来ないでいるのだろう。それでも、憶測でものを言ってはいけない、とナタリアは喧嘩の原因を聞きだすことにした。ルークは俯いたまま、歯切れ悪く何か喋っている。そんな姿を見ると、そういえば彼は自分より年下だったのだ、ということを思い出し、可愛らしく見えてくる。
「聞こえませんわよ。はっきりとおっしゃいなさい」
語調を強めに、けれど怒鳴ることはせず言った。ルークは顔を上げる。
「その……具合が悪くて寝ていたんだ。でも、退屈で抜け出して……」
「見つかってガイが叔父様にお叱りを受けた?」
「うん……多分。それで、これが初めてじゃないのもあって……ちょっとガイを怒らせてしまった、のかな」
「相手に強く出られて、貴方も黙っていなかった……といったところですわね」
黙ってルークが頷いた。その様子にナタリアは呆れたが、少し羨ましい気もした。男女の差を理解こそしていたが、それでもルークがそんな風にナタリアを困らせることはなかったからだ。
「自分で悪いと思っているのなら、早めに謝ってしまうことを勧めますわ。貴方だって、もう判っているのでしょう?」
俯いたまま膝の上で固められた拳を見続けるルークに言う。言葉は返されない。変なところで、男の子は頑固なのだということを、ナタリアはこの二人を見る度に実感させられた。
こういうときのルークにこれ以上何を言っても無駄だということを、長年の付き合いで理解していたナタリアは、そのまま飲みかけの紅茶に口を付ける。
「ガイに謝るよ」
漸くルークがそう言ったのに満足し、ナタリアは頷いた。彼の決断までにそう時間がかからなかったのを、ルークも大人になったものだな、と思った。
「善は急げですわ。長引かせず、ベルケンドへ行く前に謝っておしまいなさい」
「そうだね、そうする。ありがとうナタリア」
そうして初めて、ルークもソーサーに手を伸ばした。紅茶を口に含む。
「美味しいね」とルークが笑った。
「そうですわね」
きっとガイのことをずっと気掛かりにしていたのだろう。少しだけ晴れやかになった幼馴染の表情に、ナタリアも嬉しくなる。
ルークはナタリアから視線を外し、窓の外を見た。そこはいつもルークがやって来る窓だった。カーテンは開け放され、陽の光が柔らかに差し込んでいる。窓の外には高く澄んだ空が広がり、緩く流れる雲を彼は物言わず見上げた。その横顔がまるで知らない他人のように遠く見えて、何故だか解からず寂しい気持ちになる。
西の空に暗く雲が立ち込めているのを見て明日は雨になりそうだな、と思った。