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 船室の寝台に揺られながら、母の夢を見た。夢の中のヴァンはあの白亜の故郷にある施設で、装置に繋がれている。研究員達も装置を起動させ去った後のようだった。
 薬でヴァンの意識は半ば失われている筈なのに、部屋の隅に薄らぐような灰色の影を見つける。それが母だった。ただその母の印象は故郷で過ごした思い出にあるような笑顔でなく、何処か寂しげにやつれた風であった。
 夢から醒めて、見慣れた天井に安堵する。油断すると再び沈もうとする身体を起こし、部屋の中を見渡してからもう一度安堵する。
 九年前の事件を夢に見るのは今日が初めてではない。何かを決断するとき、決まってヴァンは故郷の夢を見た。夢の中の故郷はあの頃のままだ。ヴァンの大義を賛辞するでなく、その大義の為の犠牲をなじるでなく、ただ遠い陽炎のように白い街並みは美しく揺れている。だがそこには誰もいない。ただ青い空と、白い街とが美しいコントラストを描くだけだ。
 きっと自分は、もうあの柔らかな日差しの中に戻ることは出来ない。行き着くところには、確かにあの白亜の街並みが存在するのに、そう思えてならなかった。ガイに詰め寄られたときに、初めてヴァンは自覚した。
 目を閉じて、言えなかった本当のことを思い出す。ガイにも、彼に言えなかった本当のことだ。
 ベルケンド襲撃の日は雨が降った。
 導師との計画に基づき、預言の英雄ルーク・フォン・ファブレを被験体(オリジナル)に完全同位体を造る計画が始まった。それには先ずルークからレプリカ情報を抜き出す必要がある。イオンの言葉通りルークを確保するには、ベルケンドにいる時が最も好都合だった。導師とで秘密裏に神託の盾(オラクル)から引き抜いた兵で構成された先遣隊は、特に手間取ることなくもなく街を制圧することに成功した。足がつかないよう予めマルクトの軍服を用意しておいた。
 ヴァンが街に到着した頃、雨が降り出した。報告に来た兵を散開させ、自身も街へ入る。静まり返った街の中、雨の音と巨大な歯車の音とが響いていた。
 ルークの確保は兵に命じてある。それよりもヴァンはルークの使用人として同行している筈のガイが、今回のことに巻き込まれる前に見つけなくてはならないと考えた。事前に計画を知らせていられたら良かったのだが、如何せん時間がなかった。否、それはいい訳だった。どう考えても常軌を逸している。年若い主の胸中を思うと、どうしても全てを打ち明けることは出来なかっただろう。
 街の中を探しても一向にガイは見つからず、ヴァンは施設へ向かった。ルークに訊いた方が早いと思ったからだ。
 一転して、施設の中には血の臭いが充満していた。薬品の匂いも入り混じって、吐き気がする。目的はあくまで被験体の確保だけだったが、流石に護衛官との交戦は避けられなかったようで、マルクト、キムラスカ両国の軍服を着た兵士がどちらが多いという訳でなく床に転がっている。
 部屋の隅で逃げ遅れたらしい研究員が震えているのを見つけた。
「私はローレライ教団の神託の盾(オラクル)だ。ルーク様は何処におられるか」
 ヴァンの問い掛けに研究員は答えない。口から漏れる言葉は意味を成さない。ヴァンは研究員の肩を掴み、もう一度強く言った。
「神託の盾(オラクル)です。増援に来たのです」
 言葉の意味を理解したのか、研究員が緩々と顔を上げた。
「ルーク様は?」ヴァンはもう一度問うた。
「お、奥……この、奥に」
 研究員が指す扉に目を遣るのと、制圧が完了した報告に外から兵がやって来るのとはほぼ同時だった。ヴァンは立ち上がると扉へ向かい、背中越しに兵に命じた。
「始末を」
 扉の先に、長く廊下が続いた。足早に駆け抜ける。明り取りの為に設けられた窓には、滝のように雨が流れていた。
 暫らく進み、兵が相打ちに扉の前で倒れているのを見つける。部屋の中にはルークがいた。
 いつかの木漏れ日の庭で見たときのように、彼は背中を向けて立ち尽くしていた。言葉もなく、俯いている。以前と違うのは視線の先にあるものが明確であるということだけだった。足元には死体が、手には真新しい血の着いた剣が握られていた。
「ルーク」
 いつかのように、声を掛けた。彼は顔を上げたようだったが振り向かなかった。代わりに手から剣が滑り落ちた。自分の手を見、それからゆっくりと膝を着いてその場に座り込む。
「あ……」
 小さく喉から声が漏れた。それを封切りにしたように、背中が小刻みに震えだす。ヴァンはルークに近付くと、その肩に手を置いた。緩慢な動作で、視線が向けられた。
「せん……せ……ぃ……?」
「ああ」
 睫毛に涙が溜まっていた。それから、思い出したように一滴流れた。
 顔面は蒼白で、明らかにルークは混乱している。当たり前だ。生まれてこの方、人の死の程遠いところでずっと暮らしてきた。人の死を目の当たりにするなどというのは、せいぜいが身内の葬儀くらいだろう。綺麗に死に化粧を施された死体と、戦場の惨殺死体とではわけが違う。その上、それが自分の手によるものだとあれば、十歳になったばかりの少年には大した衝撃に違いない。だが、ヴァンはそれを好機ととった。
 震える小さな手に、自身の手を重ねる。芯まで冷え切った、冷たい手だった。
「ルーク……よく聞くんだ」
 ヴァンの言葉にルークは応えない。構わず言葉を続けた。
「私はお前を助けに来たのだ」
「な……ら……」
 か細く、呻くような声でそう告げた後、ルークはヴァンに掴み掛かる。
「なら!今すぐ家に帰して下さい!こんな所は嫌ですッ嫌です、僕は……僕はこんな、こんな……見たくないッ嫌だ、嫌だッ」
「落ち着け!落ち着くんだルーク!」
「帰してッ……帰して下さい!僕には関係ないッ僕は……ッ僕がッ何をしたっていうんですか!」
「ルーク!」
 暴れるルークを引き寄せて抱き留めた。先ずは相手を落ち着かせる必要があると思ったからだ。ルークは、最初の内こそ暴れていたが、暫らくすると大人しくなりやがて小さく肩を震わせ始めた。
 雨音に嗚咽が混じる。ヴァンは腕に込めた力を緩めると、昔妹をあやすときにしてやったように調子をつけて背中を叩いてやった。
 俯くルークの紅い髪の隙間から白いうなじが見えている。何故だかヴァンはそこから目が離せなかった。縋るようにしていた彼の手が背中に回され、不穏な期待が過ぎる。だが、ヴァンはそれをすぐに否定した。
「ごめんなさい」腕の中でルークが、涙の混じる声で言った。
「ごめんなさい、師匠(せんせい)」
 大分落ち着いたようだ。それだけ判断するとヴァンはそっとルークから離れる。
 これ以上はいけない、と頭の中で警笛が鳴る。まだ不安げな目でルークに見上げられ、ヴァンは思わず視線を逸らした。それから、すぐに思い立ってその頭に手を乗せる。その仕種に少し不安が和らいだのか、ルークは少し歪な、それでも笑顔を向ける。
「いつまでもそんな子ども扱い」
「落ち着いたようだ」
 ルークはひとつ頷くと立ち上がった。足元は意外としっかりしていて、これならば心配ない、とヴァンは思った。
「ごめんなさい、師匠(せんせい)。師匠(せんせい)は僕を助けに来てくれたのに……こんな、取り乱してしまって」
「ルーク、その事なのだが…落ち着いて聞いて欲しい」
 ヴァンはルークに一度背を向けた。
 さて、どう切り出したものか、と逡巡する。下手な切り口は不信感を誘うだけだが、相手は多少聡いとはいえまだ子供だ。いくらでも言いようはある。
 そんなことを考えていると、背後に気配を感じた。部屋にはルークとヴァンしかいない。彼の細い手が、ヴァンの背中に触れた。思考は中断され、意識は彼の触れる箇所に集中する。
「僕、怖いんです」小さく零れた声は、微かだが震えていた。「僕、本当は怖いんです」
 その瞬間、ヴァンは愕然とした。ルークの言葉が続く。
「僕の周りで何かが起きてるんじゃないか、って。今回のこと僕の所為なんじゃないか、って」
「僕、怖くて」声にはまた涙が混じっていた。
 ヴァンは自分の中にそんな衝動があるという事実に愕然とし、また嫌悪した。それを必死に否定し、抑制しようとする。中断した思考を、引き戻そうとする。
 息を吸い、短く吐く。目を閉じて、開いた。視界にあるのは先ほどまでと寸分違わない白い壁だった。なるべくゆっくりと振り返り、ヴァンは彼の肩に手を置いた。
「いいかルーク、よく聞くんだ」声は自分でも驚く程落ち着いていた。ヴァンのただならない様子にか、ルークは怪訝そうに眉を顰めた。
「お前の言う通りだ。このままではお前は、やがて抗えぬ大きな運命に連れ去られるだろう」
「運命?」
「そうだ。お前はこれより七年の後、預言(スコア)により災厄をもたらす」
「災厄?そんな……預言(スコア)には新たな繁栄をキムラスカにもたらすって……!」
「その通りだ。だが、それはお前のもたらす災厄――多くの人々の犠牲と、何よりルーク……お前の死を以って完成する預言なのだ」
 ルークは明らかに困惑し、混乱しているようだった。もう一押しだろうか、とヴァンは言葉を続けた。
「私はお前を、むざむざと死なせたくはない」
 とうとうルークはヴァンから視線を逸らし俯いた。泣くかな、と思ったが今度はそうではないらしい。何事かを考えているようでも、ヴァンの言葉を待っているようでもあった。
「マルクトが奇襲を掛けて来た今なら、この混乱に乗じてお前を連れ出せる。私と共にダアトへ来い」
 その言葉には、最初から選択肢はなかった。例えここで否と答えようとも、それならば最初の手筈通り無理矢理連れて行くだけだ。だが、出来ることなら自分自身の意志で選んだと思えるよう、仕向けたかった。それはヴァンなりの優しさだった。
「ルーク」答えを促すように呼び掛けるが、ルークは何も言わず俯いたままだ。雨音だけが周囲を支配している。
 どれだけそうしていたか分からない。ガイのことも気になるヴァンは、彼の肩から手を外そうとした。その時、手が重ねられ引き留められる。
「父上は」発せられた声は掠れていたが、驚く程平坦だ。
「父上は、そのことを知っていたんですか?」
「ああ。本来ならローレライ教団の上層しか知らぬ秘預言(クローズドスコア)だが、大詠師が国王と公爵にだけは漏らしていたようだ」
 絶望を衝き付ける。陽の当る居場所など最初から存在しなかったのだ、と告げてやる。自分の傍らを除いては、もう彼に寄る辺はないのだ、と言い聞かせる。
 泣き出したらもう一度抱きしめてやろう、そう思った時だった。瞬きする程の刹那、彼の口元が歪むのを見た。それは本当にほんの一瞬の出来事で、次の瞬間には彼の手は自分から離れ、ルーク自身も一歩後ろに下がりヴァンから距離をとる。上げられた顔は目尻こそ赤く腫れ上がっていたが、迷いはない。
「ありがとう」はっきりした口調でルークが言った。
「でも、やっぱり一緒には行けません。父上や、伯父上を裏切ることは出来ないから」
「だが、お前の父も、伯父も、お前を裏切っていたのだぞ」
 ヴァンの言葉に一瞬、彼は傷付いたような顔をした。それから、堪らないといった様子で背中を向けた。腕の剥き出しになった箇所に、注射針の痕が生々しく残っているのが見えた。ヴァンの視線に気付いたらしいルークが、それを手で覆い隠す。
「そうですね」
「ならば!」
「それでも、僕は……」
 これ以上は今何を言っても無駄だろう。そんな雰囲気がルークからは漂っていた。強硬手段に出るしかない、そう思いながらもその小さく健気な背中を見ているとそれが出来ない。だが、それと同時にヴァンは決意を新たにする。このまま彼をキムラスカに置いてはおけない。
 今後のことも考えてルークの確保はマルクト兵に扮した部下に任せることにしよう、と思った。一度攫わせ、それを救い出すふりをしてダアトへ連れ帰ってしまえば良い。後はどうとでも言い包められる。
 外で待機させてある兵に指示を出す為、ヴァンは部屋を出ようとした。扉に手を掛けたところで、もう一度振り返る。ルークにガイのことを訊こうと思った。
 ルークは部屋に来たときと同じようにこちらに背を向けて立っていた。足元には相変わらず死体があって、それを見下ろすようにしている。何故か、そんな余裕はない筈なのにヴァンはガイのことを訊くのが躊躇われた。そのまま言葉を失い、再び扉の方を向く。
「ヴァン師匠(せんせい)」
 思いがけず掛けられた声に驚いて振り返る。彼は相変わらず背を向けていたが、視線は窓の外へと移されていた。
「ガイならバチカルにいます」
 見透かしたかのようなその言葉に、ヴァンは動揺した。言うべき言葉が見つからない。ルークは窓を眺めたまま微動だにしない。
「喧嘩しちゃったんです。僕が悪かったんですけど……仲直りせずに来ちゃいました」
「だからです」と彼は付け加えた。「でも、来なくて正解だったかも」
 声音はしっかりとしている。震えてもいない。涙混じりでもない。寧ろ弾んですらいるように聞こえる。その背中から表情は読み取れない。湿気を含んだ髪が、いつもより重たく垂れ下がるだけだ。
「何故……」
 やっと出た言葉は、そんな気の利かないものだった。
「ヴァン師匠(せんせい)に会った後は、ガイが何だか嬉しそうだから」
 よく見ると、背中はところどころ返り血で汚れていた。それは髪にも飛び散っていた。だが艶やかな彼の髪色の方が、余程禍々しい血のように見える。
「また後で来る」そう告げてヴァンは部屋を出た。
 施設を出たところで、自分の着ている教団服にも血が着いていることに気がついた。恐らく先ほどルークを抱きしめたときに付いたのだろう。
 それから、あの異様な紅と白のコントラストを思い出す。網膜の裏に焼きついた光景と、己の中に芽生えたおぞましい情念を振り払うように、ヴァンは頭を振る。
 雨はまだ止みそうにない。



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最終更新:2008年10月08日 01:19