簡潔に纏められた報告書に目を通す。決して達筆とはいえないが、読みやすい彼の字がイオンは好きだった。
ベルケンド襲撃は滞りなく行われ、目的のものも手に入った、とある。その報告に満足しながらイオンは報告書を摘まみ、そしてランプの火に近付けた。燃え移った火が目の前で揺れる。もう少しで指に到達する、そこで手放した。机の上で暫らく炎は燃え燻ぶり、やがて少しの焼跡を残して消えた。後には灰だけが残った。
イオンは時計を見ると、椅子から立ち上がった。会議の前だが、まだ時間がある。
私室を出ると、イオンは資料室へ向かった。長い階段を降りた先にその部屋はある。正確にはその手前に、部屋を用意させておいた。滅多なことでは人は来ない。部屋の前には見張りが立っていたが、イオンの姿を見止めると黙って下がった。
「ご苦労様」イオンは言うと、ドアノブに手を掛ける。
部屋は殺風景で何もない。元は物置に使われていたのを、全て運び出したのだから当たり前だ。天井は高く、明り取りの為の窓が一つ上の方についているだけで、他に照明らしい照明はない。今は昼だから幾分マシだろうが、夜ともなれば完全な闇に閉ざされるに違いない。
入ってすぐのところにヴァンがいた。イオンに気付き、振り返る。一礼され、そのまま無言で身を引いた。
白い部屋の片隅に、赤い髪の子供が蹲っている。子供といってもイオンより幾つか年かさに見えた。
誂えられたらしい大き目の教団服から覗く、痩せ細った白い四肢が彼を幼く見せているのかも知れない。彼は視線だけ動かすとイオンを見た。昏い、光を宿さない眼だ。見上げられた後、すぐに興味を失ったようにして逸らされる。
「合意の上で、って言ってなかった?」
確か報告書にはそう記載されていた。彼は自ら望んでヴァンに連れられて来た筈だ。
「頭では理解していても身体が急に変った環境に適応しないのでしょう」
外に立つ兵への体裁を気にしてか、ヴァンは丁寧に説明付けをしてくれた。
イオンは改めて、確保した英雄に目を遣る。その姿は英雄どころか、貴族の子供にすら見えない惨めなものだった。
「がっかりだな。英雄、楽しみにしてたのに」
「イオン様」
ヴァンが暗に制止するのを聞き入れずに、彼に近付く。彼は一度身体を震わせると、それから逃げるように更に壁際へ寄った。視線は合わせない。俯いている。イオンは構わず距離を詰め、そして彼の傍らにしゃがみ込んだ。
「僕はイオン。一応ヴァンの……上司、になるのかな」
振り向き、ヴァンを仰ぎ見る。ヴァンは少し呆れたような表情を見せたが、それ以上は何も言おうとしなかった。詰まらない、とイオンは思いながらまた視線を戻す。
「僕、貴方と同じなんだ」
反応のない英雄に、身を乗り出してイオンは言った。
彼は何も言わず、ただ耳元に手を遣り塞いだ。耳を塞ぐというより、それは頭を抱え込んでいるようにも見えた。それが気に入らないと、イオンは耳元で囁くようにする。
「貴方と同じ。預言(スコア)に死ねと言われたんだよ」
相手の身体が強張る。その隙に手を差し込み、そのまま耳から引き剥がして壁に打ち付けた。視界に赤い髪が散る。その表情は俯いたままで読み取れない。
「は……なし、て……下さ」
やっと漏れた声は掠れていて小さく、上手く聞き取れなかったが耳に心地よかった。
「ヤだよ」
言うと、はっとしたように相手が顔を上げる。秘色色の、深い双眸が不安げに揺れている。嗜虐心がそそられた。泣かないかな、とイオンは思った。
「預言(スコア)、聞いた?聞いたよね。だからヴァンについて来たんだ?」
近くで見ると端正な顔立ちをしている。理知的で、矢張り育ちの良さを感じさせられた。
「死の預言なんて聞かされて、嫌になっちゃったんだ?自分で考えるの。だからヴァンについて来ちゃった?」
握る力を緩めると、彼の手が滑り落ちる。脅えの色が浮かぶ眼差しは、それでもイオンの方へ向けられている。それに満足した。
「でも仕方ないよ。『死の預言を前に、人は正気でいられない』んだから」
告げると彼の目が揺れる。そして一滴、涙が伝った。イオンは笑顔を作ると、その涙を吸い取るように唇を落とした。彼の喉から引き攣ったような声が漏れた。直後、イオンを押し退けてヴァンに駆け寄り、縋るようにして震えている。もうイオンを見てはいなかった。
「イオン様」
「はぁーい。何だ、詰まらないの」
立ち上がるとヴァンに近付く。脅える英雄は、そのままヴァンの影になるよう移動した。興味をなくしたように、イオンは彼から目を逸らし部下の方を向く。
「そうそう、ネイスには第二師団を与えることにしたよ。装置はコーラル城に設置するって。あそこ、確かファブレ公爵家の別荘地だったよね?大分前に放棄されたらしいけど」
ファブレ公爵家という名前に一瞬、彼が反応したように見えたがどうでもいいことだった。
「灯台下暗しってことかな?」言うとヴァンが頷いた。
「結果が出次第、また報告を入れます。それまでは通常通りの御公務をこなして頂きたく」
「解かってるってば。もう、ヴァンは心配性なんだからー」
本当に解かっているのか、といった視線がヴァンから投げ掛けられたが気付かないふりをした。
「それと、ネイスをマルクトから引き抜いてあげたんだから、僕にもそれなりの見返りが欲しいな?」
悪戯っぽくイオンが言うと、ヴァンは納得したように一つ頷いた。予てから煩く言っていたことでだったので、最後まで言わなくても判るらしい。
「解かりました。アリエッタを貴方付きの導師守護役(フォンマスターガーディアン)に致しましょう」
「本当に?やった、嬉しいな。彼女、凄く可愛いんだ」
最後の言葉は、相変わらずヴァンの影に隠れている彼に向けたものだったが、反応らしい反応は矢張り返ってこなかった。
「アリエッタは導師より年嵩ですが」
「でも可愛いよ」
そういえば、彼女が保護されダアトへやって来たときも、今の彼と同様にヴァンにしがみ付いていた。そんな必死な様子が可愛らしかった。近付いて話しかけると、控えめな笑顔が返された。そのときに胸に浮かんだ気持ちを、イオンは今でも覚えている。けれどそれが何と形容されるべき感情なのか、それは判らない。
ヴァンから返された予想通りの、それでも嬉しい決定に機嫌を良くして、イオンは部屋を出ようと扉へ向かう。
「そうだ」
思い出したようにそう言って、振り返る。少し安心したようにヴァンの傍らに立つ彼に、アリエッタのときと同じようにイオンは笑い掛けた。
「僕たち、仲良くなれそうだね」
また、彼が脅えた表情を見せるといい、そう思った。なのに彼が返したのは、かつての彼女と同じ控えめな笑顔だった。そのことに、少なからず驚いていると更に言葉が返ってくる。
「そうですね」
彼のその言葉に、今度こそ本当にイオンは驚いた。けれどそれを表情に出すことはせず、部屋を後にする。
「死の預言を前に、人は正気でいられない」長い階段を上がりながら、先ほどの己の言葉を思い出した。