ルークが見つかってから半年が経った。発見された彼は誘拐された際に相当酷い扱いを受けたらしく、様々な障害を抱えることとなった。
発せられる言葉は意味を成さず、立って歩くことも出来ない。本人との意思の疎通すらままならない為、確認したわけではないが恐らく過去の記憶そのものをも失っている可能性が高い、とは医師の判断だ。だが、そんなルークも最近になって漸く公爵と夫人、執事とガイの顔を何となくだが認識し始めたようだ。
ここ何日か雨が降り続いている。窓の外は昼間だというのに暗い。横薙ぎの風が雨粒を窓に叩きつける。嵐が近い。
ルークの部屋を訪ねると寝台の上に一つ、頭までシーツに包まった塊が転がっていた。以前の彼では有り得ない素直な反応に思わずガイは笑みを溢した。
「ルーク」ガイは声を掛ける。
彼がシーツの中から顔を半分覗かせた。声を掛けたのがガイであることを認識すると、安心したような顔を見せる。しかしその直後に都合良く外で雷などが鳴るものだから、慌ててまた引っ込める。その様子が可笑しくて、ガイは思わず声をあげて笑った。それからベッドに腰掛けて、昔の自分に姉がそうしてくれたように調子をつけて背中を叩いた。
帰ってきたルークといると不思議な気持ちになる。あれ程までに凝り固まっていた復讐心が、穏やかに解きほぐされていく。彼の笑顔に苛立ちを覚えることもなく、一緒に笑いあえる。これは何だ、とガイは思った。
ルークが上半身を起こしてガイにしがみ付いて来た。背中に腕を回しながら身体を前後に揺らす。こんな嵐の日に、けれどガイはとても穏やかだった。
ルークを寝かしつけると部屋に戻った。ペールはいない。人気のない部屋は湿気を孕み、冷え切っていた。寝台に腰掛て、ガイは自身を抱くようにして俯いた。
情に流されてはいけない。ルークに対する想いが揺らぐ。思い出せと、思い出せない過去の記憶を必死に手繰り寄せて理由にする。それでもどうしても、今のルークを貶めることはガイには出来そうにない。そんな自分を歯痒く思う。
身体から腕を外し、寝台の上に落とす。そのときに、違和感を覚えた。冷えた寝台の、窓に近い箇所だ。注意深く意識して触れてみる。微かに湿っていた。窓を見ても完全に閉まっている。
ガイは立ち上がり、周囲を見渡す。朝と変った形跡はない。盗られるようなものもない。見つかって困るようなものもガイは持っていない。他に、窓に近い床が少し濡れていた。間違いなく開いた窓から吹き込んだものだろう。
ガイは窓の鍵を確かめようと近付き、ふと脇にある机の上もまた、濡れていることに気付いた。束ねられたメモ用紙の一番上に、文字が走り書きされている。朝にはなかったその筆跡はガイのよく見知ったもので、けれど今は見ることが叶わないものだ。机の上の湿った箇所は、よく見ると子供の小さな手の跡に見えなくもない。
背筋に悪寒が走る。急き立てるようにしてガイは窓に駆け寄った。
鍵は開いていた。縁には少しだけ泥が付着している。雨が吹き込むのも構わずに窓を開け放つ。
言葉を失った。遠く、王城前の空中庭園を小さな赤い影が一瞬通り過ぎて消えた。既に人影の消えた一点を凝視したままガイは動けない。
「ガイラルディア様?」
帰ってきたペールが不審そうに声を掛けた。現実に引き戻されたように、ガイは開け放たれた窓に背を向ける。机の上の一番上のメモを毟り取ると、雨の中へ駆け出していった。
叩きつけるような雨の中を走る。垂れて来た雨水が口の中に入る前に拭う。色を無くした世界に、先程の赤い影を見つけようと目を凝らす。雨の音が煩い。まるでルークが攫われたあのときのような、性質の悪い予感だ。
「ガイラルディア様」
そして、あのときのことがあってから、自分のそういった類の予感は当るのだと思い知らされた。
「ヴァンデスデルカ……」
雨の中、色を無くした世界で色のない男と対峙する。
ルークが誘拐されてから、公爵家での剣術指南も一時打ち切りということになった。ヴァンはダアトに戻っている筈だった。
「どうなさいました、こんな雨の中」
「あんたこそ」
「お訊きしたいことがありました」
脳裏に、赤い影が過ぎる。一拍置いて、唇を嘗めてから答える。
「何だ?」
「何か、変ったことはありませんでしたか」
心臓が大きく脈打った。この男が言わんとしているのは、あの影のことではないだろうか、とガイは思った。あの有り得ない幻の正体を、この男なら知っている。この男に問えば、きっとガイの求める答えが返ってくるに違い。
「些細なことでも構いません」穏やかな調子でヴァンが言う。
ガイは迷った。しかし何を迷うことがあるのか、それが判らない。
「何も」
ガイは答えた。ポケットの中のメモを強く握り締める。
「そう、ですか」
「何かあったのか」
「教団で身柄を拘束していた参考人が行方を晦ませましてね。ランバルディア王家に怨恨を抱く者でしたから、こちらに立ち寄っているのではないかと思ったのです」
「何もないのなら、それに越した事はありません」そう告げるヴァンの表情に偽りはないように思えた。
「それを伝えにわざわざ?」
「ええ」
「そうか。こっちには何日滞在する予定なんだ?」
「ことが済み次第帰国する予定です。それまではいつもの宿に宿泊することになるかと」
「解かった。何か変ったことがあったら報告に行く」
「お願いします」ヴァンが行った。
「それと、くれぐれも私がバチカルにいることは内密に」
「解かってる。俺だけあんたが来てるのを知ってるのも変な話だしな」
そうとだけ告げてガイはその場を後にした。ヴァンもまた立ち去る。それを確認すると、ガイは逃げるようにして走り出した。ポケットからメモ用紙を取り出す。
もう、あの赤い影を探そうという気は起きなかった。ただ、ヴァンにそのことを言ってはいけない、それだけは解かった。
翌朝、嵐が去った後にヴァンの滞在している部屋を訪ねた。ヴァンは既にいなかった。
屋敷に戻る途中、ポケットに入れたままにしていたメモを取り出した。握り締めて皺の縒ったメモは、開くのが大変だった。
「ごめん」と書かれていた文字は、雨に滲んでその意味を失っていた。