果てがない、とはこのことを言うのだろう。何処までも続く砂の海を歩く。ヴァンの少し後ろを、重たい足取りでルークがついて来る。
早朝、バチカルを経った。流石にルークを連れて港を使うわけにはいかなかったので、ヴァンは砂漠を渡りケセドニアへ向かうことにした。
砂漠越えを告げてもルークには特に不平不満はないようで、ただ素直に一つ頷いた。幼い身体には負担が大きいだろうに、こうして何時間も水の補給なく歩き通しでいても、ルークは文句の一つも言わない。
素直に言われたことに従う彼の姿は、公爵家にいた頃から変らず健気で、そのことにヴァンは良い印象を抱いていた。けれど今は少し違う。今はその姿が痛々しい。
何度か立ち止まり、彼と足並みが揃うのを待つ。その度に、彼はヴァンの顔を見上げると力なく微笑む。
「少し休むか?」堪り兼ねてヴァンが訊く。彼は矢張り首を横に振るだけだ。
そのまま、また二人は黙って歩く。
彼をこんな風にしてしまったのは何だろう。親は預言(スコア)の陰が付き纏う彼を、素直に愛することができない。自分を押し殺し、甘えることも我が儘を言うこともなく、従順であり続ける。それは一見理想の子供のようでいて、酷く歪んでいる。ただ、彼には他に術がなかった。最初に愛すべき、愛されるべき人である親から、愛を得る術がなかった。幼い子供が考えて、行き着いた先が自分の心を殺し続けるという答えだった。
その選択を彼にさせたのは周りの大人達だ。その中には、きっとヴァンも含まれている。
いつの間にかルークがヴァンの隣に並ぶようにして歩いていた。気付いて視線を向けると、彼が何事かを言う。けれど声は掠れていて上手く聞き取れない。ヴァンは身を屈めた。
「水が飲みたい」
首を僅かに傾けてルークが言った。日差し避けの黒い外套から、銀朱が幾筋か流れて散った。
「分かった。少し休もう」
ヴァンは腰にぶら下げた革袋を外すと彼に渡してやる。
「一度に飲んではいけない。ゆっくり飲みなさい」
「はい」渡された革袋に口を付ける前に、彼はそう返事をした。
頭上高くから降り注ぐ日差しを遮るものはなにもない。上げた視線の先には荒涼とした砂漠が漠然と広がるだけだ。時折吹く風にも矢張り砂粒が混じっており、それに目をしかめる。砂塵が風に舞い上がり広がる様子は、重たくなびく紗衣のようだった。
黒い外套に頭から爪先まで覆われた子供が、傍らにしゃがみ込んでいる。砂を握っては、手の平から溢す。それを繰り返す。色濃く伸びた影の上に、意味を成さない模様が広がる。
「何もない」
砂遊びをやめて、彼が地平を眺めながら言った。同じように地平の果てに目を遣る。掃いたように何もない、黄金の波から潮騒は聞こえない。
「バチカルの近くに、こんな場所があったんだ」
何が可笑しいのか、彼が笑う。
彼をバチカルから連れ出したことが良かったのか、それは今でも判らない。何も知らない子供を、自らの復讐に巻き込みレプリカを造ったという事実、それ自体は例えどんな大義名分を振りかざそうと、正当化されることはないのだろう。計画に利用し、全てを奪った。
ヴァンの手を取ったことを彼は後悔しているかも知れない。今回のように行方を晦まされるとそう思えてならない。どんなルークがどんな気持ちでいたのかと考えると胸が痛む。幼い子供にそんな選択をさせたことに痛んだのだろうと思ったが、それだけではないようにも思えた。けれどそこに明確な言葉付けをするのは躊躇われた。
「気にしてるのか?」
突然、子供に問われる。澄んだ、故郷の空を思わせる深い色の双眸がヴァンを見上げている。頭上に広がる青空と同じ色だ。
「何のことだ」ヴァンは言った。
「俺を攫ったこと、騙してたこと」
ルークは少し言葉を選ぶようにしてからゆっくりと、けれど単純な問いを並べた。そしてその単純な問いに、ヴァンは答えることが出来なかった。彼ではなく、後悔しているのはヴァン自身なのではないか、そう問われた。
彼はまた足元に手を這わせ、砂を掬い上げて溢す。
彼の問いは酷く簡単だ。答えは二つしかない。けれどヴァンにとってはそのどちらでもないように思えた。そこに正しさを見出すことはできない。だからといって後悔もない。
「もし……もしも、貴方が後悔してるというのなら、それはお門違いだ」
ルークが手を払いながら立ち上がる。風が吹いて外套のフードが捲れて赤い髪が流れる。
「貴方が連れ出してくれなければ、俺は何も知らないまま預言(スコア)に殺されてた」
何処までも果てしなく続く、白い黄金と雲ひとつない青空のコントラストの下、一滴の血がシミになり広がるように、彼の髪が風になびいている。言葉はまるで歌うように心地よく響く。
「貴方とこうして話すこともなかった」ルークの手がヴァンの手に触れる。
こんな風に彼に触れられるのは初めてだった。彼はヴァンの手を小さな両手で包むようにしてとると言った。俯いている表情は判らなかったが、声は何処か弾んでいるように聞こえる。そういえば、彼はもうずっとヴァンに敬語で話すのをやめていたのだということを思い出す。それを不快には思わない。
「それだけで充分だから、貴方はもっと俺を有効に使うべきだと思う」
彼の発言に、ヴァンは少なからず驚いた。
「ルーク?」
「超振動とか、色々。腐らせてないで使えよ」
ルークが顔を上げ、目が合った。すると彼は微笑んで見せた。それは今まで彼が見せたことのない、本当に屈託のないものでヴァンはどうしてだかたまらずに泣きたくなる。
「俺を使え、ヴァン」
穏やかに彼が言う。彼が呼ぶ自分の名前は耳によく馴染んだ。
何を思い考えて幼い彼がこの言葉を口にしたのか、ヴァンには解からない。ただ、きっとそう言わせたのは自分なのだ、と思った。
「分かった」
「うん、じゃあ約束」言って彼が小指を立てた。
「指切りはしないのではなかったのか?」
指切りをして約束をしても公爵はそれを果たした例がないのだと、昔ルークが言っていたのを思い出す。
「一つくらいは叶うと良いと思って」
ヴァンの手首を掴んで引き寄せると、無理矢理に小指を絡め取った。ヴァンが抵抗せずにいたので、彼は満足そうな笑顔を浮かべた。
「約束、したから」
彼は笑顔をそのままに触れていた手を離す。それを逆にヴァンが握った。
「何?」手を握り返しながら彼が訊いた。
「いつか……」
青い空を背に、彼の髪が揺れている。一面の白に、空の青に故郷の面影が重なる。
このまま計画を推し進め、フォミクリーがレプリカ大地作成に実践投入できるほどの成果を上げたら、先ずはホドを造ろうと思った。そして、その時に隣に居るのが彼だと良い、そう思った。
青い空と、白亜の街並みの間には何者も存在しない。いつか帰る故郷が偽者でも、そこに在り得ない赤い陽炎が揺れる様は、とても美しいのだろう。それを見てみたいと思う。
「ヴァン?」
なのに、言葉は先に続かなかった。どうしても、続けることができなかった。
繋いだ手は固くそのままに、二人はまた歩き出した。青と白の境界に色濃い影が二つ伸びていた。