鏡には青白い顔が映し出されている。血の気のない、死人のような顔色だ。掌を押し当てて、唇の映る箇所をなぞる様にして俯いた。開いたままの蛇口から流れる水が、飛沫を上げて昏い排水溝に吸い込まれていく。
洗面所の外で、扉が数度叩かれる音がした。ヴァンの報告かも知れない。水を止める。上げた顔は相変わらずの蒼白だった。叩くと、少し頬に赤みが戻る。それを確認するとイオンは洗面所から執務室へ戻り、扉に向かって声を掛けた。
立っているのも辛かったので、椅子に座る。扉が開き現われたヴァンが形式的な礼をして部屋に入ってきた。
「お身体の方は?」
「いいよ、誰もいない」
質問にはすぐに答えず、別のことをイオンが告げると男は浅く笑みを溢す。
「身体の調子はどうだ?」
「ちょっと気持ち悪いかな。レプリカ情報なんてそうそう抜くものじゃないね」
「ヴァンもやってみなよ」イオンが言うと、男は今度は苦笑した。
自分だけ座っているのも気が引けたので、儀礼的にソファに座るようヴァンを促すが、彼はそれをやんわりと断った。言うべきことを言ってしまえば、あとは気楽なもので深く椅子に座り直す。
「それより、レプリカ作成はどうなってる?上手く行くの?」
「ああ、今月中には試作体第一号が完成するだろう」
「結構掛かるんだ……英雄殿のときはもっと短期でできたのに」
「矢張り今の猊下の身体には負荷が掛かりすぎるのでね。あれの場合とでは勝手が違う」
ルーク・フォン・ファブレを使った生体レプリカの試作体は無事完成した。被験体(オリジナル)は一度の脱走を踏まえて、今は監視がついた状態で教団が軟禁している。経過を見ても被験体(オリジナル)の状態は良好だった為、当初の予定通りイオンのレプリカ情報を引き抜き導師レプリカ作成が始まった。
「そろそろ身辺整理をしておくべきかな?今の僕を知る人は、そのままにしておけないもんね」
「それが良いだろう」
ヴァンから同意が得られた。予想通りの答えは納得の行くものだったが、それは同時にイオンの死の肯定でもあった
導師護衛役(フォンマスターガーディアン)としてイオンに付き添っている少女には何も知らせていない。彼女の笑顔を思い出して、不快な気持ちになる。
「導師?」
押し黙ったままのイオンにヴァンが声を掛けた。
「ヴァン……」言うべきか、迷う。
弱味を見せるようで嫌だった。けれどそんなつまらない自尊心よりも、イオンは少女の今後の方が大事だった。
「アリエッタには良くしてあげて欲しいな」
イオンの言葉に、ヴァンは驚いたようだった。男の珍しい表情に、逆にイオンも驚く。
「なぁに?僕、変なこと言ったかな」
「いや……」
すぐに取り繕い、いつもの笑顔が向けられる。こういうところが狡いとイオンは思う。
「猊下がそのような物言いをするのは初めてだ」
「子供みたいな我が儘言ってるって思う?」
イオンを見下ろす浅縹の双眸は穏やかではあったが、それ以上の意図は読み取れない。イオンは溜息を吐くとのびをして、背凭れに反り返った。
「遺言だとでも思って」
なるべく何でもないように聞こえるよう言ったつもりだ。ヴァンの表情は静かだった。
「ご随意に」ヴァンが言った。
イオンは顔を逸らした。窓の外ではゆったりと、雲が浅い色の空を泳いでいる。葉の落ちた枝には鶸が二羽とまっていた。風がそよぐ音以外、何も聞こえない。沈黙を先に破ったのはヴァンだった。
「ところで」
視線だけ先に戻し、それから改めてヴァンに向き直る。
「特務師団編成の話だが……」
「うん。大丈夫、上手くやったから」
それは主席総長であるヴァンの指揮下に、新たな師団を編成するという話だった。彼はその師団長にルーク・フォン・ファブレを据えるつもりだ。そもそも姿を隠さなくてはならないルークの為に新設された師団だった。少人数編成で、公の場に出ることは先ずないだろう。権限もなく、階位も与えられはしないが、それで充分だとヴァンは言った。
「僕はホントは反対なんだよ?こんな無理を通してまで彼を使う必要があるのかなぁ」
「あれを手元に置くべきだと先に言い出したのは貴方だろう」
「そうなんだけど、ね」言いよどむ。
あの少年とは彼が連れて来られてすぐに、一度会ったきりだった。最初は、わけも解らず脅えるただの子供だと思った。預言の英雄とはいえ、上流階級で裕福な暮らしをしてきたであろう彼を拐かし、或いは自分と同じところにまで貶めることによって優越感に浸る気だったのかも知れない。脅える彼を見て、自分の運命の慰めにしようと思ったのかも知れない。けれど、イオンは今も彼の溢した笑みを忘れられずにいた。混乱し、脅える少年が見せた去り際の笑みだ。
「ねぇヴァン?僕はもうすぐいなくなってしまうね。そして何もしてあげられなくなるんだ。モースを黙らせることも、無茶なお願い聞いてあげることも出来なくなる。だから、信じてくれなくても良いから覚えてて」
言いながら、それでもヴァン一人でもどうにかできるだけの土台は既に用意されていることは分かっていた。
「ルーク・フォン・ファブレを信用しちゃ駄目だよ」
あのとき、ルークが見せた笑みは空ろに昏く、そして狡猾さを漂わせるものだった。あれはただ成すが儘になるものではない。底知れない何かを飼っている。それが何かまでは判らない。だからイオンには忠告することしか出来ない。
「導師は彼に少し似ているな」
ヴァンが笑った。何を思ってヴァンがそう言ったのかは解らない。ただその言葉に、一瞬どんな顔をして良いのか判らなかった。結局、いつもの笑顔を乗せる。
「冗談じゃない、吐き気がするよ」
思ったことを素直に言うと、また珍しくヴァンが驚いたような顔をするものだから、今度は堪らず声を上げて笑った。