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 筆を持ってから気がつくと十分近く経っていた。机の上の紙片は窓から差し込む光の明暗以外は、ただ白く何ものも存在しない。リグレットに与えられている執務室は日当たりが良く、この季節のこの時間は室内に灯りを入れる必要もない。窓からはまどろみを誘う陽の光が柔らかに差し込んでいる。
 先日、ユリアシティから帰った彼女を上司であるヴァンが呼び出した。その際、渡されたのは細い白金の鎖に、大粒の星条青玉(スターサファイア)があしらわれたペンダントトップのついている、高価そうな首飾りだった。石と土台となる装飾との間には溝があり、小さなものだったら収納出来そうな造りになっている。
「これは」
 不思議に思い、リグレットはヴァンに問うた。
 リグレットの問いにヴァンはすぐに答えない。向けられた背中からは何の感情も読み取れない。
「それは私とティアの、母の持っていたものだ。お前の手から渡してやって欲しい」
「閣下?」
 それだけ告げると、彼は立ち去った。
 ヴァンは底の知れない男だ。この男は命を狙ったリグレットを副官として手元に置き、あまつさえ唯一の肉親である妹の指導を任せた。ならば、とリグレットはこの男の傍らに控えながら、復讐の機会を窺う筈だった。それが、今やその決意に揺らぎが生じている。明かされていく、自分と同じ「犠牲者」だという男の過去と、何より彼に任されたティアの存在が、リグレットの動揺を誘った。そして、仇なのだと解っていても、ヴァンの信念と思想に惹かれた。
 今、彼から渡された首飾りは机の上の筆立ての横で、陽の光を照り返し輝いている。筆を置き、リグレットは石に手を伸ばした。冷たい感触と、細い鎖が擦れて鳴る音がした。手の中の星条青玉(スターサファイア)は角度を変えると、その度に違う煌めきを見せた。石を見つめながら紙片にしたためるべき、最も適切な言葉を見つけようとする。浮かぶ言葉はどれも真実味を欠いていて滑稽だった。けれど、それは伝えなくてはいけないことだった。
 そのままで暫らくいると、扉を叩く音がした。慌てて顔を上げ時計を見る。
「開いている。入りなさい」
 言いながら首飾りを引き出しにしまう。リグレットが声を掛けると扉が開き、教団服に身を包んだ少年が部屋に入ってきた。扉が閉まるのを確認し、リグレットは立ち上がると書棚から書類を引き抜き、相変わらず白紙のままの紙片と筆を脇に遣って机の上に置いた。
 この少年は新設された特務師団の師団長になる。その為の手続きと、必要事項がこの書類には記されていた。
「ルーク・フォン・ファブレ、既に詳しいことは閣下から聞いているな」
「ああ」少年が頷く。
 改めて、リグレットは少年を正面から見据えた。表情は乏しいが整った顔立ちをしている。造りは派手で、それでいて下品さはない。英雄に相応しい容姿だと思う。
 彼はリグレットがヴァンの副官となるより以前にバチカルから誘拐したのだという。そして彼のレプリカを造り、それを替え玉としてバチカルに戻した。預言(スコア)を覆す布石と、そして英雄の力を手にする為のそれは途方もない話だった。
「部隊が与えられるとはいえ、実質的な任務が下ることは当分ないだろう。暫らくは研修期間だ」
「つまり今まで通りってことか」
 リグレットに向けていた視線を僅かに逸らして、溜息交じりに彼は言った。面白くないのか単に興味がないだけなのか、不満が滲む声だった。それを無視して話を進める。リグレットもまた彼から視線を外し、机の上の書類の一枚を手に取った。
「確か……お前は閣下から剣の指導を受けているのだったな」
「ああ。あの人付きで実戦にも何度か駆り出されたりしたこともある」
「そうか……人は?斬ったのか?」
「ああ」
 彼の答えは的確で淀みがない。リグレットは顔を上げた。彼は相変わらず詰まらなさそうな顔をして、窓の外を眺めていた。
「殺したのか?」
 念を押すように問う。
「ああ」彼は即答した。「確認できた限りでは」
 リグレットは目を伏せた。その様子を訝しく思ったのか、彼の視線が再び向けられたのが気配で判る。リグレットもまた、目を開けた。
「剣は、どうだ?お前くらいの年齢ではまだ力も弱い。閣下からはお前が望むのなら、譜銃の指導をするよう仰せ付かっているが……」
「要らねぇな」彼は肩を竦めた。
「解かった」
 彼の少年らしい不躾な態度も気にせず、リグレットは相槌を打つ。言うべきことは言ったのだから、彼がそれに耳を貸さなくても問題はなかった。すると今度は彼の方がきまりが悪いように言葉を発した。
「別に譜銃が気に入らないわけじゃない」
「?別に私は何も言っていないが」
「それもそう、だな……」
 リグレットが指摘すると彼は顔を逸らした。年相応の子供らしい彼の仕種は、幼い頃の弟を思い起こさせて懐かしかった。同時に悪戯心が湧く。
「気に入らないわけではないのならば、何故断ったのかしら」
 堅苦しい遣り取りに線引きをする為、いつもティアとの訓練の後にそうするように言葉を崩してリグレットは問うた。机の上に頬杖をついて見上げると、彼は眉根を寄せる。
「死を実感できるから、かな」
 返ってきた答えは意外なものだった。何かを思案するように、彼は言った。右手を見つめて言葉を続ける。
「引き金を引いて、ただ終わりにしたくない。せめてこの手に、感触が残れば良いと思う」
「普通は逆よ」
「そうだな。逆だよな」言って彼は笑った。
「何故笑うの」
「可笑しくないか?」
「可笑しくないわ」
 辛そうに、彼の顔が歪んだ。そして目を閉じて、数度かぶりを振る。
「そっか」彼はまた微笑んで言った。「ありがとう」
 その一連の表情に、胸が締め付けられる。それは感情を押し殺し、悲鳴を上げることを放棄した者が刹那に見せる戸惑いに似ているような気がしたからだ。
「そういえば、あんた何書いてたんだ?」
「え?」
 彼は脇に寄せられた白紙と転がった筆を指して言った。先程までしていた話題が話題だけに、告げて良いものかと考える。
「ああ、あれか」そんなリグレットの迷いとは裏腹に、彼は何事か思い当たったのか手を叩いて言った。「ヴァンにラブレター」
 一瞬、頭が白くなった。一拍置いて、今度は頭痛がしてきた。同時に、遠まわしではあるが彼の言ってることは当っているような気さえしてきた。リグレットが小さな紙片にしたためるつもりでいるのは、ありのままの真実の告白だったからだ。
「当たり?」押し黙ったまま何も言わないリグレットに、返事を促すような声が掛けられる。
 リグレットをからかっているような様子は彼にはない。変に言い訳じみた言葉を発するのも馬鹿らしく、リグレットは包み隠さず真実を言うことにした。
「遺書よ」
 告げると、彼は数度瞬いた。
「軍属だもの。用意をしておくに越したことはないわ」
 今、生きている内に真実を告げる勇気はリグレットにはなかった。けれど、自分が死ぬことによって真実が閉ざされることも耐えられない。
 彼は黙ってリグレットの言葉を聞いていた。その神妙な面持ちに思わず笑みを溢す。
「怖くなったのかしら」
「いや……」
 平坦な彼の声音は、強がりではなく本心からそう言っているのだと暗示していた。
「まるで貴方は、死に実感がないようね」
「そんなことはない」
 相変わらず抑揚のない声音だったが、今度は何処か言い訳染みて聞こえた。
 彼はもう一度繰り返して言った。「そんなことはない……」
 リグレットは彼の言葉に同調することはなかった。
「貴方も書いてみるといいんじゃないかしら、遺書」
 リグレットの言葉に、彼は少なからず戸惑っているように見えた。
「ん、やめとく……」
「そう」
 結局、彼との会話はそこで終わった。手続きに必要な書類を記入させ彼を帰す。机の上に残った書類を一纏めにして、遺書の続きを書く為に紙片と位置を入れ替える。そのとき重ねられた書類の一番上の文字に目が留まる。そこはリグレットがそうであるように、師団を率いる者の偽名が記入される欄だった。「アッシュ」とそこには書かれていた。



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最終更新:2008年10月10日 01:51