アットウィキロゴ

 

 目を開ける。頭上の太陽は先程から移動していない。大して時間が経っていないのだ、とガイは思った。午前の仕事はもう済んでいる。昼食を摂るにはまだ早く、中庭のベンチでまどろむ。屋敷の外から子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。上体を起こして頭を掻くと、髪が指先に絡まって数本抜けた。息を吹き掛けて飛ばすと、呆気なく風に攫われて消えていく。
 重たい瞼を抉じ開けて、周囲を見渡す。ガイの他に人気はない。風が木を揺らす音が心地よい。
 ガイは腰を上げた。正面に建てられた離れを見上げる。隔離されるように建てられたこの離れにはルークの部屋がある。三年前、彼が誘拐されたときに建てられたものだ。そして、そういえば今日はまだルークと会っていなかったことを思い出す。訪ねてみようか、とガイは離れの裏に周った。
 誘拐事件以来、ガイは何故かルークへの敵愾心を失っていた。発見された当初の彼の姿に平静を取り戻したのか、復讐心以上の哀れみを感じたのかは判らないが、そんなところだろう。
 結局、ルークは過去の記憶の一切を失っていた。だからなのか戻ってきたルークからは、ガイが常々不快に思っていた必要以上の自制心が感じられなかった。記憶がない所為か、年齢より言動が多少幼く無茶な我が儘にガイが困らせられることも少なくはなかったが、それでも以前よりもずっと素直に彼を受け入れることができる。
 離れの裏に周り込み、いつもの窓から彼の部屋に入ろうとして立ち止まる。視界の端に、揺れる赤い髪を見つけたからだ。中庭が日陰になることがないよう、周囲の建物は計算して建てられている。必然的に暗がりになる離れの裏の塀沿いに生えた木の下に、彼はいた。ガイには気付いていないようで、何を見ているのか地面に視線を落としたまま動かない。
「ルーク!」
 余程夢中になってその一点を見つめていたのか、声を掛けると彼の肩が大きく跳ねる。それから、恨めしそうな視線をガイに向けた。
「よう。部屋に行こうと思ってたとこなんだ」
「ンだ、ガイか。驚かせんじゃねぇーよ」
「悪い悪い」
 言いながらルークの方へ足を向ける。
「と、いうか……いいのか?課題、午後までだろうお前」ガイが訊くと彼は嘲るように鼻を鳴らした。
「あんなもんやってられっか」
 こういった物言いも過去の彼からは想像もできない。ましてや、出された課題を放置して部屋を抜け出すなどあり得ないことだった。
「それに比べて、ヴァン師匠(せんせい)の稽古はサイコーだぜ!やっぱ剣振り回してる方が全然楽しいよな」
「それは……まあ、大概の奴はそうだと思うけどな」
 ルークの口から出た名前に、一瞬息を呑む。結局ヴァンから誘拐事件の詳しい話を聞かされることはなかった。あの誘拐事件の首謀者がヴァンであることは間違いない。或いは、後ろに何者かがついていたとしても、口ぶりからしてヴァンが何らかの形で関わっているのは疑いようがない。そして、もしあの男があの誘拐事件に関わっているとしたら、こんなに簡単にルークが発見されるような失態を侵す筈がない。なのにヴァンは以前と変らない何食わぬ顔で、今もこうして公爵家に出入りしルークの指導をしていた。それがガイには腑に落ちない。
 ガイが思案に耽っていると、ルークはまた地面に視線を落としている。何かあるのか、と覗き込むがそこには木々の陰が色濃く落ちている以外何もない。整った芝生が広がるだけだ。
「そういや、お前よくこうして木の陰の下にいたな」
 呟くと、ルークが顔を上げた。秘色色の瞳が不思議そうに数度瞬く。
「ああ。記憶をなくす前のお前だよ」
「昔の俺も見てたのか」
「見るって、何を?」
 そこに明確な意図があったことに少なからず驚きながら問いを返した。もしかすると昔の彼が教えようとしてくれたこともあったかも知れなかったが、何事かを言わんとする度にガイは彼の言葉を否定してきた。
「ほら、木漏れ日が緑の上に広がって綺麗なんだよ」ルークはまるで宝物を見つけた子供のように嬉しそうな声で言った。「まるで万華鏡みたいだ」
 言われて見ると、確かに風に揺れる木の葉が落とす陰が緑の絨毯の上で踊る様は美しい。そのことに感心しながら、それ以上にルークがそんな発見をしたことにガイは驚いていた。彼はこういうことには興味を示さないとばかり思っていたからだ。
 けれど、そんなことはガイの詰まらないただの思い込みだった。本当は以前の彼とも判りあえる余地があったのかも知れない。それを思うと胸が痛む。今となっては、昔のルークの何をそんなに必死になって否定しようとしていたのか分からない。
「なあ」
「んー?」
「昔のこと、覚えてないのは辛くないか?」
 辛くない、と言って欲しかった。今が幸せだ、と言って欲しかった。そう言ってもらうことで、過去の自分の彼に対する仕打ちが許される気がした。けれど返された答えは期待したもの以上だった。
「別に。昔にばっか捕らわれてたって、前には進めねぇーし」
 何でもないようにルークは言った。ガイは言葉を失う。
 怒りを覚えてもいい筈じゃないか、と自身に問う。けれど一向に彼の言葉に腹立たしさを感じることはない。ただ胸を抉られたような痛みで言葉が詰まる。
「そう、か」
 それだけ告げて、ガイは足元に視線を落とした。そこには揺れる木漏れ日の影が美しい文様を描いていた。
 彼の言葉は真理だった。光のような、救いのような、そんな言葉だった。そこに多くの意味が含まれていることに、きっと彼自身は気付いていないに違いない。けれどガイは彼のその言葉に縋ってみようと思った。



/08

最終更新:2008年10月10日 02:08