寝台に横たわる。四肢は鉛のように重く動かない。窓からは沈む直前の、真っ赤な夕日が差し込んでいた。死んだ太陽の色だ、とイオンは思った。もう少し身体が思い通りに動くのであれば窓掛けで遮ることも出来ただろうに、それを歯痒く思う。
数え年で十三を向かえる前にイオンは死ぬ、そう預言(スコア)に詠まれた。逃れようもない運命を示すように、この身は重く寝台に沈んだまま動かない。時が近付いてくるのが判る。既に替え玉のレプリカは完成し、引継ぎもヴァンに任せてある。イオンがいなくても何の問題もない筈だ。それを喜ばしく思うべきなのに、気持ちは暗い方へばかり向いていく。
彼が倒れてから、一ヶ月が経とうとしていた。恐らくはもう二度と自分の足で立つことは叶わないだろう。最初はヴァンもレプリカを連れ、何度か部屋に報告に来た。しかし時が経つと彼らの訪問もなくなり、モースの寄越す使用人が日に何度か世話をしにくるだけになった。運ばれる食事は導師として教団に立っていた頃と変わりなかったが、盆の上には余計に多く簡素な瓶とグラスが毎回備え付けられていた。
それを寄越すモースは、薬なのだと言っていた。預言(スコア)を盲信するあの男の意図を判らないでもない。それは、早くに導師の地位を確固たるものにすべく、かつてイオンが用いた手法と同じものだったからだ。瓶の中身が一向に減る気配を見せないのを知っていながら、それでも尚寄越す彼の陰険さが癇に障る。
身体が痛くなってきた。寝返りを打とうと身を捩るが上手く行かない。何でもない重さの掛け布団が煩わしい。結局、イオンは身体を寝台へ戻した。その時、ノックもなく扉が開く音がする。まだ夕餉の配膳には早い。だがそうでもなければこの部屋を訪ねてくるものも先ず居ない筈だ。イオンは突然の訪問者に驚いたが、視線だけしか動かせない。落ちかかる天蓋で、入ってきた相手の顔は見えずにいる。
「誰…?」
発した声は思ったより冷静だった。だが相手は答えず、足音だけが室内に響く。靴音は硬質で、床との摩擦を起こしているのが金属だと知れる。恐らくは神託の盾(オラクル)兵だ。ヴァンが来たのかも知れない、そう脳裏に過ぎったところで、透ける天蓋の向こうに夕日の色より尚色濃い、死の色が浮かんだ。ゆっくりとした所作で天蓋が持ち上げられる。そこに現われた予想外の人物に、イオンは眉根を寄せた。光を宿さない、昏く落ち窪んだ双眸がイオンを見下ろしている。
そこにはあの預言の英雄がいた。
「珍しいお客さんだね……アッシュ特務師団長殿」
イオンが言うと、彼は緩く笑んだ。五年前に見た、あの時と寸分違わない凝り固まった闇を思わせる微笑だった。戦慄し、息を呑む。アッシュは特に言葉を発するでもなく、喉で笑っている。
「何か用?」物言わぬ彼に問う。
その言葉にアッシュは笑みを引くと面白くなさそうな顔をして、それからイオンに手を伸ばしてきた。突然だという理由だけでなく、彼の行動に恐怖を覚え身体は退こうとするが結局少しも動かないまま捉えられる。抗議の声を上げようと口を開き掛けたところで、彼の腕が背中に回されその意図に気付く。上体を僅かに起こされ、背に枕を入れられたその体性は、先程までに比べると随分楽だった。
「び、びっくりした……先に言ってからにし……」
咄嗟のことに反応しきれず気の抜けたような声を上げる。そんなイオンに彼は言葉を返すことなく、片膝を寝台につき身を乗り出した。寝台の軋む音がし、身体が強張る。彼は伸ばした手を、今度はイオンの首筋に当てた。
「死ぬのか?」
短く端的に発せられた彼の言葉は、けれどイオンの胸を抉った。彼の顔に表情はなく、息が掛かりそうなほど近くで静かに見つめてくる。
「そうだよ」引き攣ったような笑みと共に言葉を返した。「それとも、君が殺す?」
イオンの問いに、彼は吐息のような笑みを溢す。そして身体を離した。そのまま寝台に浅く腰掛ける。差し込んだ夕日が彼の髪色を尚一層鮮やかに見せている。
「殺しに来たんじゃないんだ」
不思議と安堵の息などは漏れなかった。ただの事実としてその言葉を口にした。彼の意図は依然として計りかねる。だが一つだけ確信を持てることはあった。それはこの男に会ったときの直感が間違っていなかったことだ。
アッシュがイオンの方を向くと、背中を鮮紅が幾筋も流れた。秘色の眼が細められ、彼の口の端が僅かに吊り上げられる。
「そんな義理もないだろう?」
彼は顎をしゃくるようにして、嘲笑と共に吐き棄てた。左腕をつくと重心を乗せ、イオンの方へ身体を向ける。
「お前は生きるんだよ。預言の時まで、生きて生きて生きろ。死の恐怖に打ち震え、怯えながら、それでもお前は生きるんだ」
耳に流れ込むそれは呪詛のようだと思った。ローレライの完全同位体である男の言葉は、抗い難い旋律をもってイオンを支配する。ローレライがユリアに告げた逃れようもない星の運命もまた、このようにして告げられたのだと思わせるような、そんな絶対の響きが彼の口から歌のように紡がれる。
いつかの彼がそうしたように耳を塞ごうとして、いつかの彼にそうしたように阻まれる。
「聞け、導師。お前は死の時まで生き続ける」
「はな……」
「生き続けて……そしてお前のしたことと、しようとしていることを見届けろ」
「離して!」堪らず叫び、彼の視線から逃れるように顔を背けた。
視界の端に、揺れる鮮紅が覗く。醜態を笑われているのだ、と思った。
今更だった。今更、何に怯えることがある。何もかも覚悟の上だった。そして何もかもをも犠牲にしてきたのだった。人間らしい感情、気の許せる友人、そして誰かを想う事すら犠牲にしてきた。何も恐れること、恐れるものはない筈だ。なのに、何故こうも彼の言葉に左右され、惑わされるのだろう。
視界の端に捉えていた赤が、不意に近くなる。そして彼はまるで出会ったときの動きを模倣するように、イオンの頬に唇を落として離れた。婉然と、男が笑みを浮かべている。
彼が退くと、それに伴い寝台が軋んだ。
「どうせ見届けるだけの覚悟もなけりゃ、自分で死ぬ根性もねぇんだろ、屑が!」
「僕は……ッ」哄笑と共に吐き出された言葉に、反論しようと口を開き掛けて詰まる。
この男に何を言えばいいのか分からない。頭は混乱したまま、思考を放棄する事を望んでいる。あんなにも抗うと決めた預言(スコア)に容易く支配される。
「とんだ腰抜け野郎だな、導師サマ?」
冷厳な彼の眼差しに耐えられない。耳に入り込んでくる言葉はまるで毒のようだ。そして確信する。彼と接したときに感じた不快感は恐怖だった。死の預言を前に正気をなくしたイオンを、彼の存在は現実に引き戻す。抗えない運命を突きつける。
黙りこんだイオンを見下ろしたまま、彼は何も言わない。
陽は既に落ち、部屋の中には夕闇が垂れ込めようとしている。
「出ていって」そう言ってイオンは顔を覆った。
アッシュは特に何も言わず、それに従った。顔は覆ったままだったので、そのときの彼がどんな表情をしていたのか判らない。
彼が出て行ってからそう間を置かず、夕食が運び込まれた。矢張りそこにはいつも通り、余分に瓶とグラスとが置かれていた。彼の言葉が思い出される。臆病者と蔑まれた。自尊心が、イオンに瓶の蓋を開けさせた。
注がれる透明な液体を、無感動な目で見つめる。そしてイオンはグラスを手にすると、縁に唇を寄せた。あおれば、それで終わる。少なくとも、あの男の呪いのような言葉を覆す事が出来る。思いながら、手が小刻みに震えだした。それを抑える為に、もう一方の手を添えた。けれど震えは収まらず、手からグラスが零れる。寝台の上に落ちると、零れた中身がシーツを濡らした。イオンはそれをただ呆然と見つめていた。グラスはただ、無機質な輝きを放っている。そして我に返ったイオンは、急いで唇を拭った。途端に、ついさっきまで自分がしようとしていたことの恐ろしさを自覚する。思わず自身の身体を掻き抱いた。
前屈みに、そのまま身体を折る。気付かなければ良かった、イオンはそう思った。
本当は預言(スコア)などどうでも良かった。死を前にイオンはただ狂気に走っていた、それだけだ。結局、正気に返ってみれば何てこともない、自分はこんなにもただただ恐ろしくて恐ろしくて仕方がない。死に損ないのちっぽけな身体の震え一つ、収めることが出来ないでいる。同時に、過ぎるのは彼もまた「死の預言」を前にした人間だということだった。正気ではないのかも知れない。自分がそうだったように、狂気に駆られているのかも知れない。けれど更に思い浮かんだ考えに、馬鹿馬鹿しくなってやめた。「死の預言」を前に、振り回されるのはいつだって人間だ。化け物には関係ない、そう思った。そうして、何故だか遠ざけた筈の、あの薄紅の髪の少女に無性に会いたくなった。
堪らずに涙が溢れるのを、何とか声だけは押し留める。それが今のイオンに出来る精一杯だった。