アットウィキロゴ

 

 母に初めて嘘をついたのは、ヴァンが十三のときだった。
 そもそものきっかけは、母へのコンプレックスにあったのだと思う。母は信仰に裏切られ全てを失った。預言(スコア)はホドの崩落を詠み、彼女の夫を死に追い遣り、居場所を奪った。なのに、崩落のときに身篭っていた妹が生まれ、母を支えていく事をヴァンが決意しても、彼女の心は一向に前へ進むことが出来ずにいた。ヴァンにも妹にも彼女は関心を示さず、ただまるで縋るようにいつまでも信仰を棄てずにいた。そして彼女は自分と同じように、信仰をヴァンに強要した。それがヴァンには苦痛でならなかった。そんなこともあって、ヴァンは母から逃げるように、しばしば外殻大地へ足を伸ばした。外殻大地はホドを失っても何事もないように、空は青く陽の光は穏やかで、その理不尽に怒りを覚えた。魔界(クリフォト)にも外殻大地にもヴァンの心休まる場所はなかった。
 信仰の中心であるダアトとはいえ、必ず暗がりに?がる道がある。そんな隙間に入り込み、陽の光も差さない陰に溶け込むことが、その頃のヴァンの唯一の楽しみだった。楽しみというより、それは母への意趣返しに近かった。
 初めて手にした煙草を吸ったとき、ヴァンは酷い罪悪感を覚えた。顔馴染みになった男の仕事を手伝ってやたっところ、押し付けられたものだ。そのまま棄てるのも勿体ない気がしたので、口に咥えて火を点けようとしたのだが上手くいかなかった。
「吸わなきゃ点かねぇぞ」
 慣れないヴァンの様子を見て男が言った。言われたように今度は吸い込みながら火を点けて、噎せた。喉と鼻とが言いようも知れない臭いに包まれる。随分と遠くに男の笑い声が聞こえた。閉じた目の瞼の裏に、祈る母の姿が過ぎる。それは、一心に信仰に縋る愚かな女の姿だった。彼女の妄執を払うように、更に強くヴァンは煙を吸った。
 外殻大地への来訪は回を増すごとに滞在時間が長くなっていった。ダアトは何もない街だったが、それでも人の行き来が盛んである分ユリアシティよりかは幾分マシだった。何より、外殻大地にいる間は母と顔を合わせずに済む。そしてとうとう、一日帰らずにいた。湧水洞を一人歩きながら、ヴァンは必死に母への言い訳を考えた。それでも結局、言い訳らしい言い訳も浮かばないまま、いつの間にかユリアロードの前に立っていた。
「ローレライ教団の詠師様のお手伝いをしていて、昨日の内に帰れなかったんだ」
 母の姿を視止めると、彼女が何事かを言う前にヴァンは一息にそれだけを告げた。母はヴァンの言い訳に何を言うまでもなく、それを素直に信じたようだった。ヴァンはその反応に罪悪感を抱く一方、密かな優越を感じた。
 そもそも、ホドの崩落より以前からヴァンにはローレライ教団、預言(スコア)への信仰心はなかった。預言(スコア)を信じないではなかったが、それ以上にただ信仰の対象として盲信し続けることを常々疑問に思っていた。そしてホドの崩落が起きた。以来ヴァンは預言を信仰するどころか憎悪すらするようになった。それは人として当然の心理だと思う。しかし、母はそうではなかった。彼女にはもう、信仰以外何ものも残されてはいなかった。ヴァンも妹も母の目には入っていなかった。そんな母の姿は益々、ヴァンの預言(スコア)への憎悪を募らせた。
 やがてヴァンは毎朝の礼拝へも出席しなくなった。外殻大地の教団員の手伝いが忙しい、というのを言い訳にした。事実ヴァンの外殻大地訪問は以前にも増して頻繁になり、その日の内に帰らないことも多くなった。
 丁度そんな頃から、母が心臓の発作を訴えるようになった。発作は一時的なもので、ヴァンは大して気に留めることはなかったが、そんな彼女を見ながら矢張り預言など救いでも何でもないのだ、と思った。結局、何も救いはしないのだ、と思った。同時に、いい加減母が目を覚ましてくれることを望みもした。それでも、彼女は毎朝早くに起きては、居住区の礼拝堂へ重い足を引き摺るようにして出かけるのだった。
 いつものようにヴァンは外殻大地へ出掛けた。ユリアシティで供給された、僅かばかりの紙幣を母の財布から幾らか盗み、それで遊びほうけるのが常だった。そしてその日は、日付が変る前にユリアシティへ戻った。
 居住区にあてがわれたヴァン達母子の部屋へ戻ると、扉を開けたところに母がいた。この時間には既に彼女は床に就いている筈だった。机に突っ伏すようにして顔を覆った母の表情は窺い知れない。そしてヴァンに気付くと緩慢な動作で顔を上げた。物言わぬ母に見つめられる。そして、ゆっくりと彼女の顔が歪み、その目から涙が溢れた。たまたま外殻大地へ訪れていた市長がヴァンを見かけ、そして一切がばれたのだと知った。母のすすり泣く声を聞きながら、ヴァンはどうしたらこの場を切り抜けることが出来るのか、その言い訳ばかりを考えていた。罪悪感は二の次だった。

 ユリアシティに一人暮らしている妹を訪ねると、その足でヴァンは母の墓へ向かった。彼女は結局外殻大地に戻ることなく、その墓も魔界に在ることを望んだ。ヴァンは魔界(クリフォト)を訪れる度に、母の墓を訪ねる。居住区の奥、教会の脇を入ったところに墓地がある。慰めのように、セレニアの花が一面に咲き乱れていた。
 母の墓は小さい。そこにまだ新しい花が添えられている。周囲に咲くものよりもやや小ぶりだったが、その花もセレニアだった。母の墓の前で、ヴァンはいつものように彼女が死んだ日のことを思った。彼女が死んだ瞬間のことを考えた。それはヴァンにとって辛い記憶だった。母が教会で心臓の発作に倒れ、息を引き取ろうとしているときに、ヴァンは傍にいなかった。外殻大地で、母が知れば泣き出すようなことをしていた。
 それが終わった後に、表通りに差し掛かったところでユリアシティの知り合いの一人が、慌てた様子でヴァンに近寄ってきた。どうやら、ヴァンを探していたようだった。
「早く戻れ。お母さんが発作で倒れたぞ」
 彼の言い様は切羽詰まっていて、顔面は蒼白だった。だがヴァンにはそれよりも何故自分の居場所が知れているのか、そのことの方が疑問だった。彼女に嘘がばれて以来、外殻大地への訪問は禁じられていた。ヴァンは注意に注意を払ってユリアロードを使用していた筈だった。それにこの頃頻繁に彼女は発作で倒れていた。そしてその発作は医師の調合した薬を飲む事で容易く治まることも、ヴァンは知っていた。
 いつも通りのゆったりとした足取りで、ヴァンは湧水洞を歩いた。途中襲い掛かってくる魔物を適当にあしらい、辿り着いたユリアロードをくぐる。
 ユリアシティへ着くと、そのまま廊下を真っ直ぐに進み居住区の扉へ向かった。陰鬱な街は、相変わらず重く沈んでいる。いつもと変った気配はない。部屋の前に差し掛かると、そこにはユリアシティの市長であるテオドーロが立っていた。
「お母さんは……先程、亡くなった」
 一語一句、区切るようにして言われたその言葉の意味をすんなりとヴァンは理解した。感情を押し殺したその声は、けれど言い知れない皮肉を含んだ響きを以って、ヴァンの耳に届いた。
 寝台に寝かされた母を囲むようにして、信者や近くに住む人達がヴァンに背を向けてすすり泣いていた。中年の女に抱かれた妹はまだ幼く、何が起きたのか解からないような顔をしている。ただ、人が大勢集まっているのを単純に喜んでいるように見えた。墓石のように立ち並ぶ、丸い背中を分け入ってヴァンは横たわる母の顔を見下ろした。母の顔は仄白く、眉間には苦痛の跡が残っていた。不謹慎にも、先程まで連れ立っていた女の顔を思い出し、そしてそこで初めて、自身の行ったことを自覚してヴァンは泣いた。
 ダアトで購入してきた花を、供えられたセレニアの花に沿うように置く。背後で、花の揺れる気配がした。
「閣下」
 抑揚のない女の声がした。
「リグレットか」振り返ることをせずにそう返す。「どうした」
 彼女からすぐに返事はなかった。何かを思案するような、言葉を選ぶかのような沈黙が流れる。彼女にしては珍しいことだった。
「導師が……先程、息を引き取られたそうです」
 一語一句、区切るようにして彼女は言った。その意味をすんなりと理解しながら、ヴァンは思わず笑みを溢した。彼女の言葉が、あの時の祖父と同じく感情を押し殺した、それでいて言い知れない皮肉が込められているように聞こえたからだ。



/09

 

最終更新:2008年10月11日 03:57