廃工場を抜ける前から雨が降り出したのを知っていた。鉄板の屋根を雨粒が叩く音がしていたからだ。預言(スコア)でも今日はにわか雨だと詠まれている。外に出る頃に止むか止まないかといったところだな、と見当をつける。
漸く見えた出口間近で手強い魔物と遭遇し、今はその戦闘で負った傷の手当てをしていた。治療が早くに終わったガイは、出口から除く鈍色の空を見上げていた。後ろでは同じく既に治療が済んでいるルークが、退屈だと言って騒いでいる。
「静かにしろって。また魔物が寄って来たらどうするんだ」
「おーおー望むところじゃねぇーか。暇潰しには丁度いいっつーの。ったく、ちんたらやってんじゃねぇーよ」
これ以上言っても無駄だな、と諦めてガイは視線を戻した。彼の怒りの矛先が治療を続けるティアやナタリアに向けられてしまったことに罪悪感を抱いた。ポケットに手を入れると、古びた紙の感触がした。
雨が降ると思い出すことがある。誘拐されたルークが戻って間もない頃に見た赤い影だ。一瞬の幻のようなその影は、それでも鮮明に思い出される。だが今日の雨で思い出される赤い影には、別の像が重なった。カイツールでルークを襲った六神将の一人であるという、鮮血のアッシュの後姿だ。彼のことを問おうにも、ヴァンと二人で話す機会がなかった為、結局うやむやに先延ばしにしていたのを、今日の雨で思い出した。鮮血のアッシュは、キムラスカの王族に連なる者以外には珍しい緋色の長い髪をしていた。目の前に翻る鮮紅は、何故かよく見知ったものに見えたのを覚えている。
「ガーイー、治療終わったよ!準備ばっちり~」
アニスに声を掛けられて振り向く。どうせアクゼリュスに着けばヴァンと二人になる機会も持てるだろう。そのときにでもアッシュのことを訊けばいい、そう思った。
梯子は雨に濡れて滑りやすくなっていた。退屈していたのか真っ先にルークが降りて行き、途中足を滑らせて慌てる声が聞こえた。そのままガイとジェイドも降りる。
矢張り外は雨だったが、これならば比較的早めに止みそうだった。屋根のあるところでもう暫らく待ってみてはどうだろうかと、最後に降りてきたティアに声を掛けようとしたところでルークが何かに気付いたように前方に広がる平野に目を向けた。
小高い岩か何かだろう、そう思っていた影は一隻の陸上装甲艦だった。あのシルエットには見覚えがある。そしてその前で陣形を組む兵士の鎧も、まだ記憶に新しいものだった。そしてそれ以上に、目を惹き付けるその鮮明な影にガイは息を呑んだ。
「イ、イオン様!」
呆然と立ち尽くすガイの横で、アニスが叫ぶまで捕らわれているイオンにも気付かなかった。過去に見た亡霊のような赤い影と、カイツールで翻った鮮紅が結び付く。それは幻でも亡霊でもなく、今まさにガイの前に実体を伴って存在していた。
驟雨にけぶる濡れ色をした赤に気を取られ、反応が遅れる。雨に濡れるのも厭わずルークが剣を引き抜き一団に向け駆けて行った。蘇比色の髪が目の前で鮮やかな軌跡を描く様を見て我に返る。同時に自身の混乱を認識する。在り得ない、何だこれは、と自問しても返る答えは初めから持ちようもなく、気付けばガイもまたルークを追って走り出していた。ルークの叫びに、気付いた濡れる赤い影か緩慢な動作で振り返ろうとした。肩越しに覗く秘色の目が細められる。振り返るな、ガイは念じるように心の中で叫んだ。
知らない筈だった。何故なら、ガイは何も聞かされていないからだ。なのに、ガイは既に確信を持っていた。振り返るあの赤い髪の亡霊は、ルークと同じ顔をしている。それは絶対の確信だった。
間に合わず、影も剣を引き抜く。そしてルークの放った不意打ちとも言える一撃をいとも容易く弾き返した。雨にけぶる視界に、二つの異なる朱が軌跡を描き、金属が擦れ合う音が響き渡る。目が離せない。まるで悪夢のようなその光景は、けれど鈍色の世界に花咲くかのような鮮やかさを以ってガイの前に踊っている。それでも止めなくてはいけない、そう思った。何を止めたいのか、何を叫んで良いのかもろくに判らないまま、それでも気付けば整わない呼吸の合間に大きく息を吸い込んで、そして口を開く。その非現実的な光景に目を奪われたまま、力の限り叫んだ。
「ルーク!」
叫んでから、それがどちらに向けたものだったのか、という疑問が浮かぶ。ルークもまた目の前に曝された光景に、ただ呆然と立ち尽くすだけで反応はない。その背中から伝わってくるのは動揺だけだ。声を掛けようと近付き、ガイは歩を止めた。
先程までよりずっと近い、それでも尚遠くにガイを見つめる双眸があった。ルークと同じ顔をして、けれどその表情は静かに穏やかで、見たことはない筈のそれを、懐かしいと思ってしまった。だが彼はガイと目が合ったことに気付くと、すぐに視線を逸らす。その表情から穏やかさは失せ、またガイの見たことのないような表情が浮かぶ。忌々しそうな、憎悪に歪んだ顔だ。それを未だに茫然自失でいるルークに向けると、吐き棄てるような罵倒を残してタルタロスの中へ消えて行った。
残されたガイ達は、矢張りルークと同じくただ呆然とその場に立ち尽くすことしか出来ずにいた。思い出したようにルークがその場にへたり込む。無理はない。掛ける言葉は何かないか、そんなことをガイが考えていると彼は蹲りそのまま嘔吐した。我に返って、彼の背中を擦ってやる。
「さわ、ん……な……ぅ、ぐ……っ」
一度は払い除けられた手を、それでもその背に乗せる。今度は払い除けられなかった。
震える背中を擦りながら、ガイは目を閉じた。繰り返し、瞼の裏には赤い軌跡が浮かんでは消えた。それは、あのときの亡霊が、とうとう実体を伴ってガイの前に現われたことを意味していた。ポケットの中にいつも入れて持ち歩いている、あの濡れそぼって乾いた紙片を思い出す。その意味を、漸くぼんやりと理解し始めながら、それでもガイはそれを必死に否定した。ガイはヴァンを信じていた。けれどガイの脳裏に過ぎったその意味の認識ははあまりにも悍ましいものだった。それを認めてしまったら、ガイはヴァンを信じることが出来なくなる。ヴァンは何もかもをも失ったガイに残された、ただ一つの寄る辺だった。
「大丈夫だ」ルークの背中を擦りながらガイは言った。返事はなかったが、それで構わなかった。
呪文のように、何度も何度もガイはその言葉を繰り返した。それでもあの赤い亡霊がガイに向けた眼差しが脳裏に焼き付いて離れない。そしてそれこそがまるで全ての真実を暴くように、ガイの前にヴァンの咎を見止めさせようとしていた。それは確信だった。彼が「ルーク」なのだという確信だった。
「大丈夫、大丈夫……だから」
早くこの場を立ち去りたかった。ヴァンに会いたかった。会って、あの悪夢のような光景を否定して欲しかった。けれどきっと彼がどんなに雄弁にそれを否定して見せても、それがもうガイには届かないであろう予感がした。
震えるルークの背中を擦り続ける。蹲るその背は小さく頼りない。彼は泣いているのかも知れない、ガイはふとそう思った。