ザオ遺跡を出たところで、日差しの強さに顔を顰めた。長時間暗いところにいたのだから仕方がない。後に続いて出てきたラルゴが矢張り顔を顰める。自分もこんな顔をしていたのだろう。仮面を付けていて良かった、とシンクは思った。痛む右腕を押さえる。
ザオ遺跡の深部での出来事は散々だった。予想外の戦闘が起こり、導師を奪い返され、その上アッシュとレプリカが接触した。不幸中の幸いといえば、取り敢えずはザオ遺跡のダアト式封咒の解除が終わっていたことくらいだ。
熱気で顔が蒸れるのを不愉快に思って仮面を外す。どうせここにはラルゴ以外いない。一人戦闘には参加せず無傷でいたアッシュが、漸く遺跡から出てきた。しんがりに控えていた為、魔物の追撃を食い止めるのに時間を食われて遅れたらしい。
「タルタロスは……まだ来ていない、か」
彼は僅かに目を細めて、それから周囲を見渡した。
「見れば判るだろ」暑さの所為か悪態をついても声が出ない。
「日陰に入っていろ」慣れた様子でラルゴが言った。
彼はかつてキャラバン隊の護衛についていたという。言うことを聞いておいても損はないだろう。大人しくシンクは遺跡の陰に身をひそめて寄り掛かった。
暑さで朦朧とした視界に、大小二つの黒い影が揺れている。感覚を研ぎ澄ませようと目を閉じる。負傷した痛みは薄れ、全身を熱だけが支配する。これは逆に鈍っているのではないか、と思い当たったが何故か瞼は持ち上がらなかった。疲れていたのかも知れない。
暑い、けれどこの感覚をシンクは嫌いではないと思った。皮膚と空気の境界がなくなる感覚だ。世界に溶けているような気がする。まるでそこには最初から自分など存在してなどいないような、そんな錯覚だ。それはこの世界に生れ落ち、すぐにその存在を否定され、何も得るもののなかったシンクの唯一望むもの、得ようと手を伸ばし続けている、無への回帰に似ていた。だがそんなものは都合の良い幻想だ。縋るだけ愚かな錯覚だ。シンクは誘惑を振り払うように、ゆっくりと目を開いた。そこには地平までを覆う、動かない波が広がっている。突き抜けるような蒼穹が頭上に、シミのない白い砂地は眼前にある。静寂が耳に痛い。視界を閉ざす前に見た最後の光景が、相変わらずそこにある。小さい方の影が少し離れたところで身を屈めた。
シンクはゆっくりと立ち上がった。それでも一歩踏み出すと立ち眩みがして、片手を遺跡の壁についてよろめく身体を支えた。体力は劣化していないにしても、流石に導師の身体では砂漠の日差しは辛い。
「もういいのか?」気付いたラルゴが声を掛けてきた。
「何であんた達は平気なんだよ」
「知ってるだろ」
アッシュの方を気にしながらラルゴは言った。アッシュは相変わらず二人とは離れたところでしゃがみ込んでいるので、シンクはあまり気にしなかった。それよりもそんな炎天下で座り込んで日陰に入らずにいる彼は馬鹿だな、と思った。
ラルゴの過去をアッシュは知らない。キムラスカの王女であるナタリアの婚約者であったアッシュに、彼の過去を打ち明けることは躊躇われた。そしてラルゴもまたついこの間のタルタロス襲撃までアッシュの正体を知らずにいた。だがレプリカとはラルゴも接触している。打ち明けないわけにはいかなかった。アッシュとラルゴの過去は少なからず接点がある。この二人の過去は特に気を使って隠蔽した。
地平を睨む。いつまで経っても艦影は見えない。砂漠を越えをしてケセドニアに向かう人々は少ないが、それでも陸上走行艦の巨体が人目につくのはあまり好ましくない。迂回して定刻より遅れているのかも知れない。シンクは腹を据えて気長に待つことに決めた。
「珍しいな」ラルゴが不意に口を開いた。
分からない、といった表情をシンクが向けると彼は顎をしゃくってアッシュを指した。
「いつもなら真っ先に文句を言いそうだ」
「確かに」
ラルゴの物言いが可笑しかったが、笑うだけの気力はなかった。蹲ったまま彼はずっと同じ姿勢でいる。
「いつからアレ?」あまりに動かないものだから訊いてみた。
「お前が日陰で涼み始めてすぐ、だな」
「馬鹿がいるよ……」
事実を言っただけなのに、何が可笑しかったのか声を上げてラルゴが笑った。その声に、流石のアッシュも何事かと顔を上げてこちらに視線を向けてきた。ラルゴを放って彼に近付く。
「元気そうだね、王子様」
シンクが脇に来ると手を払いながら彼も立ち上がった。秘色の目が見下ろしてくる。
「砂漠は初めてじゃねぇからな」
彼の言葉に引っ掛かりを感じる。ザオ砂漠からバチカルは近い。ヴァンはこの辺りへアッシュを任務に寄越したことはない筈だ。神託の盾に入る前に来たというのも考え難い。こんな何もない場所に危険を侵してまで貴族の子息が訪れる理由がなかったからだ。だが彼の大切な記憶を愛おしむような物言いは、それが良い思い出だったのだということを示していた。そして何故だかそれを気に食わないと思った。それを嫉妬だなどと思いたくない。そんな感情を抱けば、たちどころに自分がただの人間と変らないのだと認めてしまうことになる。それはシンクの存在意義を否定する最大の屈辱だ。
「ガイもアクゼリュスへ行くのか……」黙り込んだままでいるシンクの横で彼が呟いた。
彼の言うガイとは、レプリカルークに同行している、金髪の背の高い男だった。
アッシュが「ルーク」だった頃からの知り合いらしい。手癖の悪い男で、コーラル城では一枚食わされた。あれでいてかつては貴族だったというのだから、目の前の男といい上流階級はよく解からない。
「ヴァンは何も?」
彼の問いに答えるべきか否か迷う。アッシュには既にアクゼリュスの件は打ち明けられていると話には聞いている。だが一度は監視を命じられた相手をそう易々と信用することはシンクには出来ずにいた。
「さぁ?でもアクゼリュスへはヴァンも向かってるし、僕らが気に掛けるようなことじゃないね」
「!ヴァンも向かってるのか……大丈夫なのか?」
「それなりの準備はしてあるんじゃない?それに崩落に巻き込まれるようなことになってもヴァンにはユリアの譜歌がある」
「第二譜歌……ヴァンの妹も確か譜歌は歌えるんだったよな?」
「らしいね。とは言ってもティア・グランツはアクゼリュス到着前にリグレットが接触して引き抜きに掛かるみたいだよ」
「そう簡単にいくタマかよ。テメェの兄貴を殺そうとしたんだろ、あの女」
暑さなどまるで感じていないかのような平静さで、淡々と彼が言う。
「まあ、それで駄目なら他の手を打つことになるだろうけど……どっちにせよあんたはタルタロスで待機なんだから、関係ない話だろ」
アッシュをアクゼリュスに近付かせるわけにはいかない。彼はだ。もし彼がアクゼリュスで死ぬようなことになれば、それはまた一つユリアのが実現したということになってしまう。ヴァンのことも、そのガイという男のことも、助けに行かせるわけにはいかない。
「それより……アリエッタじゃあるまいし、いい歳して砂遊びはないんじゃない?」
話題を逸らそうと、シンクは足元に描かれた砂の文様を指した。アッシュは話を打ち切られたことを不愉快に思った様子もなく、寧ろその「砂遊び」をからかわれたことに対して決まりの悪そうな顔をした。爪先で砂の上の文様を掻き消しながら、言い訳めいた何事かを呟いている。だが彼が俯いている所為か、何を言っているのか全く解からない。丁度そのときラルゴに呼び掛けられ、振り向くと地平線に薄らぼんやりと艦影が揺れているのが見えた。
結局アッシュの言葉通りに、ヴァンの妹の説得は失敗に終わったらしい。そして、仕方なく用意していた強硬手段に出ることになった。アクゼリュスから偽の情報で彼女を誘き出し、そして捕らえるという方法だ。だがその作戦もまた、失敗に終わることになる。
アッシュが裏切ったからだ。