岩陰に身を隠して息をひそめる。相手とはかなりの距離がある為、物音さえたてなければそうそう気付かれることもないだろうが、自然とそうなってしまう。鼓動は早く、手袋の中は汗ばんでいる。気持ちが悪い。遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。聞いたことのある囀りだったが、何の鳥か思い出せない。乾いた上唇を舐めるナタリアに気付き、隣で身を屈めるガイが安心させるように微笑んだ。微笑み返したつもりだが、上手く笑顔を作れたか自信はない。
これだけ大きな森に来たのは初めてだった。頭上を覆う木々はキムラスカに生息する樹木よりも高く聳え立っている。今自分が遠く故郷を離れ、マルクト領土内に居るという事実をぼんやり自覚した。木の葉と木の葉の間から、途切れがちに青い空が覗いている。ナタリアの前では短くなったルークの髪の毛が揺れていた。巡回するマルクト兵の動きを、注意深く窺っている。昔も、こんな風に物陰に隠れているときは、いつだって目の前にはあの赤い髪が揺れていた。懐かしく思う一方で、それはこのルークではないのだということに思い当たり、それを寂しく思う。
ダアトでイオンと共に捕らえられたとき、ルークが助けに来てくれたのは勿論嬉しかった。あのときに、本来ならナタリアはルークにもっと別の言葉を掛けなくてはならなかったのだと思う。アクゼリュスの崩落という悲劇は、他の多くの仲間と同様にナタリアを極限状態へと追い込んだ。目の前で泥の海に沈んでいく子供の姿を、今でも夢に見ることがある。自分の無力さをあれ程までに噛み締めたことはない。決して己の過ちを認めようとしないルークの発した言葉は、同時にその罪を重く自覚しているからこその言い逃れなだったのだろう。あの場にいた誰よりも遣る瀬無く、追い詰められていたのは他でもないルークだったのだから、と今なら思う。
だがあのときのナタリアはそこまで彼を思いやる余裕はなかった。七年間、同じときを過ごしてきた彼がレプリカだったという事実、そしてアッシュの出現があったからだ。ナタリアは彼を残し、アッシュと共に地上へ戻った。本当なら誰よりもあのとき彼の傍にいてやらなくてはならなかったのは自分だったのに、ナタリアはそうすることが出来なかった。だがルークは違った。彼は全ての仲間に見捨てられながら、それでも変ることを決意した。それは彼の強さだと思う。
そして彼はナタリアとイオンを助けに来てくれた。それは昔の彼からしたら考えられないことだった。だから彼が来たときは驚いた。だが、何処かで同じくらい何故助けに来てくれたのがアッシュではないのだろうか、と思ったことも事実だった。そこにあるのは全てあの時の彼と同じ髪、同じ瞳、同じ肌、同じ息遣いなのに、それでも矢張りそれは全く別のものなのだ。それを思うと辛い。そう思ってしまう、そんなことを考えてしまう自分が辛い。変ろうと懸命な彼の目の前にいる自分は、何故こんなにも醜いのだろう。
「大丈夫かい、ナタリア?」
「え?……ええ」暗い方へ向く気持ちを振り切るように、努めて明るく返した。
「何でもありませんわ。少し、昔のことを思い出してしまって……」
「そういえば君は昔、よくあいつに連れられて城を抜け出してたんだっけ」
ガイの表情は穏やかだったが、ナタリアはその言葉を純粋に受け止めることは出来なかった。
「アッシュもかくれんぼは得意でしたわね」
「そうなのか?」話を聞いていたらしいルークが肩越しに訊いてきた。
「ええ。その所為でお目付け役のガイは怒られてばかりでしたのよ」
「ふぇー、あのアッシュがかくれんぼとか、あんま考えらんなぁーい」
「だな。どうせ眉間に皺とか寄せながら隠れてたんだぜ」そう言ってアニスと二人で頷き合っている。
「少し静かにして、気付かれるわ」
ティアに鋭く注意を促されると、一瞬にして談笑が鎮まった。言った彼女の方がすまなさそうな顔をする。
「ご、ごめんなさい……話していていけないわけじゃないのよ?ただ、もう少し声のトーンを落として、その……」
「ああ、悪かったなティア」
次第に声を小さくしながら俯くティアに、ガイが優しく言った。だから多くの誤解を生むことになるのだというのに、彼にはその自覚がない。
「誘拐前にもやっぱり同じようなことで、ガイとアッシュは喧嘩をしたみたいですわね」
思い出して言う。アッシュがベルケンドへ発つ前に城に来たときのことだ。思えばあれが「ルーク・フォン・ファブレ」である彼との最後の会話だった。
「な、何で君が知ってるんだ?」
「ベルケンドへ向かう前に、仲直りの相談を受けましたもの」
その言葉にガイは少し困ったような笑みを浮かべた。言ってから後悔した。今の言い方は良くない。
理由は解からないが、ガイはアッシュに良い感情を持っていない。温厚なガイが、あれだけあからさまに態度を出すということは、それなりの理由があってのことなのだろう。それに嫌味のような言葉をナタリアが返すのも見当違いだと思った。
「ごめんなさい」咄嗟に言う。
「いや、構わないよ」
「ガイは……あの時は結局ベルケンドへは行きませんでしたわね。いつもなら付き人として一緒に行っていたでしょう?」
「ああ。あいつとは結局あれで喧嘩別れしちまってた、ってことだな」ガイが笑って言った。「知らずに七年だもんなぁ」
「え……」
ガイの言葉に違和感を感じる。口元を手で覆った。今、何か引っ掛かった。
「ナタリア?」黙り込んだナタリアを気遣うようにガイが覗き込んでくる。
「ベルケンドへ発つ前、彼には会いませんでした?」
「?ああ、会ったよ。そのときに来なくていい、って言われたんだ」
歯車が掛け違うような感覚がした。あのときアッシュは確かに、出発前にガイに謝罪すると言っていた。既に彼は自分の非を認めていた筈だ。その事実を疑いようはない。
「彼、ベルケンドへ行く前に……貴方に謝ると言っていましたわ」
「俺が奴と最後に会ったのは港だ。船に乗る直前、そう言われた……」
言ってから、ガイが何かに気付いたように息を呑む。心当たりでもあるのだろう。
「ガイ、どうかしましたの?」ナタリアは問うた。
ガイは何も言わない。地面に落とした視線は一点を射抜くように動かない。もう一度呼び掛けようと口を開いたところで、ルークに肩を叩かれた。ガイも顔を上げる。ルークは無言で斜め向かいの岩陰を指した。既にティアを先頭にして、アニスとイオンは移動を始めている。ルークに手を引かれ、ナタリアも後に続いた。その手の温もりを、矢張り彼に重ねる自分がいて泣きたくなる。
「平気ですわルーク。ちゃんとついて行けますから、離して下さいません?」
「そうか?じゃ、ガイ頼むな」
その言葉の裏に潜む真意にも気付いた様子なく、ルークの手が離れる。失った体温を、今度は惜しいと思う。嫌な女だ。ナタリアは自分で自分が嫌になった。
ルークを嫌っているのではない。彼と過ごしてきた七年間は、確かにナタリアの中に色付いて存在している。だがそれ以上に、ナタリアはアッシュを愛していた。頭では解かっていても、感情がついていかない。
一足先に岩陰に隠れていたティア達と合流する。視線の先にはマルクト兵が巡回していたが、今度の物陰は木と岩の陰で、矢張りそう簡単には見つかる可能性はなさそうだ。
「うぅ~……またいる~。イオン様、大丈夫ですかぁ?あーもー、ほんとウッザーイ!マジむかつく!」
「僕は平気ですよ、アニス。それに彼らは敵ではないのですから、気長に行きましょう」
「そんな悠長なこと言ってる内にまた犠牲が出たらどうするんですかー」
「まあまあ」主従の遣り取りに堪りかねたようにガイが割って入る。「気が急ぐのも分かるが、俺達が彼らに手を出すわけにもいかないだろ」
そんな三人に、ティアがまた困ったような視線を向けている。それに気付いたルークが逸早く人差し指を立てて口元に当てた。ティアだけが悪者にならないよう、彼なりに気を遣ったのだろう。見ていて微笑ましい。
ナタリアの頭上を影が過ぎった。顔を上げる。木の枝に鳥が止まっていた。さっき聞こえたのはこの鳥の鳴き声なのだろう。全体的に灰色掛かった羽毛に覆われている。枝を掴む足は鮮やかな山吹色をしていて、尾が長く伸びている。鳴き声に確信する。郭公だ。
「お、郭公か」気付いたガイも顔を上げた。「近くに湖があるからな」
「変な名前だな。鳴き声から来てんのか?」
「多分な」
ガイが指差すところをルークも見上げる。
「私、どうも郭公という鳥は好きにはなれませんわ」
知らず知らずの内に口に出していた。不思議そうな顔をしてルークに見つめられて気付いた。
「だって可愛らしくないんですもの。大きさも色も」咄嗟に言い繕った。
「ナタリアがそんな風に言うの珍しいな」
彼の素直な反応に黙り込む。誤魔化すように嘘をついてしまったのが後ろめたい。
「でも、私も少し苦手ね」
ティアが言った。ああ、駄目、誤魔化しきれない――ティアへとルークの意識が逸れたことをこれ幸いに、ナタリアは居たたまれず唇を噛んで俯く。
「郭公は託卵の習性があるの。仕方がないといえ、残酷な気がするわ」
ティアの言葉に胸が痛んだ。元々、郭公が嫌いだったわけではない。ただルークとアッシュのことを知ってから、何となくそれを重ねて嫌だな、と思っただけだ。ルークは黙って話を聞いている。
「郭公はな、自分で巣を作らない。他の鳥の巣に卵を産むんだ」
「ふぅん」木を見上げたままルークが返事をする。
「孵化した郭公の雛が最初にするのが、元から巣にあった卵を外へ落とすことだ」
ガイはどんな気持ちでそれを口にしたのか分からない。ナタリアと同じことは考えた筈だ。だが彼は敢えてルークにそう言った。自分には出来ない、とナタリアは思った。
「ふぅん」先程と同じ調子でルークが返した。
今の彼なら言葉の裏にあるものに気付かない筈がなかったが、不思議と動揺は伝わってこない。熱心に彼が見上げる先には一羽の郭公と、そして突き抜けるように青い空が覗いていた。