蒼穹に音譜帯が浮かんでいる。夢に見た光景と同じものが今目の前にあった。夢想は現実に近付く。足元で揺れる草の感触は、かつて踏み締めたものと変らない。十八年という月日を経て、漸くヴァンは故郷へ帰ってきた。だがそこには夢の中と同じに、ヴァン以外誰の姿もない。シンクはエルドラント下降の制御に向かわせているし、リグレットは進入してくるであろうレプリカルークや妹の迎撃に向かった。
瘴気障害(インテルナルオーガン)はローレライを取り込むことに因って緩和されている。代わりに、そのローレライの存在そのものがヴァン自身を危うくさせている。どちらがマシだったろうか、と考えてやめる。どちらにせよあの状況下でヴァンに他の選択肢はなかった。それも後少しだ。全ての大地からレプリカ情報を抜き出してしまえば後はもうどうにも出来ない。ヴァンが朽ちようと、何れオリジナルの世界は消滅するだろう。それで良かった。そうでなくてもヴァンはもう二度と手の届かない筈だった故郷へ帰ってくることが出来た。ヴァンが共に帰りたいと望んだ人々は、尽く離れていってしまったがそれでも良かった。
夢の中の優しい記憶を手繰り寄せるように、生まれかけの故郷を歩いた。その中に灰色の影を探す。記憶と、夢と変らないこの白亜の街並みになら母の姿を見つけることが出来るような気がした。会ったところでどうしたいのか、それはヴァンにも分からない。
母が死んで、手元に残った彼女のものは少ない。素人目で見ても明らかに価値のあるものは、次々と他人が持っていった。残ったのは母が長年使っていた擦り切れた祈祷書と、針金の切れ掛かったロザリオくらいだった。ロザリオは中央の石を取り外して、ペンダントに作り直してリグレットに託した。彼女の手から妹に渡されただろう。そして、ヴァンの手には彼女の祈祷書がだけが残された。信仰ではなく決意の証として、ヴァンはそれを持ち続けた。
一度だけ、ルークに母のことを話したことがある。何故彼にその話をしようと思ったのか今となっては思い出せない。彼は神妙な面持ちで、終始黙ってヴァンの言葉に耳を傾けていた。
「でもヴァンは、許されたいわけじゃないんだな」話を終えると、彼はそれだけ言った。
彼の言う通りだった。だがヴァンはそのとき言われてそのとき初めて自覚した。許されたいわけではない。望んでいるのは寧ろ罪に対する、相応の罰だった。
祈祷書を取り出す。風にページが捲れる。そこに指を差し入れて破った。手を離すと宙を舞い消えていった。それを何度も繰り返す。眼下には外郭とレプリカ大地とを繋ぐ構成途中の大地が見えた。それは大小幾筋もの疎らな橋のようにも見える。ヴァンの破いた預言の端々がその隙間を縫うようにして消えていく。
空は青く、果てなく何処までも広がっている。雲ひとつなく、ただ青く高い。暴力のような風が身体に吹きつける音以外何も聞こえない。風が止むと、また耳鳴りがしそうな程の静寂が辺りを包んだ。
最後の一枚を破き終える。ヴァンはレプリカ大地の縁に立つと、そこから残った覆いを投げ捨てた。覆いは革で出来ていたので、紙のように宙に舞うことはなく、構成途中の大地と大地の狭間に吸い込まれるように消えていった。その様子を見届けると、ヴァンは踵を返した。
そのとき視界の端を無い筈の色が掠めた。まさか、と思いながらヴァンは肩越しに振り返った。遥か眼下の、幾筋にも伸びた白い大地の上にルークが居た。彼もまたヴァンを見上げていた。
ルークが何の為にここへ来たのかヴァンは知っている。どんなに繋ぎとめようとも、どんなに求めようとも、彼がヴァンの手を取ることはないのだろう。彼はここへヴァンを殺しに来たのだ。ならばそれも仕方がない。彼が望むのならヴァンはそれを受け入れようと思った。そしてこの手で彼を殺そうと思った。早く、ここまで来い。ヴァンは念じた。まるで祈るようにヴァンは念じた。そうでなければ、もう彼との接点は何処にもなかった。
ヴァンを見上げる彼の顔に表情はない。激情に駆られ、憎しみも露わに顔を歪める様子もない。静かに、感情の篭らない秘色の双眸が見上げてくるだけだ。
無音の世界に風が吹いた。彼は微動だにしない。長く伸びた鮮紅が彼の顔を覆う。向けられた視線がゆるやかに細められる。そして唇が弧を描いた。彼は口を開くと何事かを呟いた。風の音で、彼の声は聞こえない。だがきっと風が吹いていなくても彼の声は聞こえなかっただろう。二人を隔てている距離がそれを物語っていた。それでもヴァンは耳を澄ませる。彼の声を聞き取ろうと向き直り、彼の言葉を拾おうと再び大地の縁間際に立った。唇が形作る言葉を、耳ではなく目で辿る。距離はあったが辛うじて、ヴァンはその意味を理解した。そして驚愕に、ただ目を見開いた。ヴァンの様子を見て、彼は正しくその言葉の意味が伝わったことを確信したようだった。残像でも残しそうな程の嫣然とした笑みをヴァンに向ける。そして白い大地をまた歩き出した。そのときになって漸く、ヴァンは自分がとんでもない思い違いをしていたことに気が付いた。
ヴァンは身を乗り出す。眼下の彼を呼び止める言葉を探す。だが彼を繋ぎとめる言葉は既にない。
「ルーク!」ヴァンは力の限り叫んだ。
呼び掛けられると、ルークの歩みは一瞬緩やかになった。だが、結局彼はその後一度も振り返ることなく、ヴァンの視界から消えた。構築途中の白亜に、ヴァンは拳を打ち付けた。ルークの残した笑みが、目に焼き付いて離れない。
騙された。最後まで、騙された。もう終わりだ。この手にルークが戻るどころか、もう二度と彼と見えることはない。聞こえない彼の言葉は別れを意味していた。彼は、恐らく死ぬのだろう。ヴァンではない、他の何かに因って殺される。預言の如き正確さで、彼の言葉は現実になる。だが、それが決してユリアの預言(スコア)と同質のものではないということをヴァンは知っていた。全てはこの為の布石だった。
彼の賭けは、恐らく七年前に既に始まっていた。もともと理想のルーク像を演じていたのだから、その嘘に嘘を重ねたところで然程苦にもならなかったのだろう。親の愛も、親しい人間もなく、何者も信じることが叶わない孤独な子供が最後に縋ったもの、それは自分自身だった。彼はそれに必死に縋ったが、それに救いを求めることはしなかった。
あの暗い城の中で、自身と同じ形をした「モノ」を初めて目にしたとき、彼が何を思ったのかは分からない。だが、恐らくはヴァンの造り出した似姿は、憎悪の対象などではなく彼の残された最後の希望だったのではないか、と思う。本質を内側へ押し遣り、嘘で凝り固まった自分自身をこそ彼は憎んでいた。そんな自分から生まれた同質の存在は、けれど彼自身でありながら全く別の可能性を秘めていた。だが七年ぶりに再会したレプリカに彼は失望した。そしてルークはヴァンを利用し、あのレプリカを人間にまで引き上げることにしたのだろう。
レプリカルークは最早人だ。それはヴァンも認めている。ルークもそれを望んでいた。解かっていて尚、ヴァンにはもうどうすることも出来ない。自身すらその布石にして、彼は死ぬのだろう。そして、ヴァンもまた彼の言葉の意味する通りに、あのレプリカに殺されるのだ。