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「ああ!また『はずれ』じゃ!!」
しじみの目をした少女が、悔しげに叫ぶ。
少女の期待とは裏腹に、引き上げた糸に獲物は食いついてはいなかった。
口を尖らせる少女・幼き日の里保を尻目に、白髪痩身の翁が軽快に糸を引き上げる。きらきらとした川魚が連なる
姿が、里保の不満をさらに募らせた。
「どうしてじいさまはそんなにいっぱい釣れるんじゃ」
「ほっほっほ、どうしてじゃろうなぁ」
「うちもじいさまと同じようにやってるのに」
渓流での、釣り遊び。
傍から見れば祖父と孫が戯れているようにしか見えないが。
唯一つ、普通の釣りとは異なる点。それは彼らが釣竿を持っていないこと。
「糸を的確な場所に打ち込まんと、魚は釣れないけぇのぉ」
言いながら、祖父は再び糸を川面に垂らす。
頼りなげな糸一本のみで魚を釣る。餌すらつけずに、そんな不可能に近いことを目の前の老人はいとも容易くやっ
てみせるのだ。
里保とて、何も知識がなくここへ来たわけではない。
彼女もまた、糸を使い魚を釣る事はできた。現に家の庭にある池では、祖父が目を丸くして感心するくらいに、錦
鯉をひょいと釣って見せてもいたのだが。
静止した水と流れる水では、条件が違う。
そんな言い訳じみたことは言いたくない。流れる水の速さなら、十分計算できているはず。
なのに、魚は一向に里保の糸には寄ってこない。
「そうじゃのう」
焦燥感を露にし始めた孫に、祖父が助け舟を出す。
と思いきや。
「川の水に手を入れてみるんじゃな」
「それってどういう」
「目に見えるもんが全てではない。じゃが、目に見えるもんを見逃してはいけん。そういうことじゃ」
と言ってにかっと笑って見せるだけ。
正直、里保には理解できなかった。だが、やってみなければ何もはじまらない。
意を決し、さらさらと流れる川の水に自らの手をそろりと漬けてみた。
「え…これって」
「ほっほ。もう気づいたんか。何じゃ、困らせ甲斐のない孫じゃのう」
何かに「気づいた」里保にそう言葉をかける祖父ではあったが。
その顔は満面の笑みに包まれていた。
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里保の意識が追憶から戻る。
糸口は掴めた。あとはどう「やれば」いいかだけ。
「どうしました? 意識が朦朧としているんですか?」
目の前の少女が拳を再び前に構える。
だがその表情には勝利に対する確信が見て取れた。
里保は分析する。確かに少女の格闘術はなかなか侮れないものだ。加えて彼女の能力の影響下で動きの予測が立て
られない。
そんな状況から畳み掛けるように。
「『鞘師』…数百年の伝統を誇る水軍流も、意外と大したことないんですね。こんなもののために『あかねちゃん』
の人生が翻弄されるなんて…馬鹿馬鹿しい」
水軍流とそれを綿綿と伝えてきた「鞘師」への侮辱とも取るべき、少女の言葉。
しかし里保は首を振る。そんなことで激昂するより、やらなければならないことがある。
ここで倒れてしまえば、里保自身が少女の言葉を肯定したことになってしまう。
次の瞬間、少女は信じられないものを見るように目を見張った。
里保が祖父から受け継いだ赤鞘から刀を抜き、徐に自らの腿に突き刺したからだ。
強烈な痛みが、瞬時に里保の全身を駆け巡る。
「ぐっ!!」
叫びたくなるのを抑え、相手を見据える里保。
その炎にも似た視線を、少女は涼しげな顔で受け止めた。
「刺激を与えれば、能力の影響下から脱却できる、ですか」
「……」
「そんな程度じゃ、私のテリトリーは解けませんよ」
圧倒的な自信。
万が一にも、自らの敗北など考えにもない。
「ううん、わかった」
「は?」
「だいたい『わかった』」
里保は知っていた。
過信は時に、自らの身を危うくすることを。
それはこちらも同じ事。
だから一撃で、決める。
少女の視界から、里保が消える。
消えてしまったかと錯覚するくらいの、神速とも言うべき踏み込み。
なぜ里保が正確無比にこちらの懐に入ることができたのか、少女には理解できない。
だが、本能が警鐘を鳴らす。これは「危険な状態」だと。
水平に襲い掛かる、太刀筋。
少女はそれを体を反らして何とか紙一重で回避する。
ただ、少女がいた場所を流水の流れのように静かに、それでいて鋭く薙ぐ刃。
美しくも、恐ろしい。
少女がその剣技に見惚れている暇はなかった。
さらに一歩踏み出た里保の足が、不安定な少女の体勢を崩しに掛かる。
先程のは囮で、これが本命か!!
虚を突かれ、あっけなく崩れ落ちる少女。
天を仰ぐ形で倒された少女の鳩尾を襲ったのは、燃えるように赤い鞘の先だった。
魂をもぎ取られているのではないかと思うくらいの、強烈な一撃。
倒れるわけにはいかない。落ちるわけにはいかない。
強固な意志とは裏腹に、意識は穴の底に落ちてゆくが如く。
「どうして…わたしの…」
「君の能力は、精神に働きかけるものじゃなくて、物理的に『ずれ』を起こさせるもの。だったらその『ずれ』を
修正すればいい」
少女の能力は。
自らの領域内の気温や湿度を操作する。
それにより局地的に空気の密度を不均一にする。
言うなれば自由自在に陽炎や逃げ水を発生させるようなもの。
そして異常な湿度や不均一な空気、それに伴う気圧の変化が音の伝わりや皮膚感覚をも乱す。
彼女の「空気調律(エア・コンディショニング)」の領域に入った人間は文字通り、自分の立ち位置に迷うことに
なる。
しかし里保は、自らの体に刀を振るうことで、自らの身に齎された「ずれ」の具合を把握した。まるで目測を阻む
水の屈折具合を、自らの手を差し入れることで感覚調整するかのように。
自分が想定した刀の軌跡と、実際に打ち込まれた場所の「ずれ」。痛みの感覚と、実際に傷を負った場所の「ずれ」。
それらのずれ全てを把握し瞬時に調整することができたのは、里保が水軍流の看板を背負うこと、つまりは「鞘師」
の名を継ぐに相応しい資質の持ち主だからだろう。目に見えるものが全てではないが、目についたものは見逃して
はならない。祖父の教えを忠実に守ることで、里保は目の前の少女から勝利を得たのだ。
「そんなことで…やだ…ここで…あかねちゃん…」
それだけ言うと、少女は糸が切れたように気を失ってしまった。
里保は知らない。少女の言う「あかねちゃん」が自身の因縁に大きく関わっていることを。
そして。少女も含めた二人もまた、自身と同様に「響きあうもの」だということを。
投稿日:2014/11/18(火) 01:13:13.17 0
最終更新:2014年11月19日 07:52