<以下注意点>
- スピンオフ的な内容でスレタイからはかけ離れています
- 一部残酷な描写を含みます
- 聞いたこともない人たちがのっけから何人も出てきます(モデルは存在しません)
「ここまでくればもう……」
相変わらず強張った顔でハンドルにしがみつきながらではあるが、思わず漏れ出たらしい菊沢のその声には微かな希望の色が滲んでいる。
「まだ気を抜くな。そんな甘い相手じゃないことくらい身に沁みて分かっているだろう」
助手席から警告するようにそう言った市ノ瀬も、その言葉とは裏腹にやや緊張が緩み始めている自分を感じていた。
先ほどまではまったく感じなかった、煙草を吸いたいという欲求が甦ってきたのもその証拠の一つだろう。
“組織”を逃げ出してから数時間。
4人の乗るステーションワゴンは、夕刻に差し掛かった山道をひとまずの目的地に向かって順調に走っている。
1時間ほど前からは、“組織”からの追っ手はおろか自分たち以外の人間の姿さえ見かけなくなった。
「でもなんか正直拍子抜けって感じです」
「ほんとだよね」
沈黙が破られるのを待っていたかのようにして発された里美と真由の声に、市ノ瀬は思わず内心苦笑した。
後部座席で縮こまり、対向車とすれ違うたびに目を閉じて震えていたつい先ほどまでの自分たちの姿は、もう記憶の片隅にしまわれたらしい。
だが、彼女らがつい軽口を叩きたくなる気持ちは市ノ瀬にもよく分かった。
忠実に任務をこなした直後の、そして敢えての白昼の脱走は、“組織”の裏をかいた自信があった。
いったん人目につかないところで十分にほとぼりを冷ましてからの海外逃亡というプランも、おそらく“組織”の目を欺けるはずだ。
飛びつくように向かった空港で“組織”の出迎えに遭った“脱走者”を、市ノ瀬は何人も知っていた。
国内に留まることのリスクは当然あるが、そのことを思えば、人目の届かないところにしばらく潜んだ後での高飛びの方がむしろ安全だと思われた。
前もって市ノ瀬が当たりをつけておいた、その当面の逃亡先である山中の小屋まではあと10分もかからない。
住み心地がいいとは到底言えないだろうが、自らの命と天秤にかければそのような贅沢な感情が介入する余地などあるはずもなかった。
何よりとりあえずの身の安全が確保されるという、これ以上ない贅沢が迎えてくれるのだから―――
「油断して得るものなんて一つもないぞ」
目前に迫ったその“贅沢”に思いを馳せながらも、市ノ瀬が厳しい表情を後ろに向けてそう言いかけたとき……不意にその体を衝撃が襲った。
「あっ!?」
「きゃあっ!」
後部座席の2人が、弾け飛ぶようにして自分たちの座る背もたれにぶつかり、悲鳴をあげたことで、市ノ瀬は今の衝撃の理由を知った。
「どうした!?」
ダッシュボードに手をついて体を支えながら、急ブレーキを踏んだ理由を問い質すべく運転席の菊沢へと向けた市ノ瀬の表情が凍りつく。
蒼白な顔で目を見開き、一点を見据える菊沢のその顔は、明らかに最悪の事態が到来したことを告げていた。
知らず、市ノ瀬の視線は菊沢のそれを追って前方へと向けられる。
その先―――フロントガラスの向こう側で茜色の陽に照らされた景色の中に立つ、一人の女。
「“R”―――」
菊沢が喘ぐようにその名前を口にしたとき、市ノ瀬は先ほどまでの微かな希望が絶望へと変わってゆくのを否応なく感じた。
「菊沢っ!踏め!思い切りアクセルを踏め!」
次の瞬間、市ノ瀬は半ば無意識にそう叫んでいた。
「え……!?」
「いいからやれ!やらなきゃこっちがやられる!死にたいのか!」
「は、はい!」
呆けたようになっていた菊沢が慌てて足を踏み替える。
ガクンという衝撃と同時に、一瞬車体は前進し……再びその動きを止めた。
「何してる!踏めって言ってるんだ!」
「ふ、踏んでます!踏んでるんです!」
悲鳴のような声でそう返す菊澤の右足は、確かにアクセルをいっぱいに踏み込んでいた。
「な……?」
言われてみれば、エンジンが甲高く唸る音や、タイヤが激しく地面をこする音はずっと聞こえ続けている。
それらの意味することに市ノ瀬が気付いた瞬間――4人の人間と少なからぬ荷物を積んだ大型のワゴンは軽々と地面から浮き上がった。
「うわあっっ!」
「きゃあぁぁっっ!!」
窓の外の景色がぐるりと回転する。
続いて、激しい音と衝撃が襲い掛かってきた。
一瞬息が詰まり、目の前が暗くなる。
光が戻ったとき、市ノ瀬の目には景色がさっきまでと違った角度で映っていた。
ひび割れ、横倒しになったその景色の中で薄く微笑む“R”――“組織”の粛清人の姿は、まさしく絶望そのものであると言えた。
「くそっ!!」
その絶望を殴りつけるかのように、市ノ瀬は手を前に突き出す。
既にクモの巣状にひび割れていたフロントガラスは、市ノ瀬のチカラによって粉々に砕け散り、弾け飛んだ。
「早く外に出るんだ!」
重力の方向が変わってしまった車内で他の3人に怒鳴るようにそう言い、市ノ瀬は今しがた自分が砕いたフロント部分から車外に這い出た。
そこかしこに打撲や切り傷はあるが、幸いどれも大したことはなさそうだと自己診断しながら、前方の敵へと視線を投げつける。
粛清人“R”―――
“組織”において知らないものはいないだろう、裏切者を抹殺する役割を負った“死神”
レベル「E」の“念動力―サイコキネシス―”を持っているという、人間の形をした“悪魔”
その姿が今まさに自分の前にあるとは信じたくなかった。
だが、紛れもない現実であるということをたった今思い知らされた以上……もはや市ノ瀬たちに残された道は2つしかなかった。
「市ノ瀬誠、菊沢真吾、小原里美、高坂真由―――以上4名、社命により“消去”する」
或いは唇から血を流しながら、或いは肩の辺りを押さえながら……横転した車から全員が這い出て来るのをじっと待った後、“R”は嫣然と告げる。
その短い言葉の中に、4人もの命が……それも自分自身の命が含まれているとは思いたくない、淡々とした軽い口調だった。
「俺と里美のチカラを合わせて何とか一瞬でもあいつを抑え込む。菊沢、お前はその一瞬を絶対見逃さず…“撃”て。それから――」
早口で囁く市ノ瀬の言葉に、微かな頷きが返る。
残された道は2つ。
死ぬか―――生き残るかだ。
もっとも、既にあの圧倒的な力を見せられた今、後者の道が本当に存在しているのかどうかは疑問だ。
だがどちらにせよ、黙ったまま“消去”を受け入れるなど絶対にしたくなかった。
せめて目の前の“敵”に一矢報いてからでなければ、死んでも死に切れない。
素早く無言の合図を出すと同時に、市ノ瀬は自身の“念動力―サイコキネシス―”を全力で解き放った。
寸分違わぬタイミングで、里美からも同様にチカラが“R”に向かって放たれる。
血走った市ノ瀬の目には、一瞬眉をしかめる“R”の表情がスローモーションのように映った。
――“撃”てっ!!
市ノ瀬が心の中でそう叫ぶよりも早く、菊沢は先ほど拾っておいたガラス片を、最大数の4つ“射撃―シューティング―”していた。
思念でコーティングされたガラス片は、違うことなく一直線に“R”へと向かう。
次の瞬間――市ノ瀬たちは信じられない光景を目の当たりにした。
「バ―――」
驚愕の表情を形作って何かを言いかけた菊沢の顔の真ん中に、たった今自身が放ったばかりのガラス片が深々と突き立つ。
直後、“R”の目前で静止していた残りのガラス片が、見開かれた菊沢の目と口を続けざまに埋めていった。
ゴボッ―――
ゆっくりと倒れてゆく菊沢の無惨な姿を目の当たりにした里美の口からは、本人が発しようとした悲鳴の代わりに奇妙な音が漏れた。
次いで、どろりとした赤いものがそこから溢れ出す。
思わず手でそれを受けた里美は、朱に染まった自分の手をしばらく不思議そうに見つめた後、もう片方の手を胸のあたりに当てた。
そこが大きく陥没していることを、里美が認識できたかどうかは分からない。
それを最後に、里美はその体勢のまま前のめりに倒れて動かなくなった。
――化け物……だ……
こちらの命がけの反撃を歯牙にもかけず、一瞬にして2人の能力者を屠った“R”に、市ノ瀬は改めて絶望を突き付けられた。
今となっては万に一つの可能性を期待したことさえ、あまりにも愚かであったと言わざるを得ない。
だが、それでも最後の最後まで市ノ瀬は足掻くつもりだった。
「頼みがある。最期に一本…喫わせてくれ」
胸ポケットのシガレットケースを指し、静かにそう言ってみる。
答えがないままに殺されるかもしれないという覚悟はあったが、意外にも“R”はあっさり「どうぞ?」と手の平を上に向けた。
「恩に着る」
ゆっくりとシガレットケースから煙草を抜き出して咥え、ライターで火をつける。
できる限り時間を稼がなければならない。
せめて、真由だけでも逃げ延びさせてやるために―――
“幻影―ファントム―”で作り出した虚像を置いて、真由はあの合図の瞬間からこの場を離れていっているはずだった。
あとは自分の死を少しでも引き伸ばして、真由が逃げ切れることを祈るしかできない。
「火、あたしにも貸してもらえる?」
「……?ああ、構わないが」
煙草を吸い終えた後はどのようにして時間を稼ごうかと頭を回転させていた市ノ瀬は、“R”の思いがけない言葉に戸惑いながらも頷きを返した。
“R”が煙草を吸うなんてことは知らなかったし、なんとなく意外な気もしたが、市ノ瀬にとってその申し出は時間を稼ぐまたとない好機だった。
だが―――
「どうも」
「―――!?」
その言葉と同時に“R”が取った行動は、市ノ瀬の想像とはまったく違っていた。
唐突に、市ノ瀬の右手の中にあったロンソンのバンジョーが、何かに弾き飛ばされたように宙を舞った。
反射的にそれを追う市ノ瀬の視線の先で、シルバーのボディに空の茜色が鈍く映し出される。
夕景に染められながら弧を描く銀色のオイルライターは、いつしか同じ色の炎を点していた。
放物線の頂上を越えたそれは、ゆっくりと落下の方向へと転じてゆく。
その先には、横転したステーションワゴン――破損した燃料タンクからガソリンを漏らす、危険な物体があった。
「―――ッッ!!」
その意味を理解した市ノ瀬が、咄嗟に両腕と自身のチカラで防御の体制を作りつつ車の反対方向へと走り出した一瞬後――ライターは漏れ出たガソリンに濡れた地面に落ちた。
小さな銀色のボディに点されたささやかな炎が、瞬時にその凶暴性を剥き出しにする。
あっという間に地面を伝った炎はワゴンへと到達し、その車体を包み込んだ。
「―――――!!」
「!?」
市ノ瀬が思わず振り返った刹那―――激しい爆音が静かな山道の空気を震わせた。
次いで、大小の破片を伴った爆風が市ノ瀬を襲う。
爆風に押し倒されたことも、飛来した破片に肌を切られたことにも、気付いていなかった。
市ノ瀬の頭の中は、爆発の直前に聞こえた声のことでいっぱいだった。
呆然と体を起こした市ノ瀬の視線の先で、一人の女が全身を炎に包まれて絶叫を上げている。
「真由……」
炎の中、その手にダッシュボードに入れてあったはずのベレッタが握られているのを認め……市ノ瀬は理解した。
いったんは市ノ瀬の指示通り逃げ出したのだろう真由が、菊沢と里美の死を見て引き返してきたのだということを。
2人の仇を討とうとしたのか、それとも市ノ瀬を助けようとしたのか……それは分からない。
だが、確実なことが一つだけある。
時間を稼ぐための方法をあれこれ考える必要は、もうないということだ。
炎の中から聞こえていた絶叫は、既に途絶えていた。
無惨に崩れ落ち燃え続けるその姿からは、いつも勝気な笑みと共に湛えられていた魅力的なエネルギーの痕跡さえ感じられない。
変わり果てたその真由の姿を映す市ノ瀬の瞳の中にも、いつしか激しい炎が燃え盛っていた。
――必ず一矢報いる。こいつらのためにも……!
“R”を出し抜いて一人だけでも逃がすという「反撃」は、果たせずに終わった。
ならばせめて、今まで一滴の血も流したことが無いという噂の「鉄の女」にかすり傷の一つでも負わせて、自分たちと同じ赤い血が流れているか確かめてから死にたかった。
――レベル「C+」の念動能力者にすぎない自分が“R”を相手にそれを為し得ることなど絶対に不可能だ――
普段ならばそう即断したであろう、現実的な思考の壁は、今の市ノ瀬には存在しなかった。
ただ、あっさりと命を奪われた3人への思いと、目の前の“敵”への激情だけがあった。
「うおおおああああっっっっ!!!!」
体の内側から突き上げてくる「何か」に任せ、市ノ瀬は大きく吠えながら自らのチカラを解き放つ。
かつて経験したこともないほどの巨大なエネルギーが自分の中から放出され、“R”へと向かうのを市ノ瀬は感じていた。
自身の限界を越えたチカラの放出に、全身が激しく軋み、そこかしこで毛細血管が破裂するのを認識しながら、市ノ瀬は“R”へと向けた視線を逸らさなかった。
そして、眼底出血によって滲む視界の中―――市ノ瀬は見た。
「化け…物……め……」
表情一つ変えずに立つ“R”に向かって悔しげに発したその言葉が、市ノ瀬の最期の台詞になった―――
* * *
「任務完了」
市ノ瀬の首を“念動力―サイコキネシス―”でへし折り、その死を見て取った後、“R”――石川梨華はポツリと呟いた。
直後――噎せ返るように咳き込んだその口から、赤い液体が飛び散る。
市ノ瀬が最期に放ったチカラは、ガードを突き破り、梨華に小さからぬダメージを与えていた。
「アバラが2、3本イッたわねこれ……」
負傷した箇所を手で抑え、痛みに顔をしかめながら梨華は血に汚れた口元を拭う。
今回の任務でここまでの負傷を負わされることになるとは正直思っていなかった。
正直、詰めを誤ったと言わざるをえない。
それでも、なんとか“粛清人”としての役割を果し終えたことに安堵とも不快ともつかない思いを抱きながら、梨華は今しがた“消去”したばかりの男を見下ろした。
「粛清人たるもの、対象に満足したまま死なれたんじゃ任務を果たしたことになんないからさ」
そして、どこか言い訳するような口調でそう言うと、任務完了の報告を入れるべく携帯電話を手にする。
「“R”だけど。今終わったとこ。うん、もちろん4人間違いなく。後始末よろしく」
傾き、暗さを増してゆく赤に染められた景色の中、“粛清人”の表情からはすでに感情の色は消えていた――――
最終更新:2010年12月01日 20:57