「ああ、どうしたらええの……っ」
愛のかすれた声が、リビングに響く。
先程から幾ら思いを巡らせても、この場の反応としてどれが一番正しい行動なのか、辿り着く事ができずにいる。
「フッフッフッ、愛ちゃん、もっと悩めばいいの」
愛の心を掻き乱す小悪魔の囁きがする。
その声を引き金に、愛の躰は緊張と興奮であらぬ熱を持ち始める。
「なんなら、さゆみがしてあげようか? そんなんじゃ、いつまでたってもイケないわよ……」
ピンクの小悪魔さゆの声は、いつのまにか愛の耳元で聞こえていた。
そして背後から抱きすくめるようにしながら、愛の指先に、自分の掌を沿わせようとするのだった。
「ひっ……!」
いつまでたっても、イケない……。その甘い囁きに溺れそうになった自分の本能を払うように、愛の指先はさゆみの手を弾いた。
「自分で……する。 だからの、さゆっ、お願い……っ」
「そうなの。 フッフッフッ……」
そんなに簡単な選択ではないのだ。相手がさゆ一人ならいい。
しかし今は目の前に、全てに興味を失ったような空しい目をしている里沙と、これからの自分の人生を愛に預けたリンリンがいる。
愛が迷い続けている選択で、この二人のいや今この部屋にいる四人の未来が決まるのだ。
「愛ちゃん……ほら、ガキさんもリンリンも見てるわよ。さあ、どうするの……?」
誘惑の声を囁き続けるさゆみは、失うものなど何もない。
この
ゲームを自ら始め、愛や里沙、そしてリンリンをも巻き込んだ時から、全てを賭けて最高の喜びを得ようと心に決めていたのだから。
あるいは自分はもう全てを失ってしまったのかもしれない。
だが、あの美しい愛が里沙やリンリンの注視の中、身悶えながら悩む姿を見るのは、やはり最高の悦びだ。
「ああ……っ!」
『それ』を力無くつまもうとした時、愛はリンリンの熱い視線に気づく。
悩ましく濡れる憧れの人の顔と、ゆるやかな回転運動を始めようとしていた白い指を、リンリンは交互に、ねっとりと見つめる。
「高橋サン……」
「ああっ、リンリン……そんなに、見ないで」
「愛ちゃん……そんなにしたいの……?」
弱々しい、里沙の声。
しかし弱々しさの裏側に暗い興奮をその声は宿していた。
共に戦ってきたから愛には分かる。
さゆの息吹を傍らで感じながらも、それは分かるのだ。
「リンリン・・・わたし、どうしたら、いい?」
艶めかしい瞳が、正面に座るリンリンに向けられる。
「ウフフ……愛ちゃん、それを、リンリンに訊くの? これはとんでもないリーダーね!」
わざと下卑た声を上げて、さゆみは愛を嘲笑う。
しかし、愛は怯まず愛するリンリンの言葉を待った。唇が乾き、赤く濡れた唇を舌先で、舐める。
「わ、わたし……」
しかし、リンリンの言葉は。
「わたしは、高橋サンも、道重サンみたいに……」
「……っ!」
まさか。
「道重サンと、一緒に……」
「リンリン……あなた、わたしを……わたしを、さゆと一緒にしたいっていうの!?」
「……」
リンリンは愛の問いに、無言で首を垂れた。 その動作が肯いたように見えたのは、愛だけではなかっただろう。
リンリンは、自分に、めちゃくちゃになって欲しいと願っている。愛のショックは相当なものだった。
「そんな……」
全身が、震える。覗いた肌に、汗の粒が浮かんでいるのは暖房のせいだけではないだろう。
だが、続いたリンリンの言葉はさらに、愛を震わせる。
「……でも、そのほうが高橋サンにとって幸せかもしれません……今まで手に入れられなかった、悦びも……」
リンリンの本心はどこにあるのか。
愛にめちゃめちゃになって欲しいのか、それともその先にある、素晴らしい悦びに狂う愛の姿を見たいのか。
愛は今、闇へ堕ちようとしていた。
「……ひいいっ!」
刹那、それまで沈黙を守ってきた里沙の指が、『それ』を弾いた。愛は、苦楽を友にしてきた盟友の裏切りに、思わず声を上げる。
「り、里沙ちゃん……っ!」
「愛ちゃん……早く、しよう……」
「ああっ……」
「早く……愛ちゃん」
取り付かれたような目で、それを弾き続ける里沙。その振動は、愛の全身を狂わせる。
「ああっ、里沙ちゃん……っ!」
「新垣サン、やめてあげてください!」
リンリンがたまらず声を上げる。
「でも、リンリンも……きっと愛ちゃんも、こうしたいんだよ。ね、愛ちゃん?」
愛の心に、ついに尖った刃の切っ先が突きつけられた。
「……っ」
「愛ちゃん……、さゆみやリンリンより、ガキさんのことを選ぶの?」
選ばねばならなかった。たった今さゆみが言った事を。
「……里沙ちゃん。 私と一緒に行こう。 胸の高なる先に?」
「……!」
「……!」
愛の言葉は、さゆみとリンリンを絶望の淵に追いやった。
ただ一人、里沙だけが心を最大限に奮わせた。
「うん!」
里沙の小さな手は、まだそれを弄り続けていた。その手に、愛は白い指先を添わせる。
絶対に後悔しない。きっと、これが最高の選択だ。
ルーレットが回された。
出目は何の問題も無く、5。
すでにこのゲームに飽きていた里沙と一緒に、コマであるプラスチックの小さなクルマを5マス動かす。
結局、愛は1番目にゴールした。
「ああもう、愛ちゃんったら。勇気ないの。 愛ちゃんもさゆみたいに「人生最大の勝負」したらもっと盛り上がったのに」
「おあいにくさま。私はさゆみたいに「貧乏農場」で働くのはいやだもの」
愛は明るく笑う。
「それにそもそもさゆは、わたしがトップだって分かってたからあんなふうに言ったんでしょう?」
「あ、バレてた? あそこで300万ドルの「ゴッホの絵」なんて買わなけりゃ、私がトップだったのにぃ!」
「まあ、しょうがないよね、こういうゲームじゃ。だからこそ楽しい」
「でもまさかさゆが、こんなに「人生ゲーム」が好きだなんて知らんかったし」
「まあね。でも今回はボロボロなの。早く進んだだけで、全く儲からなかったし。 子供も生まれなかったから、ユニセフに取られたし……よし、もう1回勝負よ!」
「エー、まだやるですか?」
リンリンがしぶる。
流石に中国人の彼女には、「人生ゲーム」の面白さは伝わらなかったようだ。
「ゴメンね、リンリン。まだ里沙ちゃんとさゆがくやしくってたまらないみたいやし」
「じゃあ、リンリンは高橋サンと一緒にやります!」
「ええ、いいわ。 じゃあ里沙ちゃんは「就職コース」「進学コース」、どっちがいい?」
時刻は午後4時。 長い勝負になりそうだ。
最終更新:2011年01月03日 08:11