「笑えよ。 職も、家も、信じるべき正義も、守るべき大切な人も失って。 それでも惨めったらしく生き恥を晒している俺のことを笑えよ」
齢三十前後、尾羽打ち枯らしたような男が自嘲する。
「人間とはそういうものだろう」
黒いファーコートに身を包んだ女。 男よりは若そうに見える。
二人が対峙しているのは山小屋と呼ぶには貧相すぎる小屋。
閉鎖された遊園地で撤去されず残っていた警備員の詰め所。
「あいつは心配していた。 こんなことになるんじゃないかと」
「女は心配性な生き物なのさ」
自分よりも年上の男に対して、何ら気を遣うことなく話しかける女。
その態度は極自然で男も違和感を覚えていないようだ。
「俺は許せなかった。 警察のキャリア官僚が日本最大の暴力団の総長と内定しているなんて」
「お前は事実を見ない偽善者か、真実を理解できない愚か者だ。 警察も暴力団も武力で国民を支配するという点では同一の組織だ。
違いがあるとすれば、法によって保護されているか、否かという一点に尽きるが、もしも媒介する存在がいれば反目する二者は簡単に手を結ぶ」
女の言葉はあくまで辛辣だ。
小屋の外は白い雪。
遊戯施設が撤去され、寒々とした跡地を白く染めているのが夜目にも鮮やかだ。
「あんたはエラいんだな。 俺よりも年下に見えるんだが」
「女を外見で判断すると痛い目に遭う」
屋内は寒々としている。
電力が供給されていない屋内を照らしているのはランプの光のみ。
二人の吐く息も白い。
「あんた何処から来たんだ」
男の問い掛けには道路さえ所々寸断している山の中の遊園地跡に、何の為に?という疑問も含まれている。
「山の下から登ってきた」
女の答えは素っ気なかった。
「何の為に?」
どうせ答えは返ってこないだろうという諦めが感じられる。
「ここはアタシにとって大切な場所。 一年に一度訪れると決めている」
女の返答を聞いた男は深い溜息をついた。
「そいつは申し訳ないことをしたな。 もうすぐ追手がやって来る。 俺を始末する為に」
女の頬に笑みが浮かぶ。それを男が見咎める。
「決して冗談じゃない。 下の街で襲われたが逃げおおせるのが精一杯だった。 そして俺に残されたのはこれだけだ」
男の掌には拳銃の弾丸が一発。
それをリボルバー式の拳銃に装填すると力なく笑った。
「その一発は何の為に使う。 追手を一人でも道連れにするか。 それとも自分の最期を自分で決めるつもりか」
「多分そのどちらでもない。 俺は臆病者だ。 追手に狙いをつけるなんて無理だろう。 まして自分に向けて引き金を引くなんて」
自分の情けなさを恥じ入る男は女に懇願する。
「出来るだけあんたに迷惑をかけたくない。 俺の持っている情報を預けられたと思われたらあんただって、きっと無事じゃすまない」
だから今のうちにこの場所を離れるように進める男に対して、女は素っ気なく答えた。
「アタシなら心配無用だ。 さっきも言ったがここはアタシにとって大切な場所だ。 一年に一度、二月二十六日という日はこの場所にいようと決めている」
「何でそんなにこだわるんだ。 この場所に。 そして、今日という日に」
男の問いかけに対して、沈黙で応えようとした女だったが、何かを思いついたのか意味ありげに口を開く。
「教えてやってもいいが、その代わりにお前もアタシの質問に答えてくれるか」
「ああ」
もう失うものなどない男には躊躇う理由など無かった。
「アタシは…獣だ。 アタシの中に真っ黒な獣がいると言った方がいいのか。
その獣はアタシに近づく人間を傷つける。 アタシが傷つけたくないと思ったってアタシの中の獣はアタシの周りにいる人間を傷つける。
だから、みんなアタシの周りからいなくなった。 家族も、友人も。 いや獣であるアタシには最初からそんなものは居なかったんだ」
美しい女には不釣合いな言葉に、男は戸惑いを隠せない。
「そんな愚かなアタシのことを認めてくれた人がいる。
そんな猛々しいアタシのせいで傷ついたのに許してくれた人がいる。
そんな邪まなアタシがこの世に生まれてきたことを心から祝福してくれた人がいる。
ここはその人がアタシの誕生日を始めて祝ってくれた思い出の場所だ。
だから、アタシはアタシの誕生日、二月二十六日にはこの場所を訪れることに決めている」
「あんたの言うその人って、もしや、もう…」
この世を去ったのでは、という言葉を最後まで口にすることが出来なかったのは、女の目に光るものを見つけたからだ。
男は黙って身づくろいをすると、小屋を出て行こうとする。
「そんなことを聞いたんじゃ、これ以上ここに留まるわけにはいかないな」
「待て。 アタシはお前の尋ねたことに答えた。 今度はお前の番だ」
ああそうだったな、と力なくうなずく男。
「だが、もう俺には何も話すことなんてないと思うが…」
「お前のその胸元に隠してあるものは何だ」
女に言われた胸元を抑える男。 そこには地味な色のネクタイ。
おずおずとネクタイを緩めると何かを取り出した。
「奴らの悪事の証拠を収めたUSBメモリーだ。
もう役に立つことは無いし、あんたがお望みなら渡してもいいが、でも多分俺が持っていたほうがいい。
やがて俺は奴らに殺される。 その時俺がこれを持ってれば一応奴らも納得するだろう。
だが、もしも俺が手ぶらで死ねば、奴らは俺が立ち寄った先をしらみつぶしに探すだろう」
そうなっては、あんたに迷惑がかかるという男の言葉を女は聞き流す。
「アタシが言ったのはこんなものじゃない。 あんたがもっと大切にしているものだ」
その言葉を聞いた男に電流が走った。
「驚いたな。 何で判ったんだ。 あんた魔法使いか」
「女はみんな魔法を使うのさ」
男はネクタイを外すとその裏地を破り、黒い布に包まれた物を取り出した。
「本当に大切なものなんだ。 絶対返してくれ」
女は両掌で包みを受け取った。
そして目線で男に確認すると、包みを開く。
銀の指輪だった。
布越しに指で摘みながら、指輪の裏を確かめる。
そこにはアルファベットで文字が記されていた。
A・Y・A
「“あや”という名だったのか。 お前の失ったという人の名は」
「ああ、彩りの彩という字だ。 その婚約指輪を渡そうと思った日に奴らの襲撃を受けて…」
男は唇を噛み締める。
「彩という名前のくせに、外見は地味で華の無い女だったんだが、気立てはとても優しくてね…」
問わず語りに婚約者の思い出を話す男を見ながら女は考えていた。
(これで疑問は解けた。 何故お前がここに居れるのかという疑問が)
今二人が居る一帯は、女の私有地だった。
表に出ることが望まない女は代理人を立てて、思い出の土地を手に入れたのだ。
大切な場所を何者にも侵されないように。
女の私有地と公有地の境界にはフェンスが設けられていた。
そしてそのフェンスには魔術による結界作用が施されていた。
魔術の資質の無い者は、存在する筈の女の私有地を認識できない。
魔術の資質の有る者が、境界を越えればそれは女に対する宣戦布告として捉えられ最高レベルの攻撃魔法が発動する。
その土地に存在するあらゆる水分を凝結させて作り出された氷の矢が侵入者が息絶えるまで降り注ぐという攻撃魔法。
(お前はきっと守ることが出来なかった婚約者の名を口にしながら逃げ惑っていたんだろうな)
“あや”という音声認識。
“A・Y・A”という文字認識。
(お前は知らぬ間に結界の解除コードを入力していた。 だから生きてこの場所に入ることが出来た。 アタシとこうして話すことが出来た)
気がつけば男は話し終わっていた。
目が訴えている。
女は指輪を布に包みなおすとそれを男に渡した。
「じゃあ」
出て行こうとする男を女は呼び止める。
「待て。 お前に頼みがある」
女の言葉を聞いた男は静かに首を振った。
「俺はもう何も隠してはいないし、話すようなこともない」
「いいから、聞け。 アタシの言うことを。 お前にしか出来ないことがあるんだ」
男は窓から外を窺うと、女に向かって頷いた。
「いいぜ。 だが急いだ方がいい」
「さっきも言ったがアタシは獣だ。 他の誰よりも罪深い人生を歩んでる。いいや、嘘じゃない本当だ。 それはアタシが知っている」
「だったら、どうしたと言うんだ」
「そんな血塗られたアタシだから、今日という大切な一日だけは善人でいたい。 そう思っているし、毎年そう振舞っている。
この日だけ他の何者の命をも奪わない。 そしてもし危地に陥った命があれば救うことにしているし、事実そうしてきた」
「…ああ…」
女の意図が読めぬ男は相槌を打つことしか出来ない。
そうしながら窓の外を気にしている。
「今日、ここに来るときに罠にかかった狐を見つけた。 毎年そうしているように助けようとしたが手遅れだった。 だから…」
「だから?」
「お前の命を救わせてくれ」
「俺の命は狐なみか」
男は苦い笑いを浮かべた。
「有体に言えば、狐以下だ。 私にとってのお前の命など」
ひどいな、と笑う男、だがすぐに真顔になると女に言った。
「その頼みは叶えられそうにないな。 俺は自分が生きる意味を見出せない。 自分の安い正義感のせいで大切な人を死なせてしまった俺に生きる価値なんてない」
「お前に生きる価値があるかどうかはお前が決めることじゃない。 アタシに言わせればお前には生きる理由がある」
男は怒りを滲ませて、小屋の壁を殴った。
それは女に対して初めて見せた顔。
無言で女の顔を睨みつける。
自分にどんな生きる理由があるんだと問い掛けるように。
「お前は大切な人のことを覚えているために生きている。 教科書に載らないようなただの人間が存在したことなど身寄りの者が居なくなれば忘れ去られてしまう。
そうならないためにお前は生きている。 お前が生きている限りお前の大切な人がこの世に存在したという事実が消えることはない」
「俺だって生きていたいさ。 俺が死んでしまっては奴らの思う壺だ。 何としても生き延びて奴らに一泡吹かせたい、そう思っている」
「ならば生きればいい」
「自信がないんだ。 奴らが、俺の大切なあいつの命を奪った奴らが生きているこの世界で生きていく自信がないんだ」
男は跪き、頭を抱え、嗚咽する。
「何故、あの時俺は逃げてしまったんだ。 あんなに大切だと思っていたあいつが…」
女はそんな男の傍に歩み寄るとその肩に手をかけ言った。
「安心しろ。 永遠に生きろなんて言わない。 今日という一日だけを生き延びれば、その後はお前の自由だ」
その時、屋外で音がした。
男が脅えたように身を震わせる。
「その一日を生き延びることすら難しくなったようだ」
女は男を立たせた。
男は女の膂力が意外に強いことに少しだけ驚いた。
「街が見下ろせる展望台の跡地から一本の道が伸びているはずだ。 それを伝って真っ直ぐに降りていけ。
麓の林の中に赤い屋根の掘っ立て小屋がある。 血のような色の屋根だ。 月明かりでも見紛うことはない。
そこに住んでいる間賀という男にアタシのことを話せばいい。
間賀は心得た男だ。 お前の良いように動いてくれるだろう。
お前の敵の罪を世界に告発したいというなら、その為に必要な機材を整えてくれるだろう。
お前が大切な人の元に行きたいというなら、楽に死ねる毒を用意してくれるだろう。
お前が生き延びたいというなら、新しい顔と名前と金を準備してくれるだろう。
そして、お前がもしも新しい間賀としてアタシに仕えたいというなら、そのように動くだろう。 間賀というのはそういう男だ」
「驚いたな。 あんたは魔法使いか」
「言ったろう。 女はみんな魔法を使うんだ」
男の顔に少し色が射したように映る。
しかし、男は女の申し出を断ろうとした。
「だが、あんたをここに残して行くわけには」
「言ったろう。 アタシは獣だ。 ただ自分の周りにいるというだけで誰かを傷つけるアタシが、大切な場所を踏み荒らそうという奴らに対して何の容赦もしない」
強く言い切ると男を送り出す。
「約束だ。 今日という一日を生き延びろ!!」
屋外の音が小屋に近づいてくる。
うふふ、うっかり結界を解除したままだったわね。
亜弥ちゃんがいないとアタシって本当にダメね。
数は?
十二、三人。
武器は拳銃とショットガンってところか。
亜弥ちゃん、約束だよ。 今日は誰の命も奪わない。
そんな美貴のこと、ほめてくれるよね。
この大切な場所を侵そうとするだけで、あいつらの罪は万死に値する。
でも、決して命は奪わない。
例え、苦痛に耐えかねたあいつらが殺してくれって泣いて頼んだってね、ふふふふ。
女は穏やかな笑みを湛えたその口でランプの灯を吹き消すと、小屋の扉を蹴り開けて外に飛び出した。
…そして雪が赤く染まった。
最終更新:2011年02月28日 22:27