「石川さん、わたし…一つ分かったことがあるんです」
「……は?何よいきなり」
唐突な、里沙の呟くようなその声に、石川は笑いを止めて不愉快げに眉根を寄せた。
「わたしは家族を捨てた…ううん、家族に“捨てられた”ってずっと思ってました。……石川さんと同じように」
そう言うと同時に、周囲の空気が鋭く震えるのを里沙は感じた。
石川の顔にも、これまでとは明らかに違った凶悪な表情が浮かび上がっている。
「……で?」
それでも続く言葉をじっと待つ石川に、里沙はふとある種の感慨を覚えた。
石川にとって、あの夜の里沙との対峙が拭いがたい屈辱の過去であり、また、今こうして再び向かい合う理由になっていることは推察の余地もない。
だが、もしかすると同時にどこか「分かり合えた」瞬間でもあったのかもしれないと里沙は思う。
そして、今しがたのあさ美の死が、それをさらに浮き彫りにしたのではないかと。
石川本人は気付いていないだろうし、それ以前にそれを認めることなどありえないとしても……。
「わたし、一枚だけ…捨てられずに持ってたんです。両親の写真。まだ…かろうじて家族でいられた頃の……写真」
再び唐突に飛躍した里沙の話も、石川はやはり黙って聞いている。
「でも、そんなものをいまだに引きずってる自分が急に許せなくなったときがあって……もうこんなもの燃やしてしまおうって、写真を持って外に出たんです」
…正確にはきっとそうではない。
愛や……他の皆との触れ合いの中、自分を貫けなくなりつつあるのが怖かったのだろうと今は思う。
だから、無意識に自分の中の何かを自分で壊そうとしていたのだと―――
◆ ◆ ◆
何かから逃げ出すかのように、写真だけを持って向かった近所の公園。
燃やそうにも火を点けるものが何もないと気付いたのは、到着してからのことだった。
自分のバカさ加減に嫌気が差し、写真を片手にベンチに座って無駄に青い空をぼんやりと見ていると、不意に声をかけられた。
「ガキさん?どうしたの?こんなとこで」
慌てて写真を隠しながら振り返った先にあったのは、道重さゆみの不思議そうな……そして少し心配そうな表情。
咄嗟に気の利いた言葉を返せず、「いや、別にどうもしないんだけど…」と呟くように言うと、さゆみは「隣いい?」と微笑みながら尋ね、返事を待たずに空いたスペースに腰を下ろした。
「いい天気だね。気持ちいいなー」
伸びをしながら青空を仰いださゆみは、検査入院中の亀井絵里の見舞いに行ってきたところであること、そして2人でどんな話をしたかということを楽しそうに話した。
適当に相槌を打ちながら聞いていたその話が一段落すると、それまでとは打って変わったように遠慮がちな口調でさゆみは言った。
「あの……さっき見てたのってさ、もしかしてガキさんの…両親の写真?」
やっぱり見られていたのかという動揺を隠しながら「まあ…ね」と曖昧に口を濁すと、さゆみは控えめながらもはっきりと「見せてほしい」と求めた。
静かでいて妙に真剣な瞳と言葉に抗い難いものを感じ、やや気まずげな思いとともに手渡した写真を、さゆみはしばらくじっと眺めていた。
その横顔は、柔らかく降り注ぐ陽の光や心地よく吹き過ぎてゆくそよ風と相まってか、ただそこに在るだけで不思議と穏やかで心落ち着かせるチカラを感じさせた。
「やさしそうだね。お父さんも、お母さんも」
やがて、そんな言葉と笑顔とともにさゆみが丁寧な手つきで返してきた写真を受け取りながら、「そう?」とどうでもよさそうに返事をした。
「そんなお為ごかしのおべんちゃらはいらない。大体こんな写真一枚で何が分かるというんだ」と、心のどこかで反発しながら。
「分かるよ」
「……え?」
心を見透かされたかのようなその言葉に驚いて顔を上げると、さゆみの真摯な瞳が真正面にあった―――
◆ ◆ ◆
「その子は言いました。本当に心からそう思っていると感じさせる声と…表情で」
――だってさゆみのお父さんとお母さんと同じ、とてもやさしそうな目をしてるから――
ほんの僅かな迷いも嘘もない、透き通った声と表情で…あのときさゆみははっきりとそう言い切った。
「私は思わず言いました」
――でもさゆの両親はさゆのことを……――
そこまで口にして、慌てて言葉を止めたのをはっきりと覚えている。
さゆみの両親が、“普通ではない”我が子を恐れて極力接するのを避けていることは知っていた。
それがさゆみをどれほどに傷つけ、苛んできたかも。
確かに、罵られたり家を追い出されたりといった目に見える虐待は一度もされていないのかもしれない。
だが、我が子として接してくれない両親のことを、何の曇りもない瞳で「やさしい」と表現できるさゆみの感覚は理解できなかった。
「……そうしたら、その子は少しだけ淋しそうに笑って……そして言いました」
――受け止め切れなかっただけなんだよ。ただ、それだけだよ――
やさしいけれど……ただ、弱かっただけ。“普通ではない”自分の子どもを受け止められるだけの強さがなかっただけ。
弱いことは哀しいことだけれど、悪いことじゃない。どんなことでも乗り越えていけるような、そんな強い人ばかりじゃない。
だから、それは責められないし、責めてはいけないと思う。何より自分だって、いつも自分の弱さに嫌気が差してるんだから―――
そう言って弱々しく微笑むさゆみはしかし、実際には誰よりも強いココロを持っているとそのとき心底思った。
そしてさゆみの言葉には、真実はどうあれ、そう信じたいと思わせてくれるチカラがあった―――
「石川さん、だから石川さんのお父さんとお母さんも―――」
―――あなたを捨てたわけじゃない。ただ、残酷な現実を受け止められるだけの強さがなかっただけ―――
だが……その言葉は、背後の壁が激しく割れ飛ぶ音によって途中で遮られた。
今にもひび割れそうなほどに張りつめ、歪なねじれさえ感じさせる空気の向こうに、表情が消えた石川の立ち姿が揺らめいている。
「そんな話であたしが感動するとでも思った?泣き崩れてあんたと抱き合うとでも……思った?」
言葉と同時に里沙の頭のすぐ横を“何か”が突き抜け、直後に再び後ろの壁がいくつもの悲鳴を上げる。
崩れ落ちる欠片がパラパラと音を立てるのを背中で聞きながら、里沙は最後までは言えなかった言葉を瞳に湛えて静かに立ち尽くしていた。
最後まで言葉にすることはできなかったが、もう十分だった。
石川が今さらこんな言葉に心動かされ、進む方向を変えるなどとは元より思っていない。
何より里沙自身、その言葉を心底本気で口にしているわけではなかった。
弱いことは確かに悪いことではないかもしれない。
でも……だからといって、すべてが許されるわけでもない。
その弱さが、孤独に押し潰された悲しい人間を生み……そして終わらない悲しみの連鎖を生み出していることもまた確かなのだから。
「いえ、ただの……餞別のつもりです。私なりの」
小さく息を吸い込み、里沙は静かに口を開いた。
――あの人を解放してあげて
苦しい息の中でその言葉を遺したあさ美の顔が脳裏に甦る。
おそらく、石川は自分が自分であるために、里沙と決着を着けようとしている。
それを断ち切ることが、今の自分があさ美のため…そして石川のためにできるすべてだと里沙はすでに悟っていた。
もう、迷いはなかった。
「…言ってくれんじゃない、里沙」
石川の表情に形容しがたい感情が浮かび上がり、里沙の周囲の空気が切り裂かれる。
続けて、無理やりに笑みを形作ったその口元から、再び聞き覚えのある言葉が押し出された。
「まさかあたしと闘って勝とうなんて……バカなこと考えてる?」
“あの夜”と同じ言葉を敢えて投げかけたのだろう石川に対し、里沙は小さく首を振った。
あのときと同じ言葉を返す気にはなれなかった。
「石川さん、あなたは私には勝てません」
一瞬、石川の顔に自然な笑みが浮かんだ気がした。
それまでのような作った笑みではない、本物の笑みが。
「……相変わらずくだらない冗談言うのね。ま、もうすぐ二度と言えなくなるけど」
だが次の瞬間には、元通り残忍な表情を浮かべ、里沙を冷たく嘲笑う粛清人の姿があった。
苦笑とも見えた、その一瞬の笑みが意味するところは里沙にも分からなかった。
…或いは石川自身にも自分の浮かべた表情が分かっていなかったのかもしれない。
「念動弾 ―サイコ・ブレット― ……“チカラ”そのものを弾丸状にして飛ばしたんですね」
そんな思いは無論表に出すことなく、里沙はただそれだけを静かに口にした。
先刻、あさ美の命をこの世から削り取った“弾丸”―――
それが“チカラ”そのものを凝縮して固め、それを超高速で飛ばしたものであるのは明らかだった。
“念動力―サイコキネシス”能力者の中でも、こんな芸当ができる者はそういないだろう。
怖ろしいほどのセンスと……そして哀しい性だと改めて思わずにはいられない。
「そうよ?お利口な里沙ちゃん。“弾”は無限にあるからいっぱい遊んであげる。最初はどこがいい?手?足?それとも耳なんてどう?」
“愉しくて仕方がない”―――
そんな色を湛えさせた表情と声音、そして大げさな身振りの石川に相反するかのように、じっと立ったままそれを聞いていた里沙は、淡々とした口調で言葉を返した。
「『おかしい』……って思ってますよね?」
「…は?何がよ?」
その唐突な里沙の問い掛けに対して浮かんだ軽やかな笑みとは裏腹に、瞳には僅かな狼狽の色が漂う。
「『さっきの“弾”は顔を掠らせたはずだったのに……まだ慣れてないせいかしら?』……そう思ってるでしょう?」
「なっ……!?里沙…!あんた…!?」
今度は覆いきれない動揺を露わにした石川に、里沙は表情一つ変えずに言葉を継いだ。
「でもそうじゃない。狙いは完璧でした。ただ……私が少し“弾”のコースを変えただけです」
「“弾”のコースを…変えた?何言ってんの?そんなことできるわけ―――」
「あなたの“弾”は私には当たりません。……絶対に」
「…上等じゃない!だったら試してあげる!」
余裕の笑みをかなぐり捨てた石川が吠えるようにそう言った直後―――里沙の背後の壁がまた激しく割れ飛んだ。
「―――!!どうして―――!?」
初めて見せる明確な驚愕の表情を浮かべる石川にも、里沙はどこまでも静かに言葉を重ねる。
「私のチカラ……精神干渉はすなわち脳への干渉。そしてチカラは脳によって支配されています。だから―――」
そしてそこでいったん言葉を切り、決然とした瞳を石川に向けた。
「だから石川さん、あなたは私には――勝てない」
* * *
「ッッ――ざけんなっ!!」
――激昂――憎悪――混乱――恐怖――狂気――矜持――
いずれとも分からない感情に突き動かされるように、石川は里沙に向けて“弾”を乱射した。
“弾”は、床や壁にいくつもの穴をあけ、粉塵を舞い上げる。
白く煙る景色の中―――里沙は微動もせずに静かに立ち尽くしていた。
その姿に、表情に、そして里沙の体には傷一つついていないという事実を前に、石川の脳裏を激情と万感が駆け巡る。
――あたしの脳に干渉? ――ありえない! ――あたしのチカラを支配?
――孤独
――薄汚いチカラ ――マインドコントロール ――あの夜の屈辱
――淋しかった
――両親 ――あたしを捨てた ――捨てたんじゃない? ――ふざけるな!!
――あたしは独り
――“自分” ――粛清人 ――生きる意味 ――殺す――殺す――殺す!!!!!
――今までも これからも ずっと……
「死ねッッッッッ―――――!!!」 「―――!!―――」
――瞬間、石川は聞いた。
今まで何度となく聞いてきた音――“死”の奏でる不快なノイズ――を。
これまでにないほどに大きく鳴り響く、忌まわしいその音を―――
* * *
「石川さん……」
冷たい床に崩れ落ちた石川の傍に歩み寄り、里沙はその体をそっと抱き起こした。
自らの“弾”に穿たれた胸からは、まだ赤く温かい血があふれ出している。
先ほどまで様々な感情に縛られ歪んでいたその顔は、すべてから解き放たれたように穏やかだった。
「ごめんなさい……」
石川を“解放”するにはこうするしかなかったと確信しながらも、里沙は深い悔恨を覚えずにはいられなかった。
自分の存在意義をあんな手段でしか確認できなかった石川の姿は、未来の里沙自身だったのかもしれない。
愛に出会わなければ、みんなに出会わなければ……きっとそうだっただろう。
受け止め切れなかったのは…弱かったのは両親だけじゃない。
石川自身も……そして里沙も同じだ。
問題なのは、普通ではない“チカラ”そのものじゃない。
それを受け止め切れなかった弱い“ココロ”だったのだ。
そのことは、きっと石川も心の奥底では分かりすぎるくらいに分かっていたのだと思う。
だからこそ、里沙は敢えてあんな話をした。
石川の心の隙間に入り込み、精神を…脳を支配するために。
―――あまりにも簡単だった。
もしかすると、石川は深層でこの結末を望んでいたのかもしれないと思うほどに。
石川の体をあさ美の隣に横たえながら、里沙はふとそんなことを考えた。
真偽の程は知り得るべくもないが、何故か――間違いないように思えた。
「つっ……」
2度目の黙祷を捧げ終えて立ち上がった里沙は、胸を押さえて顔をしかめた。
体から離した掌に、真新しい血が付着している。
全神経を使った今しがたの“戦い”で、塞がりかけていた傷が再び開いたらしい。
無理もない、と里沙は苦笑した。
致命傷と呼ぶに相応しい傷を先ほど自分は負わされたのだ。
あさ美の治癒能力のおかげでこうして動き回れるほどに回復したが、あれだけの時間で完治は望むべくもない。
だけど……
同時に、以前のあさ美であればきっと完治していただろうとも思う。
あさ美の顔をそっと見遣り、里沙は再びやるせない思いに捉われた。
あれほどに優しい“チカラ”を持ちながら、阻害され、孤独に苛まれなければならなかったあさ美。
人並み外れた優秀な頭脳とその“チカラ”が一緒になれば、何かを変えられるほどの大きな力が生まれたかもしれない。
しかし、結果としてその2つは打ち消し合い、何も残らなかった。
自分という、一人のくだらない人間の命を少しばかり長らえただけで……
――「見つけて、里沙ちゃんが。できるよ、里沙ちゃんたちなら」――
だが、最後にあさ美はそう言い遺した。
自分なんかに何ができるか、それとも何もできないのか…それは分からない。
それでも、あさ美に託された思いを無駄にすることはできない。
あさ美は「里沙ちゃんたち」と言った。
だからまずは……愛とれいなに追いつくことだ。
そう自分に言い聞かせ、里沙はあさ美から視線を引き剥がすようにして、愛とれいなが向かった出口に体を向ける。
刹那―――里沙の目に思いがけない人影が飛び込んできた。
「“組織が許してもあたしが許さない”……前にそう言ったよ、里沙」
闇色の細身のスーツに身を包んだその人影――保田圭は、静かにそう告げた。
その手の中のナイフからは、ぽたぽたと赤いしずくが滴っている。
再び体に刻まれた“致命傷”を押さえながら、里沙は床に崩れ落ちた。
今度は掌に付くだけでは済まない量の血が、指の間から脈打ちながら流れ出していく。
「保…田…さん……どう…して……」
「あたしには責任があんの。里沙、あんたへの責任も……石川への責任も」
その一瞬、温度のない表情と声の中に、ほんの僅かに感情が混じるのを里沙は感じた。
「それに……安倍なつみの遺志への責任も」
安倍なつみ―――
保田が、そして里沙がかつて敬慕した人。
そして同時に、“組織”に身を置くことになった“理由”。
今はもう亡き……しかし確かに存在し続ける偶像。
「安……倍さん、の、思い…描い、て…いた“未来”…は……―――」
現在のような“組織”の姿ではきっとなかったはず―――
そう言おうとして、里沙は激しく咳き込んだ。
口の中が血の味で満たされ、口元に当てた手が赤く染まる。
もう、言葉は出てこなかった。
だが、それに答えるようにぽつりと呟かれた保田の声は、はっきりと耳に届いた。
「――戻れないのよ、もう」
それは、里沙の知る保田からは想像もつかないような、弱々しい響きだった。
保田もまた“弱い”人間であったのだと、里沙は知った。
そして自分と同じ、あさ美と同じ、石川と同じ……その弱さを認めることができなかった、悲しい一人の人間であったのだと―――
「ごほっ―――」
再び咳き込んだ口から飛び出した鮮やかな液体の色は、もう里沙の目には半ば灰色に映っていた。
痛みすら最早ほとんど感じず、視界がゆっくりと狭まってゆく。
―――愛ちゃん………ごめん……後から絶対に行くって…言ったのにね……
最後の最後まで愛に嘘を吐くことになってしまった自分に、笑いと……涙がこみ上げる。
嘘で飾った愛との出逢い、そしてリゾナントで皆と過ごした偽りの日々が脳裏にフラッシュバックする。
いつしか――その映像は、愛の笑顔で埋め尽くされていた。
そう、だけどきっと愛はそんな自分にすら、こんな風に心からの笑顔を向け……許すだろう。
―――愛ちゃん………ごめんね……ありが…とう……愛…ちゃ……ん…………愛……………
静かに目を閉じ動かなくなった里沙の顔には、一筋の涙と……思い出の中の愛と同じ、やわらかい笑顔が浮かんでいた―――――
最終更新:2010年06月27日 20:08