『思いは伝わる』




数ヶ月ぶりに顔を合わせたその人は相変わらず美しかった。 ただ…。

2011年9月、ダークネスの解体を見届けた上で高橋愛はリゾナンターを離脱し、喫茶リゾナントからも姿を消した。
平和を謳歌し、置き去りにしていた青春に浸り、諦めかけていた夢を追いかける…ためではない。

「少し痩せたんじゃない、愛ちゃん」
「んー。ジャンクフードばっか食ってるせいかな」

この国の為政者の能力者に向ける視線には温度差がある。
その存在自体が社会秩序を揺るがす不安材料だとして強制隔離を主張する強硬派。
それに対して当面は情報統制を敷いた上で異能の暴走を防ぐ研究にあたり、ソフトランディングな形で一般大衆にその存在を周知させていく考えを持つ穏健勢力。
いずれにせよ能力者がこの国で公然と普通の暮らしを営んでいくのは難しくなった状況で、リゾナンターは最大の能力者集団になってしまった。

リゾナンターに向けられる警戒の視線を緩和させるために愛が考えた方策が戦力の分散であった。
鞘師里保以降リゾナンターに加わった幼き共鳴者たちの数は合わせて8名。
未知の可能性を持つとはいえ、原石に近い彼女たちは世界の脅威と認定されるにはまだ早い。
しかしそんな彼女たちであっても最強の共鳴者高橋愛と結びつけばその相乗効果は計り知れない。
為政者に不穏な考えを起こさせないよう、高橋愛は幼き共鳴者たちと距離を置くことにしたのだ。

リゾナントを出た高橋愛はアメリカに渡りバウンティハンターとして活躍している。
借り入れた保釈金を踏み倒した未決囚を捕まえる類の賞金稼ぎではない。
能力を悪用する犯罪者。 原理的な宗教に帰依した狂信者から転じたテロリストが業務の対象である。
仕事が帯びている危険性は通常のバウンティハンターの比ではない。

業務のため拳銃の携帯許可証を取得したというメールを受け取った時、さゆみは心配でならなかった。
愛が手の届かない所に行ってしまったのではないかと思ってしまったのだ。
その思いは西部劇のガンマン気取りで銃を構えている愛の画像を見て少しだけ和らいだが、愛は今も戦い続けていることに変わりはない。

「無理だけはしないでね。愛ちゃんが残していったくれたお金はまだ残ってるし、ガキさんも色々気を使ってくれているし」
「お金のことであの子らに不自由な思いはさせたくないし。 それに愛佳も言っとった。 共鳴は終わらない。 リゾナンターはこれからも増えていくって」

愛はバウンティハンターで得た収入の殆どをリリゾナンターの隠し口座に送金し続けている。
その額が大きくなればなるほどさゆみの杞憂も膨らんでいく。

「リゾナントには顔を出してくれないの」
「ゴメン、今追っかけている案件が済んだら、時間が出来る筈やけど。 そうしたらクリスマスは日本で過ごせるかもしれんし」

バウンティハンターの激務を縫って愛が帰国したのは、いわゆる穏健派との交渉のためらしい。
リゾナンターの現リーダーである道重さゆみをその交渉の席に加えなかったのは、愛の意向らしい。
自分を蔑ろにしているわけじゃないことは痛いほど伝わってくる。
愛にとって自分は今も庇護の対象なのだ。

今日こうして愛と顔を合わせる機会を作ってくれたのは、愛から遅れること数ヶ月でリゾナンターから籍を抜いた新垣里沙だ。
思惑を秘めた勢力の間でリゾナンターが中立を保つことが困難だと判断した里沙は穏健派の懐に飛び込んだ。
そのことで強硬派を明確に敵に回してしまったが、後ろ盾もできた。
穏健派の息のかかった官庁に籍を置きながら、彼女もまたリゾナンターを守るために動いている。

「ガキさんはさゆを元気づけてやってくれって言ってたけど、その必要は無かったんと違う」
「れーなが頑張ってくれてるし。 それと最近は聖ちゃんも年上の自覚が出てきたみたいでみんなをまとめてくれるし」

今日の会合をセッティングしてくれた時、里沙からは愛に自愛するようさゆみの口から言って欲しいと言われている。
あの人は自分のことは二の次にするきらいがあるからねと。
里沙の言葉を聞いたさゆみは愛の渡米に秘められた理由がわかった気がした。
ただ高額の収入を得るためではない。

間違いない、愛は能力犯罪者対象のバウンティハンターとして名を轟かせることで、リゾナントに向けられる関心を少しでも減らそうとしているのだと。
幼き共鳴者たちが一日でも長く平穏な日常を過ごせるように。
本当は今日この場に田中れいなを連れてきたかった。
リゾナンターをさゆみと二人で引っ張っている長年の友。
リゾナンターの原点を知っている友と二人してなんとか愛に帰国するよう説得するつもりだったが、さゆみからの頼みをれいなは笑って断った。

「愛ちゃんには愛ちゃんの考えがあるけん」
「じゃあさ、説得とか抜きで愛ちゃんの顔だけでも見に行かない」
「離れていても心は一つ。 でもさゆはリーダーとしての悩みとかあるけん愛ちゃんに打ち明けてすっきりしてくればよかと」

さゆみよりも早く愛と出会い、リゾナントで共に寝食を過ごしてきたれいなには愛の考えを変えようという気持ちはないみたいだった。
だったらもうひとり。
れいな以上にさゆみと付き合いの長い友を呼んで、力づくでも愛をリゾナントに伴うつもりだったのだが…。

「もう信じられない。 せっかく愛ちゃんが帰ってくるというのに」
「うへぇ」

さゆみに詰られて視線を伏せたのは亀井絵里。
健康上の理由で愛よりも早くリゾナンターから離脱したものの、さゆみとの交流は絶えることはない。
絵里ならさゆみの願い通り、愛の説得に力を貸してくれると思い、今日の会合に立ち会ってくれるように頼んだ。
そして絵里も珍しく真剣な様子でわかったと言い、待ち合わせの喫茶店に珍しく時間通りにやってきたのだが。

「愛ちゃんに会えるからって夜寝ないでいて、それで風邪をひくってあんた子供」
「うへへ」

さゆみの厳しい視線から逃れるように絵里はタオルケットをすっぽり被った。
今、さゆみたちは絵里のかかりつけの総合病院の処置室にいる。
風邪をひいた絵里が点滴を受けているのだ。

「まあ絵里らしいっていえば絵里らしいやん」
「そんなこと言ったらバカ絵里がつけあがるからビシッと言ってやって」
「愛ちゃんに会うから身体をピカピカに磨き上げて着ていく服を選んでたら楽しくなっちゃって」
「どうせ、パン一でいたんでしょう」
「いや、それは流石にぅぅ」

待ち合わせ場所の現れた絵里の顔色が悪かったので、かかりつけの病院に連れてきて診察を受けさせた。
それだけで二時間以上を費やした。
貴重な時間。
愛が日本を離れるまでの数時間の内の二時間だ。

「もうあんたなんか入院させてもらって、徹底的に頭を治療してもらいなさい。 私は愛ちゃんとデートしてくるから」
「さ、さゆぅぅ」

心細げな絵里を見て流石に心が痛んだがそれでも愛の腕を取り、処置室の外へ誘う。

「点滴が終わった頃に帰ってくるからさあ。 それまで私は愛ちゃんとデート、デート」
「病院の中やと恋も囁けんけどの」
「それがね、この病院最近改装して、一階のフロアなんかまるで美術館みたい…」

処置室を出たところで愛の足が止まった。
唐突な動きに戸惑ったさゆみの耳が愛の声を捉えた。

「・・・声が聞こえる。 誰かが助けを呼んでる・・・」

その刹那、さゆみの腕を振りほどき、愛は走り出した。

「ちょっと待って愛ちゃん。 病院の中で走っちゃ…」

さゆみの声が耳に入ったはずなのに愛は駆けることを止めない。
その仕草はあまりにも颯爽としていて、通りがかった看護婦が咎めることを忘れて愛の後ろ姿に見惚れている。
もしも拳銃を手にしていたなら、ハリウッド映画に出てくる刑事そのままだ。
そんな愛を追いながら、さゆみは緊張していた。

自分には愛が言っていた声は聞こえなかった。
ということは愛の精神感応が助けを求める声を捉えたことになる。

高橋愛の精神感応は強力だ。
もしもれいなの共鳴増幅によって他のリゾナンターのチカラをも委ねたなら半径数十キロの範囲の人間の精神と感応することさえ可能だ。
だからこそ通常の愛は能力を最大限に発動することはない。
どういう理屈なのかはわからないが、フィルターをかけることによって能力者以外の精神といきなり感応することはないと愛は言っている。
だからさゆみに聞こえない声を愛が聞いたということは、その声は能力者の者である可能性が高いということだ。
そして愛の差し迫ったような様子。
声の主には早急に助けが必要だということなのか。
あるいは誰かに襲われているのか。
その襲撃者がもしも能力者なら…。

どんどん小さくなる愛の背中を必死で追いかけながらさゆみは思った。
自分は田中れいなのように愛と肩を並べて戦うことも出来なければ、新垣里沙のように愛の背中を守ることもできない。
自分に出来ることは傷ついた愛を癒すことのみ。
ダークネスが解体したことでもう来ない筈のその機会が今訪れようとしているのか。
助けを求める声の主のことを気遣いながらも、さゆみの心は愛のために役立てる時が来たかもしれないことに浮き立ち始めていた。
そして遠目に愛が病室らしき部屋に駆け込んだのを確かめると、歩調を少し落とし息を整えた。
チカラを発動しながら愛に入っていった病室に辿りついたさゆみは見た。

「ばぁば、ばあば」

止める看護婦を振り切って病室のベッドに身体を横たえる女性に取り縋ろうとする愛の姿を。


☆☆
愛が飛び込んだ部屋はナースステーションの隣の病室だった。
コードや管と繋がれているその女性に取り縋っている愛をさゆみは外に連れ出した。
愛がいることが治療の妨げになりかねない。
それほどの取り乱し方で、警備員を呼ばれかねない状況だったからだ。
険しい顔をした婦長がそれでも穏便に取り計らってくれたのが、愛の様子があまりにも真に迫っていたからだろう。

「あの女性は高橋さんのおばあさんじゃないですよね」
「うん、違う」

問題の病室から少し離れた場所にある長椅子に腰掛けて事情を聞くことにした。
男装の麗人といっていい装いの愛が涙混じりに口を開く状況は周囲の目を引いてもおかしくはないはずだが、好奇の視線を感じないのは病院には悲嘆がつきものだからかもしれない。

「ちゃんと話したのはガキさんぐらいしかいないけど、わぁし東京に出てくるまでばあばと暮らしてた」

愛が話してくれたことのうちある程度のことはさゆみも知っていた。
高橋愛は人為的に能力者を作り出すプロジェクトによってこの世に生を受けた存在だった。
本来ならプロジェクトを遂行した機関の元で育てられる筈の愛は幼子の頃に外へ連れ出された。
連れ出したのは機関で働いていた卵子提供者の一人、つまり愛の母親に当たる女性だということ。
女性は幼子の愛を自分の母親の下に預けた。

「その女の人のお母さんっていうのが?」
「うん、あたしのばあばやった」

愛の祖母は優しい人だったらしい。
ある日突然、現れた自分の孫に惜しみない愛情を注いだ。
経済的には決して恵まれた環境ではなかったらしいが、そのことで愛が惨めな思いをしたことは一度もなかった。
愛は平凡だけど幸せな幼児期を送っていたらしい。
愛に能力が発現するまでは。

「最初は精神感応やった。 遊んでいた近所の子が何も言わんまに考えてることをあーしが言ってしまってたり」
「おばあ様から何か注意は受けていなかったんですか」

愛の母親に当たる女性は事の仔細を記した手紙を残していた。
自分が精神感応のチカラを持っているということ。
それを買われて機関で働くようになり、人為的に能力者を作り出すプロジェクトの為に卵子を提供したということ。
自分の遺伝子を受け継いでいる以上愛もまた能力者である可能性が高いということを。

「ばあばは信じてなかったみたい。 初めてチカラが発現するまでは本当にあたし普通の子供やったみたいやし」
「確かにいきなりそんなことを言われたって信じられませんよね」

愛の祖母は娘が手紙に記していたことを信じなかったらしい。
信じられなかったというべきなのか。
仮に信じたとしても過疎が進んだ山村で出来ることなど何もなかっただろう。
愛にお前には能力があるから使わないように気をつけろというよう注意するぐらいのことしかできなかっただろうが、それすらもしなかった。

「最初はおもしろがってた近所の友達も段々と気味悪なっていったみたいで、そのうちサトリの化物呼ばわりされるようになった」
「ある意味子供の方が残酷かもしれませんね」

子供たちが口にしていることを看過できなくなった村の顔役は、祖母の家を訪れ愛を病院に連れて行って検査を受けさせるように勧めた。
その時、愛の祖母は初めて娘の書き記していたことが真実だったということを知った。
自分の娘が能力者であり、その娘である愛もまた能力者であるということを。
その事実を知らされた愛の祖母が最初にしたことは愛を探すことだった。

「顔役連中が来た時、ああしは外で遊んでくるように言われたんよ。 その頃はもうあたしと遊んでくれるんはほとんどおらんかったんで遠くに行かんで家の近くに一人でおったけど」
「愛ちゃん」

鼻を啜りながら自分の過去を振り返る愛の手をさゆみは強く握り締めた。
その手はその持ち主が最強の共鳴者だということが信じられないぐらい華奢だった。

自分の元に駆け寄ってくる祖母を見た時、愛は何となくこれで全て終わったと思ったらしい。
最愛の祖母に自分が化物だということを知られってしまった。
自分みたいな化物は追い出されると愛は思っていた。

「しゃあけど違ってた。 ばあばはあーしのことを強く抱きしめてくれた。そして…言葉よりも先にばあばの感情があーしの中に流れ込んできたんよ」
「…何てですか。 あっ、ごめん。 ひょっとしたら言いたくないかもしれないよね。ごめんなさい」
「ごめんやって」
「えっ?」
「ごめんやって。 自分がしっかりしてなかったからお前を辛い目にあわせてしまったって。
何があってもお前のことは自分が守るって。 そんなんおかしいやん。 ばあばはなんも悪くないのに」

愛を守るために祖母は村の顔役の申し出を断った。
病院に連れて行けば愛の所在を機関に知られるかもしれないと思ったのだろう。
それから愛の祖母は声高に村の顔役を詰ったという。
そして愛のチカラのことを大人に告げた子供たちの家へも怒鳴り込んだらしい。
愛のチカラを隠すことができないなら、自分が反感を集めることで愛への関心が薄れると思ったのかもしれない。

「それからは大変やったよ。 外に出たら化物呼ばわりされるし。家ん中におっても石を投げ込まれたりいろんなこと書かれた貼り紙されたり」
「つらかったでしょうね」
「それほどでもなかった。 ばあばとずっとおれたし」

さゆみは愛がいたという集落を思い浮かべてみた。
山あいの村。
店は雑貨屋が一軒。
娯楽施設なんか勿論なく、映るテレビのチャンネルも都会よりも少ない。
そんな村に愛のような能力者が突然現れたら。
もし襲ってくるようなことがあったら脅威かもしれないが、何もせず家の中で大人しくしているだけとしたら。
愛や祖母を排斥する行為そのものが村にとってある種の娯楽になってしまったのか。

「…そのまことっていう子があたしにとってたった一人の友達での…」

たった一人の友達に迷惑が離れないように村はずれで会っていたところを村の人間に見つかってしまった。
それをきっかけに愛や愛の祖母を排斥する動きがどんどん激しくなっていった。
そんな、ある日…。

「あたしのことをかばってばあちゃんは…」

口ごもりそれ以上話せなくなった愛の肩を抱き、耳元に囁いた。

「それ以上言わないで。 ありがとう、とってもつらいことを話してくれて」
「最後の最後まであたしに謝ってた。 自分のせいだって。 ばあちゃんは全然悪くないのに」

そんな辛いことがあったからこの人はあんなに優しかったんだ。
そんな辛い目にあったから、小さな子たちのために戦い続けているんだ。
でも…。

「さっきの女の人は能力者だったんですか?」

さゆみの問いかけに愛は自信無げに首を振った。
ならば、どうして…。

「あの人の心の声は何故愛ちゃんの心に届いたの?」

他人の精神と過剰に感応してしまうことで愛自身の心が壊れてしまわないように、かけられたはずのフィルターをどうしてすり抜けることができたのだろう。

「似てたかな?」

愛は言葉にすることで自分の心の中を確認しようとしてるようだ。

「愛ちゃんのおばあ様とあの人がですか?」
「顔とか年格好とかじゃない。声、心の声が似てた。そしてあの人も謝ってた」
「誰にですか?」
「自分の息子に自分が病気で迷惑かけてごめんって謝ってた。
息子の嫁さんには、自分の下の世話をさせて悪いなあって謝ってた。
病院の看護婦さんが点滴を失敗して婦長に叱られたのも自分の所為やからって謝ってた」

心の声がどんな風に聞こえるのかさゆみにはわからない。
ただその人がどんな感情を抱いているかで、心の声は変わってゆくのかもしれない。
そして同じような感情を抱いていたのなら、たとえ別人でも愛には同じように聞こえるのかもしれない。
愛のことを優しく慈しみ、正しい道へと導こうとした愛の祖母。
今日この病院に来なければ顔を見ることも名前を聞くこともなかった女性。
自分の身に起こった不幸すら自分の咎のように周りの人に詫びる清らかな心を持った二人だからこそ愛はあの人の心の声を聞いて自分のことを思い出したのか。
だったら…。

「そんなのおかしいやん。 あの人は何の悪いこともしとらんで、なんであんなに苦しまなあかん。これまでの人生のほとんどを他の人のために尽くしてきたあの人がなんで」
「でもきっと良くなりますよ」
「ならん!」
「えっ?」
「あの人は助からん。あの人の体に繋がれてる管を引っこ抜けばあの人は死んでしまう。 あの病室で婦長がそう思ってた」

もう回復する見込みがなく、予断を許さない状況だから看護婦の目の届く病室に入れられていたということなのか。

「ずっと付き添ってた息子の嫁さんは状態が安定していたから家の用事を済ませるために一旦帰った。それが急変したから連絡を取ったけど最期に間に合わんかしれんってあの婦長は思ってた。死に目に遭わしてあげられないかもしれんって思ってる」
「待って、愛ちゃん」
「あの人は痛みに苛まれて助けてくれって思ってる。 激痛に襲われるくらいなら死んだほうがましやって思ってる。早く楽にして欲しいって叫んでる」
「落ち着いて、愛ちゃん。 それはお医者様に任せましょう」
「断続的な襲ってくる痛みのサイクルの合間にあの人は周りの人に感謝して謝って、そいで痛みがやってきたら楽にしてくれって叫んで」
「それは私たちにはどうすることもできないのよ」
「一緒や。あしのばあちゃんと一緒や。 なあんも悪くないのに酷い目にあって。 なんも悪くないのにまわりのもんに謝って」
「願いましょう。あの人がよくなることを。 そしてもし愛ちゃんの言うとおりあの人が助からないのだとしても、安らかな最期が迎えられるよう祈りましょう」
「なあ、さゆ」

声高だった愛の声が低くなったので、落ち着いてくれたかと思ったさゆみはほっとした。

「なあ、さゆ。 今は少し落ち着いてるけど、もしもう一度あの声が聞こえたら。 もう楽にして欲しいっていうあの人の声が聞こえたらあーしはこの手で」

乾いた音が壁に吸い込まれていく。
気がつけばさゆみはその手で愛の頬を打っていた。
痛いなという愛の顔は今まで見たことのないような暗い目をしていた。

違う、これは私の知ってる愛ちゃんじゃない。私の大好きな愛ちゃんじゃない。
お願いだから、私の手の届かない所に行かないで。
さゆの願いが通じたのか、愛の顔が少しだけ柔らいだ。

「なあ、さゆ。 あの人は機械の助けが無ければもう生きられんで」
「ご家族が向かってるんですよね。 今もこうしている間も」
「こ~んな立派な病院のある国じゃなければあの人はもう逝ってしもうとる。もしも今地震があって電気が使えんようになったら」
「だめ、愛ちゃん」
「もう助からへんのやって。 今あの人の主治医もそう思っとる。 死亡診断書の文面を考えてる」
「そんなこと考えちゃだめ」
「ええやろ。 逝くのがほんのちょっと早まるだけであの人は安らかに逝ける。 助けたいんやあの人を。さゆには迷惑かけへん」
「愛ちゃんの手はそんなことをするためにあるんじゃない。愛ちゃんの手は人を救うためにある」
「だから助けたいんや。 あの人はもう十分に頑張った。 もう楽になってもええはずや。 もうこれ以上苦しまんでええはずや」

そう言って泣きじゃくる愛を見てさゆみは思った。
この人は誰よりも強い人だと思ってた。
その思いは変わらないけど、この人は誰よりも優しくて、そして弱い。
そんなこの人を救うには。
自分なんかがこの人のためにできることがあるとすれば。

「愛ちゃんの言ってることは正しいかもしれない。 あの人はもう十分に頑張って、十分に生きて、だから最期は楽に逝かせてあげたいっていう愛ちゃんの気持ちはわかる」

さゆみは自分の言葉で顔を上げた愛の両手を握りしめた。

「今この国では医療が発達していて、電気がちゃんと通っていて、いろんな人があの人のために動いているからあの人は生きるべきだと思う」
「でもなっ、さゆ」
「口答えは止めて。 私はリゾナンターのリーダーです。愛ちゃんやガキさんには及ばないけど今は私がリーダーだから愛ちゃんも私の言うことに従って」
「あたしはリゾナンターを抜けたんやで」
「本当にそう思ってるの。 だったらなんで危険な目に遭って手にしたお金の殆どをリゾナントに送ってくるの? 若いリゾナンターのために。 これからリゾナントにやって来る子たちのためにそうしてるんでしょ、愛ちゃんは」

さゆみは自分の言葉をゆっくり噛み締めている愛にハンカチを手渡した。

「とりあえず、涙を拭いて気持ちを落ち着かせたら、家族の人が来るまであの人に声をかけさせてもらえるように頼みましょう。私の声はあの人に聞こえますか」
「聞こえているとは思うけど、いろんな感覚がごっちゃまぜになって心に届くかわからんて」
「だったら愛ちゃんが手伝ってくれれば私の思いはあの人に伝わりますか」
「多分、できると思うけどさゆも痛みとか感じるかもしれんで」
「それはかまわないから」
「いったい何をするつもりや」
「私たちは何もできない、そう、何も。 ただできることがあるとすれば…」

心の奥底から湧いてきた穏やかな微笑を愛に向けたさゆみは、自分のバッグから手鏡を取り出した。

「目が大変なことになってるよ、愛ちゃん」


☆☆☆
病室に戻った二人は婦長に頭を下げて、愛の心と感応した女性の付き添うことを許してもらった。
容態が急変したり、家族が到着すれば退室するという条件のもとでだが。

「じゃあ、愛ちゃんお願い」

手を繋いだ二人は膝まづき女性の耳元に顔を寄せた。

死なないで
今日この病院に来なければ貴女の顔も名前も知ることは無かった私にこんなことを言う資格はないのかもしれない
でも死なないで
医師も看護師も延命を諦めている今の貴女にこんなことを言うのは、酷なことだとわかってる
でも死なないで

不思議な力を持つ私の大切な人は、貴女の心の叫びに感応して貴女の歩んできた人生を知ってしまった
家族への愛情、他人への感謝、自分の為にはどんなささやかなものさえ求めてこなかった貴女の人生
そんな貴女の最期は安らかであっていいと思う
でもでも死なないで、生きて生きていて欲しい

心清らかに生きてきた貴女
そんな貴女の最期だからこそ、慈しんでこられた家族に見守られて旅立って欲しい
だから死なないで

こうしている間にも貴女の家族がお別れを告げようとあなたのもとに向かっているはずだから
あと少しだけ頑張って生きて、貴女からもお別れをしてあげて
だから死なないで

それは今の貴女にとってはとてもつらいことでしょう
でも最後まで生き抜くことの大切さを、命の重さを貴女の家族に教えてあげて欲しい
私の力では貴女の病を癒すことはできないけど、少しでも貴女の苦しみが和らいでくれりことを願って、私の力の全てを貴女に注ぐ
だから死なないで


全てのチカラを女性に注いださゆみは自分の名を呼ぶ愛の声を聞きながら気を失った。そして

「無茶しよる」

廊下のソファの上で目を覚ましたさゆみに愛の声が降ってきた。
まだ寝ていたほうがいいという愛の言葉をよそに起き上がったさゆみは愛に尋ねた。

「どうだったんですか」
「ああ、息子の嫁さんが間に合ったよ。 ほんとうに仲が良い嫁姑やったみたいや。 大泣きしとった」

愛の頬がまるで笑いを我慢してるみたいに引き攣っているのを見逃すさゆみではない。

「何かあったんですか」
「あの人のお兄さんとその息子かな?が一足遅れでやってきたんやけど…」

愛の言葉でさゆみはその女性が身罷られたことを知った。
自分は何か出来たのだろうか?

「そいで高速の降り口を間違ったちゅうて口喧嘩になってもうて…」

病室前であったひと悶着を苦笑混じりに話す愛は憑き物が落ちたように穏やかだった。

「ああいうん見ると何か気が抜けるわ」
「でもそういうこともあるから生きていけるのかもしれません」

さゆみの言葉にふっと笑った愛は旅立つ時間が近づいたことを告げた。

「ええ、もうそんな時間。 もっといっぱい話したいことがあったのに」
「それはまた今度」
「約束ですよ」

指切りをして立ち上がった二人は歩き出す。

「わたしのしたことはあの人のためになったんでしょうか」
「さあ。さゆが気を失ってすぐ追い出されたから。 婦長さんの頭から湯気が出とった」
「それは迷惑な見舞い客ですよね。 後でちゃんと謝っておかないと」
「…さゆは間違ったことはしてないよ」
「だといいんですが」

何故か後ろ髪を引かれるような思いで、絵里が点滴を受けていた処置室に向かおうとする二人に声がかけられた。
遠慮がちなその声に振り返ったさゆみの目に三十代の女性の姿が映った。
怪訝そうなさゆみの耳元に愛が囁いた。

「ほらっ、あの人の」

「あのう看護婦さんから聞きました。 あなた達がお義母さんに声をかけてくださったって」

緊張で体を強ばらせたさゆみにその女性は告げた。
ずっと義母に付き添っていたが、家の事を片付けるために小康状態を見計らって帰宅したこと。
その直後容態が急変して駆けつけて何とか最期は看取れた自分に婦長が二人のことを教えてくれたという。

「容態が悪化して本当にお義母さんは苦しんで、その痛みで私が来るまで心臓が持ちこたえられなかったかもしれなかったって。
でもあなた達が声をかけてくれてから何か本当にお義母さんは穏やかな貌になったって。 ほんとうにほんとうにありがとうございました!」

何度も頭を下げる女性に別れを告げて絵里が点滴を受けていた処置室への道を歩く二人。

「なあ、さゆは間違ったことしてなかったやろ」
「でもっ」
「さゆは正しいよ。あたしなんかより立派なリーダーになれる」
「無理、本当に無理だから」

愛を引き止めたい。
出国を遅らしてもらってでも伝えたいことがある。
意を決したさゆみの耳が聞き覚えのある声が飛び込んできた。

にょほほーーーい。

「あのアホ絵里」
「何か物凄く心細そうやけど」
「そういえばあの子の財布預かってきたんだけど。 でもねえ…」

子供じゃないんだから支払いは後日にしますとか言えないのかなあとぼやくさゆみに愛は言った。

「まあ絵里らしいっちゃあ絵里らしいし」

その手にはスマートフォンが握られている。
どうやら絵里の困った顔を隠撮りするつもりらしく、黒い笑みを浮かべながら足早になる愛の背中にさゆみは声をかけた。

「行かないで」

自分一人で何もかも背負わないで。
愛ちゃんにはかなわないけど自分だって新しい仲間だって少しずつ強くなっている。
だから私たちの手の届かない所にはいかないで。

全ての思いを込めた手で愛の手に触れた。
愛は体に電流が走ったように体を震わせた。

ありがとうと小さく呟いて俯いたその姿は以前と変わりなくとてもとても美しかった。



















最終更新:2012年12月08日 21:39