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日本史年表 - (2010/09/12 (日) 05:03:55) のソース

*縄文時代
 約1万年前から紀元前3世紀ごろまでの約8000年間。
 1万年前ごろになると、気候が暖かくなって海面が上昇し、今のような日本列島ができた。  
 縄文土器(縄目の模様がないものもある。黒ずんだ色が特色)  
 打製石器・磨製石器・骨角器。  
 狩りや漁のくらし(弓矢の発明)、貝塚(福井県の鳥浜貝塚)が残っている。  
 たて穴住居、土偶。  
 青森県の三内丸山遺跡(縄文時代についての新たな発見)。  
 住居の作り方や墓地が共同であったことから考えて、身分や差別はなく、貧富の差もなかった。



*弥生時代
 紀元前3世紀ごろから3世紀ごろまでの500~600年間。
 大陸から米づくりの技術が伝わる。  
 静岡の登呂遺跡・・・・たて穴住居、高床式倉庫、石ぼうちょう、木製農具。  
 佐賀県の吉野ケ里遺跡。  
 弥生土器、青銅器、鉄器、銅鐸。  
 社会の変化 → 定住生活、貧富の差、身分の差。  
 「むら」から「くに」へ。
昭和天皇も晩餐の時に「推古(592~628年在位)以前の日本の天皇の歴史はよく分からない部分が多い。天皇は朝鮮半島と百済王朝武寧王の子孫のある方が日本に来て、その流れが天皇史の中に含まれているかもしれない」

|前660|||
|神武|||
|前585|||
|前581|||
|綏靖|||
|前549|||
|前290|||
|孝霊||※皇女:倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと) 箸墓古墳に葬られたという。邪馬台国を治めたとされる卑弥呼に比定する説もある。|
|前215|||
|前97||※祟神即位。百襲姫(卑弥呼?)は大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在、と『日本書紀』。三輪山の蛇神と結婚し、箸で女陰(ほと)を突いて死ぬ(箸墓古墳と命名)。皇女:豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)- 初代斎宮(台与?)|
|崇神|前95|※三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。|
|前29|||
|前28|||
|垂仁|||
|71|||
|景行|||
|130|||
|131|||
|成務|||
|190|||
|192|||
|仲哀|||
|200|||
|-|239|邪馬台国の卑弥呼が中国(魏)に使いを送る。邪馬台国は30余国を支配。孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。近年、卑弥呼と同一人物として推定される候補の中では最有力の説となってきている。|
|-|240?|箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉教授の研究成果が報告された(ただし異論もある)。この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。石野博信は台与の墓、また、寺沢薫は崇神天皇の墓である可能性も指摘|
|270|||
|応神|||
|310|||
|313|||
|仁徳|391?|大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける。|
|399|||
|400|||
|履中||『宋書』に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇もしくは仁徳天皇とする説もあり)|
|405|||
|406||※反正天皇即位。『宋書』『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王珍(彌)である可能性が高い。倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。|
|反正|||
|410|||
|412||※允恭即位。『宋書』『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。|
||413|讃(反正天皇?)東晋・安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)倭の五王最初の朝貢|
|允恭|438|倭王讃没し、弟珍(允恭天皇?)立つ。|
|453|||
|安康|||
|456|||