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参考書籍メモ - (2010/05/30 (日) 21:13:28) の編集履歴(バックアップ)



有害図書と青少年問題〜大人のオモチャだった"青少年" 橋本健午著 明石書店 2002年発行




発禁・わいせつ・知る権利と規制の変遷-出版年表- 橋本健午著 出版メディアパル 2005年発行


1868年(明治元年)から2004年(平成16年)までの、社会の出来事と、出版物等の発行・発禁状況、流行語などを
年表形式で掲載しており、過去の事実の把握に適していると思った。
特に面白いと思った場所を少し紹介する。

昭和29年には「不良出版物の実態調査」として、警視庁防犯部少年課が高校3年生を対象に性雑誌を読んだ経験や、
その時の感想などを調査していたそうだ。

「親は読んでいる事実を知っているか」の問いに「知らない」「知らないと思う」あわせて65.1%もあるのは
できるだけ隠れて読もうとしているからであり、家庭も子どもに無関心、放任していることが原因と分析されている。

引用文中の下線は筆者が引いたもの。
規制派の考えの底にあるのは、昔も今と変わらない「親がちゃんと役割を果たさないから代わりに権力が介入する」
というパターナリズムのようだ。

昭和33年の項目には戒能通孝都立大教授(法学博士)による"青少年条例は違憲"とする旨の論文「刑罰による青少年
保護に反対する」『新聞研究』(1958・06)の紹介がある。

「有害物は法律によって一掃できるものではなく」現行の青少年条例は「どの条例も立法技術的に欠陥だらけで
あり、罪となり得ないものを罪とするだけでなく、有害物の認定を無条件、無制限的に一行政機関に任せている
という事実だけ顧みても、それ自体、憲法第31条のいわゆる"法律の定める手続き"に違反する違憲立法である」
と断定し、青少年の不良化を防ぐ道は、「都市的生活の訓練がなるべく早く家庭内で形成されることに
よってのみ解決される課題である」と論ずる。(中略)
また「世の中の性急な人々は、ともすれば違憲か否か、実行できるか否かにおかまいなしに、無理矢理に条例・
法律を制定し、その人が有害と認めたがるものを、権力・警察力によって一掃したがっているようである。だが
それにもかかわらず、ことがどれほど便利であるにせよ、刑罰は"一殺多生"のためにつけられるべきものではない」
と、"法の下における平等"の精神をないがしろにしてはいけないと説く。

初めて見た時には目を疑った。(これが昭和33年?という意味で)
最近書かれた文章だと言われても、ほとんど違和感がないと思う。50年前からこの問題の本質的構造が変化してい
ないことを改めて思い知らされた。
後半の「都市的生活の訓練」という言葉には、個人的に賛同しかねるが、その後に続く「家庭内で形成されることに
よってのみ解決される」という部分は、このことが基本的に親と子の問題であることを示しており、現代においても
そのまま通用すると思われる。

昭和35年の項目には刑法・刑訴法が専門の佐伯千仭京都大学法学部教授が、図書の有害指定に関し「刑法からみた
青少年条例」『マスコミ倫理』(1960・2・25)で述べた文章の紹介がある。

行政官たる知事が、同じく行政上の諮問機関に過ぎない審議会の一応の意見を聞いただけで、実際においては
属僚の判断に従って基本的人権たる言論、出版の自由を大幅に制限しうる」ことに疑問を投げかけ、「問題は制限
する機関が裁判所その他の司法機関でなく、行政機関であること」といい、「処分によって不利益を受ける人の十
分な言い分、申し立てが聞かれないで、一方的に処分されることになりやすい」ことを指摘している。

同じく最近書かれた文章だと言われても違和感がない。
50年にわたり、この問題が「そのまま先送り」されてきたことを示していると思う。

ちなみに佐伯千仭は、あの前田雅英の論文『可罰的違法性論の研究』において「佐伯千仭が提唱して藤木英雄が発展させた
可罰的違法性の概念は曖昧である」と批判された人物でもある。



ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で キャサリン・マッキノン著 明石書店 1995年発行


実はこの本、読みかけて中断したのだ。何故中断したかというと割と頭のほうに出てきた

『ポルノグラフィを見る人はやがては、なんらかの形で、それを三次元の世界で実行したくなるのだ。
やがては、なんらかの形で彼らは「やる」のだ。そうさせられるのだ。それが可能だと感じたとき、
そのために罰せられないと感じたとき、実際にやるのだ。

このくだりでもう先を読む気が失せたからだ。しかし放置していても埒があかないので再開して、なんとか
読んだ。読んで、思ったことは色々あるのだが、まずは
「男性」と「女性」を対極に置いて、「支配する側:される側」「加害者:被害者」といった二元論で
論じることは、果たして実情に即しているのかどうか、疑問に思った。
私は、そう単純な二元論では論じられないと思う。二元論は、現代においては硬直化しすぎた理論だと思う。

また、マッキノンが生きている環境と、今の日本で普通の人が生きている環境との違いが極めて大きい
ということも気になった。

アメリカでは女性の38%が子どものころ性的虐待に遭い、24%が夫に強姦されている。半分近い女性が
人生で1度は強姦または強姦未遂の被害者である。そして多くの女性(とくに有色人女性)は、2回以上強姦、
強姦未遂を経験し、多くの場合加害者男性の数は複数で、ほとんどの場合知り合いの男性である。外で働
いている女性の85%が雇い主からのセクシュアル・ハラスメントに遭っている

以上がマッキノンがこの理論の前提条件にしている環境。彼女は、こういう前提で理論を構築している。
この環境は、平均的日本人からすると、明らかに異質で想像を絶するものだと思う。さらに

実証によると、すべてのポルノグラフィは性差別状況の中で作られる。つまり、その圧倒的多くが、貧困
で、絶望した、ホームレスの、ポン引きに支配された女性を使って作られている。彼女たちは子ども時代
に性的虐待を受けている。(略)このような性差別状況の下では、自由が提供されているのではなく、
「選択」が強制されているのである」(*付記1参照)

日本でも、例えば借金のカタに闇AVに出演などという人身売買まがいな事象がゼロであるとは思わない。
もちろん、そういったことは人権侵害であり許されない。けれど、ポルノの一部がそうだからといって、広い
意味でのポルノ的なもの全てがそうであるかのような一方的な決めつけ理論は妥当でなく合理的でないように
思う。例えば、この本からは外れるけれど以下の引用のように、マッキノン理論では現実にそぐわない説明
しかできないからである。

http://www.lifestudies.org/jp/rinri.htm
キャサリン・マッキノンが京都の研究会で発表したときに、日本のレディースコミックを女性たちが買って
ポルノとして使っているのをどう思うかと質問したところ、マッキノンは、「女性向けのポルノというのは、
実は男が男向けに作っているのであり、その読者の九九%は男である」と答えて、会場にいた者を唖然とさ
せた。ご存じの方はご存じだと思うが、SM的な描写のとても多いレディースコミックは、その書き手のほ
とんどはかつて少女マンガを書いていた女性であり、コンビニ等で購入して支えているのも女性が多い。


(*付記1)
「ポルノグラフィと性差別」(キャサリン・マッキノン+アンドレア・ウォーキン著 青木書房 2002年)も
同時に手元に置いて読んだのだが、その中では

ポルノグラフィに出演している女性の多くは、子どものときに性的虐待の被害者であった。いくつかの研究
が示しているところでは、売春とポルノグラフィにおける女性たち(両者はこの女性集団にとって相互に重な
り合う経験である)の65〜75%が子どものころ性的虐待を受けた経験がある(たいていは自宅で)。ポルノグラ
フィと売春に従事している女性に社会的サービスやカウンセリングを提供するために働いている人々(その一
部は、自分自身がかつてはポルノグラフィや売春に従事していた)は、このパーセンテージはもっとずっと高
いだろうと考えている。」と書かれている。

以下は、本の感想ではなく、私がマッキノンの考え方に対して思った「余計なお世話」なのだが、こういう考え
方に感情レベルで共感すると生きづらそうだなあと。
マッキノン本人は、あくまでも理論として展開をしているわけで、数々の悲惨な事実は、その理論を支えるため
の事実でしかない。あくまでも理論だから、感情レベルでは物事を語っていない。だから、おそらく生きづらい
なんて微塵も思ってもいないと思う。けれど、その理論は、理論的であると同時に、とてもショッキングで感情
に訴えかける理論とも言えると思う。マッキノンの考え方を読んだ人が、感情的ショックを始発地点として理論
に共感したら、とても生きづらそうだと思った。
まず、先ほどあげた「ポルノグラフィと性差別」にはこのような記述がある。

『プレイボーイ』(筆者注:雑誌のこと)は、その文章と写真の両方を通じて、レイプを奨励している。
『プレイボーイ』は、とりわけその漫画の中でレイプと子どもの性的虐待を奨励している。」

雑誌「プレイボーイ」の販売部数がどれだけあるのかは知らないが、通算すれば相当の部数であることは間違いない。
こういった「メディアが犯罪を煽っている」という考えと、冒頭で述べた

『ポルノグラフィを見る人はやがては、なんらかの形で、それを三次元の世界で実行したくなるのだ。
やがては、なんらかの形で彼らは「やる」のだ。そうさせられるのだ。それが可能だと感じたとき、
そのために罰せられないと感じたとき、実際にやるのだ。

この考え、2つを、もし感情レベルで真実であると思っていたら、恐ろしくてとてもじゃないけど外を歩けないし、
男性不信にもなる。しつこいけど、きっとすごく生きにくいんじゃないかなと。いやほんとに、ただの余計な
お世話なんだが。



大人問題/さらに大人問題 五味太郎著 講談社 2001年/2005年


子どもの問題は、大人の問題なんじゃないの?という一冊、いえ二冊。
肩の力を抜いて読める本だけど、結構鋭い指摘があってドキっとしたりする。
構成が上手なことも手伝ってか、つい先へ先へと読みたくなって一気に読破した。
青少年条例との関係があるのは、まずここ。

選定図書とか指定図書とか、あるいは課題図書なんて辛気くさいものが、子どもをとりまく
書籍文化の中にたくさんあります。教科書は検定図書です。有害図書という視点もあります。
子どもたちのためによい本を、あるいは害のない本をということなのでしょうが、それは大
きなおせっかいというものです。いつどこでどんな本に出会うかというスリリングさが本の
命ですし、それが有益か無益か、有害か無害かは、まさに読書そのもののお楽しみなのです。
そこのところをまったく知らない大人、つまりあまり本が好きではない大人が子どもの本の
世界をめちゃくちゃにします。

その通りだと思う。親が子どもに対して「私が許可したものから選んで読め」というならば
まだ理解できるが(でも私はそんな親は嫌だ)行政がそれをやるのは「法的おせっかい」だろう。

出版社と広告代理店が書籍の売り上げアップをはかって計画したのが課題図書、作文コンク
ールだという事実、ご存じでしたか。

知らなかった。個人的に、課題図書は面白くないので真面目に買う気にならず、本屋で斜め読み
して適当に「大人が望みそう/喜びそうな感想」を書いていた。別に感想文に限らず、作文の類は
だいたい本心ではなく先生の視点を想像して、どう書いたら高く評価されるかを分析して書いて
いた。そんな私は、先生受けがやたら良く優等生認定されていた。我ながら、嫌な子どもだと思
うけど、子どもって多かれ少なかれみんなそうなんじゃない?とも思う。それこそ(乳幼児期は別
として)子どもって、そんなに純粋じゃないし、子どもながらに打算だって働くし媚だって売る。
もちろん、子どもならではの素直さも持ち合わせていたとは思うけれど、決してそれだけじゃな
かった。だから、子どもを「守るべき、美しい存在」として絶対的に美化/理想化するのは現実に
そぐわないと私は思う。

「人それぞれの事情がある」ということを、これほど無視する社会も珍しい。また、人それ
ぞれの事情を社会の事情にすぐ置き換える人がこれほど多い社会もまた珍しい、そんな気が
します。

特に前半についてそう思う。30歳を過ぎて独身の女性や、定職についていない人に対しての悪意
ある形容を見てると本当にそう思う。「従来の多数派」「タテマエ通りの規定コース」と違う人が
そんなに気に入らないのかなあと思う。本来は、いろんな人がいて当たり前。人の数だけ人生は
あるわけで、みんな同じ線路の上を走るような生き方をする社会なんてむしろおかしい。

こういう短いパラグラフで構成された本なので、あまり長々と書くのはやめておくことにする。
ところで、この本の中にも、ミシェル・フーコーが少し出てきた。私はフーコーに関しては浅く
表面的な知識しかない。だが、最近ふと話にでてくることが数回あり、もっと深く知りたくなっ
た。重そうだけど面白そうなので時間を見つけて読んでみようかな。