雨宮 漣(あまみや・れん) ― 「瓶の中で息をする男」


松茸大学理学部・量子菌糸学科3年。
通称「酵母くん」。
そう呼ばれていることを本人は知らない。
彼の世界は静かで、ぬるく、泡立っている。

瓶を抱えて歩く姿はキャンパスの風物詩。
学生たちは「あの人、瓶と話してる」「菌と付き合ってる」などと噂するが、本人に悪気も照れもない。
ただ、本当に話しているのだ。

幼少期 ― 「聞こえないものを聞く子ども」

幼いころから、空気の中の“音にならない音”を聞くのが好きだった。
雨音や冷蔵庫の唸りに混ざる、誰も聞いていない“泡の息”を感じ取っていた。
彼はそれを“微生物のつぶやき”と呼んだ。

小学校の自由研究で「沈黙の観察日記」を提出した。
毎日5分間、音を立てずに過ごし、
「今日の沈黙はやや湿っていた」とだけ書いたノートを提出して、
担任が困惑したという。

大学生活 ― 「沈黙の研究者」

量子菌糸学科では、誰よりも地味で、誰よりも真剣。
研究テーマは「思考中に発生する微細な発酵現象」。
簡単に言えば、人が考えている間に菌糸がどう反応するかを観察している。

研究棟の一角にある彼のブースは、瓶、瓶、瓶。
ガラス越しに彼の顔がいくつも歪んで映る。
ある日、教授が言った。

「君は一体どれが本物なんだ?」

漣は答えた。

「菌が決めます。」

羽音みのりとの出会い ― 「香りの人」

その日、地下書庫で瓶の整理をしていると、ふわりと甘い香りが降ってきた。
彼は反射的に瓶の蓋を閉め、「新しい菌が来た」と思った。

本棚の向こうに立っていたのは、文学部の女子学生。
古書を抱え、指先に少しインクがついている。
彼女は瓶を指して、何のためらいもなく言った。

「それ、匂いますか?」

その瞬間、漣の中で何かが静かに泡立った。
彼女は笑って、すぐに去っていった。
それだけ。

彼女の名前も、学部も知らない。
けれど、その香りは瓶の中に留まった。
翌日、彼は新しいラベルを書いた。

「試料No.34:未知の芳香体」

恋愛 ― 「知られないことの幸福」

漣はそれ以来、彼女の姿をたまに見かけるようになった。
廊下の向こう、図書館の階段、学食の列。
彼女が通るたび、瓶の中の泡が少しだけ膨らむ。
データとしては不正確だが、彼の心は正直だ。

夜の研究記録には、こんな文がある。

「今日、瓶がうっすら曇った。
たぶん、彼女が近くにいた。」

彼女の名前はまだ知らない。
けれど、瓶の中で毎晩、香りを再現する実験を続けている。
瓶に顔を近づけて、微かに笑う。
「おやすみ」と呟く声は、菌に向けているのか、それとも――。

現在 ― 「発酵する沈黙の中で」

彼の研究は、論文というよりも詩になってきた。
「観察対象:発酵と思考の境界」
教授たちは苦笑しながら、「文学部に転籍すれば?」と言うが、彼は静かに首を振る。

「数式が泡立つ瞬間を見たいんです。」

瓶は今日も息をしている。
香りの記憶が、まだ中で生きている。
みのりが知らないところで、彼の研究は、恋の記録になっていた。

彼は知らない。
彼女のノートにも、同じ香りの記録があることを。
最終更新:2025年11月03日 13:00