榎本 静(えのもと・しずか)教授


専門:言語呪術学・民俗詩構造論

松茸大学文学部・民俗宗教学科教授。
“声に宿る信仰”を研究し、学生たちからは「朗読で呼吸する人」と呼ばれている。

榎本の講義は、基本的に読書会のようであり、祈祷会のようでもある。
一冊の詩集を読み上げるだけで一限が終わる。
内容は難しいが、眠気より先に空気の密度で呼吸が浅くなる。
ある学生は「詩が肺に入ってきた」と保健室へ運ばれた。

教授はいつも淡々としており、声を荒げたところを誰も見たことがない。
ただ、学生が詩を途中で噛むと、一瞬だけ目を細める。
「言葉がまだあなたに納得していないのね」と微笑むその瞬間、教室が一段冷える。

◆生い立ちと研究の原点

幼いころから静かだった。
「おとなしい」というより、“沈黙を飼っていた”タイプの子ども。
言葉を話す前に、空気の形を指でなぞって遊んでいたという。

小学生のころ、詩の朗読コンクールで優勝した際にこうコメントした。

「読みながら、詩が私の口を借りて話していました。」

以来、「言葉には自分がある」と信じて研究を続けている。
周囲は「早めに別の趣味を見つけてほしかった」と語る。

◆講義 ― “朗読は儀式である”

榎本の講義は独特だ。
出席を取らない。代わりに、講義後に教室の空気を嗅ぎ、「うん、今日もちゃんといたわね」と記録する。

授業の内容はいつも同じ詩を三回読むこと。
一回目は意味を理解して読む。
二回目は意味を忘れて読む。
三回目は詩のほうが自分を読んでいる状態を目指す。

学生はだいたい二回目で混乱する。
教授は「いい発酵です」とうなずく。

期末試験は筆記ではなく口述。
課題は「どれだけ言葉に取り憑かれたか」。
満点を取る学生はだいたい声が出なくなる。

◆ゼミの風景 ― “名を隠す実験”

榎本ゼミの名物は「名を隠す実験」。
学生たちは一週間、自分の名前を封印し、代わりに“菌”として生活する。
メールの署名も「菌A」「菌B」。
教授は「匿名とは祈りの一形態です」と真顔で説明する。

実験三日目、ある学生が「自己が発酵していく感覚を得た」とレポートした。
別の学生は「気づいたら棚の瓶に話しかけていた」と報告。
教授はすべてのレポートに「良好な熟成」と赤字でコメントを残した。

教授室の壁には、過去のゼミ生たちの名札が貼られている。
裏にはすべて、退室時のひとことが書かれている。
「先生、まだ名前に戻れません」とだけ書いた札がいまだに増え続けている。

◆人柄と逸話

榎本静という人は、怒らない。笑わない。
だが、学生の恋バナには異様に詳しい。
「詩に変えたら成仏するわよ」とアドバイスするのが定番。
彼女の研究室のゴミ箱には、なぜか手書きのポエムが大量に捨てられている。

ある日、学生が相談した。
「告白したいけど勇気が出ません。」
榎本は一瞬だけ考え、「それなら、手紙を埋めなさい。」
数日後、学内の花壇から“ラブレターの芽”が生えた。
教授はそれを見て、「言葉は根を持つのよ」とだけ言った。

◆机の上と“喋るペン”

榎本の机には五本の万年筆が並ぶ。
それぞれに名前があり、「未発酵」「黙読」「涙」「未練」「彼」。
学生の前ではどれも普通のペンだが、夜になると一本だけ動くらしい。
そのペンが書いた一文が、毎年の卒業式で話題になる。

「呪いとは、まだ終わっていない愛のことだ。」

教授はそれを読み上げ、静かに笑って言う。
「これ、去年も書いたの。ペンが惚れっぽくて困るのよ。」

◆現在の研究室 ― “声の標本室”

榎本研究室は、文学部棟の最上階にある。
扉には「静音厳守」の張り紙があるが、中からは時折、笑い声や詩の朗読が漏れてくる。

棚には“声の瓶”がずらりと並ぶ。
中には、卒業生たちの朗読データが保存されており、瓶を開けると声が再生される。
一番人気は「2009年度卒業・大槻の絶叫」。
ゼミでは気分転換にそれを再生して笑うのが恒例だ。

一方、教授は時々ひとりで瓶に話しかける。
「まだ発酵してるのね。いい子。」
助手が「それ、音声データですよ」と言うと、教授は「いいの、音も菌になるの」と答えた。

◆結び ― “言葉は育つ”

榎本の研究は、一見すると呪術だが、実のところ教育論に近い。
「言葉も学生も、時間をかければ育つ」という信念がある。
ただし、焦ると両方とも発酵しすぎて爆発する。

彼女の卒業メッセージは毎年同じだ。

「焦らず、腐らず、香り高く。」

学生たちはそれを“文学的賞味期限”と呼んでいる。

「言葉は死なない。忘れられた瞬間、いちばんよく香る。」
最終更新:2025年11月03日 22:58