香気残留曲線(Aromatic Persistence Curve)


松茸大学では、人間の存在を「香り」として捉える立場をとる。
誰もがこの世界に何らかの匂いを残しながら生きており、それは香水や体臭といった表層的なものではなく、思考・感情・記憶が環境に染み出す形で空間に残留していく。
この残留の軌跡を理論化したものが「香気残留曲線」である。

香気残留曲線とは、ある人物が場を離れたあとも、その空間にどの程度“気配の濃度”が残るかを時系列的に描いたものだ。
物理的な香りとは異なり、これは心理的な香気――つまり「その人がいたという実感の尾」を可視化したものである。
たとえば、講義室を出たあとも笑い声がふと再生されるような気がする、あるいはノートを開いた瞬間に誰かの癖字の匂いが立ちのぼる、そうした“場の再生反応”は香気残留の典型例とされる。

松茸大学では、この曲線を一種の人格パターンとして研究している。
曲線の形には大きく三種類がある。
ひとつは急速に立ち上がり、すぐに消える「揮発型」。このタイプの人間は印象が強く、しかし思い出されにくい。
もうひとつはゆるやかに持続する「滞留型」。教室に一人でいても誰かがまだ隣にいるように感じる人。
そして稀に観測されるのが「再発酵型」。これは、本人が去った後にむしろ香気が強まるタイプであり、死後の方が人気が出る教授などがこの曲線を描く。

香気残留曲線は、研究棟の空調に設置された「嗅覚干渉スペクトログラフ」によって間接的に記録されるが、本人が意識した時点で波形が変化するため、測定は常に不確定である。
ゆえに、この数値を「コントロールしようとする」こと自体が、最も大きな誤差を生む。
教授たちは口をそろえて言う――「いい香りを出そうとした瞬間に、もう臭いが混じる」と。

入学志願者に求められるのは、高い数値ではない。
むしろ、静かに、確実に、長く残ること。
誰かの思考の片隅に、ふと舞い戻る程度でいい。
松茸大学において、香気とは影響力ではなく“余韻”のことだからだ。
最終更新:2025年11月04日 13:52