松茸大学 現学長 難波霜介(なんば・そうすけ)
――瓶の前で考える男――
幼少期 ― 「音のない家」
難波霜介は、生まれたときから静かだった。
泣かなかった。笑わなかった。母親が言うには「ずっと何かを聞いていた」らしい。
彼の初めての言葉は「発酵してる?」であり、家族はその瞬間に何かを諦めた。
小学生になると、理科の自由研究で「味噌と友情の発酵速度比較」を提出。
結果は「友情は発酵しにくい」だった。担任はコメントに「悲しい」とだけ書いた。
周囲からは“静かな変人”と呼ばれたが、本人は「静けさは観察の母」と言って譲らなかった。
学生時代 ― 「発酵する哲学との出会い」
高校卒業後、偶然図書館で手に取った一冊が、
榎本茸吉による『静かなる熟成』だった。
たった一行目で人生が変わる。
「知性は発酵する。だが、焦らないこと。」
それ以来、霜介は読書のたびに瓶を傍らに置き、
本の内容が熟成するまで開かないという奇行を続けた。
大学では哲学を専攻したが、卒業論文『沈黙の倫理』は全文が空白。
教授陣は混乱したが、「何も書かれていないことこそ語りすぎている」として特別優秀賞を受けた。
松茸大学との邂逅 ― 「瓶の音を聞く」
社会に出た後、研究所に就職するも、会議中に突然「この議論、温度が低いですね」と発言してクビに。
放浪の末にたどり着いたのが、当時まだ地方の私立校だった松茸大学だった。
見学時、研究棟の隅で発酵瓶が“ポコッ”と音を立てるのを聞き、即入学を決意。
榎本茸吉の弟子である老教授に拾われ、助手として学内に残る。
やがて学生たちからは「瓶の世話係」と呼ばれるようになる。
彼のノートにはこの頃から「観察=愛着」「菌にも気分がある」といった言葉が頻出し、
学会からは「哲学者なのか発酵職人なのか判別不能」と評された。
教授時代 ― 「瓶の沈黙を読む」
准教授時代、彼の研究テーマは「発酵と意識の共鳴」。
学生たちは「瓶が鳴ったら休講」「泡が立ったら合格」と呼ぶ独自の研究基準に振り回された。
ある年の卒業式、ゼミ生代表がこう語った。
「先生は何も教えませんでした。でも、瓶が答えました。」
このスピーチは一時、大学の広報パンフレットに掲載されたが、
受験生の親たちが「どういう意味ですか」と問い合わせたため削除された。
学長就任 ― 「沈黙する管理職」
榎本茸吉没後、混乱する学内で、誰かが言った。
「結局、あの瓶を毎日見てたのは難波先生だけだよな」と。
こうして満場一致(発酵音の多さによる決定)で学長に選出された。
就任式でも演説はなく、代わりに壇上に置かれた瓶の栓をゆっくり開け、
「続きます」とだけ呟いた。
それが松茸大学史上、最も静かな拍手に包まれた瞬間である。
現在 ― 「学内の温度を管理する男」
現在も難波は、学内の温湿度管理を自ら行っている。
毎朝のルーティンは以下の通り:
校門の苔を撫でて湿度を確認。
胞子館の瓶に「おはよう」と挨拶。
学生のレポートを香りで評価。
職員たちは彼を「静かな加湿器」と呼ぶ。
年に一度の記者会見では、毎回マイクを見つめたまま10分間沈黙する。
その後「良い音ですね」と言って退席するのが恒例。
難波霜介の言葉と理念
「教育とは、温度を見守ること。」
「焦る学生は焦げる。冷めた学生は固まる。」
「ほどよいぬるさこそ、学問の適温だ。」
松茸大学の学生たちは、彼のことを親しみを込めてこう呼ぶ。
「瓶学長(びんがくちょう)」
彼は今日も瓶を見つめている。
何も言わないが、菌が笑っている。
最終更新:2025年11月04日 17:11