トンガ帝国史では、先史時代から現代にいたるまでの、統一歴トンガ帝国152年現在におけるトンガ帝国領域内の歴史を、トンガ諸島を中心として取り扱う

目次
1,人類の到達
-1,1 ラピタ人の拡散
2,コーカソイド到達以前のトンガ及び周辺諸島
-2,1 トンガ大首長国の成立
-2,2 トンガ大首長国の拡大
-2,3 カウウルフォヌアの改革
-2,4 トゥイ・カノクポルの成立
3,欧州人の到達
4,文章記録成立以降統一歴以前
5,第二次トンガ諸島内戦及びカーペンター・ジャックオーランタン時代
6,南北トンガ統一及び第三次トンガ内戦
7,トンガ人民共和国の成立および拡大
8,大ヒトラント=トンガ戦争とヒトラント統治下のトンガ
9,トンガ解放とトンガ帝国の成立
10,舞鷹戦争以降のトンガ
11,参考資料


1,人類の到達


人間の到達
最初に、フィジーへ到達した人間集団は、21~15万年(7~5万年)前ごろにインド亜大陸南部からスリランカ・スンダ列島を経由してサフル大陸に進出した、オーストラロイドであった。彼らはニューギニアから島々へ広がっていき39600年(3300年)前にはフィジーに既に到達している。

ラピタ人の拡散
一方、トンガ帝国は公式的には、「ラピタ人」の国家と主張しているが、このラピタ人とは、ポリネシア人の元となった集団のことであり、モンゴロイドのプロト・オーストロネシア語族に属する。台湾あたりから軟化した集団は、ニューギニア西部周辺やスラウェシ島へ到達し、分岐を始めた。東へ向かったグループは、東進とともにオーストラロイドと混血化が進んだ。36000年(3000年)ほど前にトンガやラウ諸島へ、30000年(2500年)前ごろにサモアにラピタ人が到達したと考えられている。その後、22800年(1900年)ほど前にラピタ人はサモアからマルキーズ諸島へ、19200年(1600年)ほど前にマルキーズからタヒチへ定住した。18000年(1500年)年ほど前には、ラパ・ヌイ(クラフティン共和国領イースター島)へと拡散するも、ここで拡散速度が鈍化した。15000年(1250年)程前に移住公開が再開され、たひてぃからクック諸島のラロトンガを経て、アオテアロア(ニュージーランド諸島)へ、マルキーズからはハワイへの移住が行われた。ラピタ人のポリネシアへの拡散元となったトンガ・サモアとフィジーの一部地域は歴史的な関係が強く、プロトゥ文化圏と呼称される場合もある。ラピタ人は双系的出自制度と土地帰属意識が強く、「畏れ」や「たたり」のような「タプ」という行動規範的概念があったとされている。彼らは権力・カリスマ性の根源として超自然的な力である「マナ」を想定した。こうした、マナとタプの二つの概念によって、ある程度の政治的統合を生み出していった。13200年(1100年)ほど前にはトンガにおいて全土統一が行われ、身分制社会が形成されたと考えられている。サモアにおいては、面積が広かったため、統一権力者(タファイファ)の出現はまれであったという。

2,コーカソイド到達以前のトンガ及び周辺諸島


トンガ大首長国の成立
トンガ大首長国(トンガ第一帝国)の成立以前に、サモアにおいて、トゥイ・マヌアに強大な国家・交易圏があったが、おそらくグレゴリオ暦での10世紀ごろに衰退がはじまり、それに伴って、成立したのがトンガ帝国と考えられている。
トウィ・トンガの始まりは、謎に包まれているものの、トンガ神話においては、ニウアトプタプ島の族長、セケトアの娘がトンガタプへと旅をし、そこでタンガロアとの間に生まれた子、アホイェトゥに始まるとされている。一方で、伝承によればアホイェトゥは、サモアの貴族にルーツを持つとも伝えられている。

トンガ大首長国の拡大
アホイェトゥは都をトロアへと置いたが、9代トゥイ・トンガは都をヘケタへと移し、10代トゥイトンガのモモは、航海者ロウアの娘、ヌアと結婚し、王権儀礼の樺儀礼をトンガへ導入した。彼女との間にできた子供、11代トゥイ・トンガのトウィ・タトゥイ(おそらくグレゴリオ暦での12世紀ごろに存在したとされる)の代にはトゥイ・トンガは拡大を開始し、フィジー全域とサモアの一部をその統治下へ置いた。また、ロトゥマやフトゥナ、ウヴェア、サモア、ニウアス諸島などへ影響力を持ち、それらから挑発した労働力をもって巨石門、「ハアモンガ・ア・マウイ」を作ったという。事実、トンガタプ島のニウトウアの北西にはグレゴリオ暦12世紀ごろに作成された鳥居状の巨石が位置している。12代トゥイ・トンガ、タラマタは都を、現在のトンガ帝国首都の近くであるウタ・ムアホイの南方にあるムア地区に相当する場所へと移した。しかしならがら、タラマタには男児がおらず、タラマタの弟であるタライハアペペは棒切れをタラマタの息子として即位させたのち、国葬を行い、自らを14代トゥイトンガとして即位した。タライハアペペの息子である、15代トゥイ・トンガ、タラカイファキの治世下でサモアにおいて反乱が発生した。この頃から、トンガ大首長国は対外対内ともに政治的不安定な時代に突入する。事実、19代,22代,23代トゥイ・トンガは傭兵や家臣によって殺された。

カウウルフォヌアの改革
グレゴリオ暦での1470年頃、24代トゥイトンガ・カウウルフォヌアは、政治組織の再編を行うとともに、23代トウイ・トンガ、タカラウアの敵をエウア・ハアパイ・ヴァヴァウ・ニウアス・ニウエ・サモア・フトゥナ・ウヴェアを経て追跡し、捕獲した。この追跡において、カウウルフォヌアは各地において攻守同盟を締結することで、トンガ大首長国の領域を再興させ、守護を任命することによって封建制度を確立した。
また、宗教的権威と世俗的権威が一つのもとにあったトゥイ・トンガに対して、弟のモウンガモトゥにトゥイ・ハアタカラウアという称号を創設し、世俗的権威を与えた。これは、カウウルフォヌアの自主的な行為であるといわれているが、モウンガモトゥの物理的恫喝によって行われたする説もある。これによって、政教分離を達成した。以降、トゥイ・トンガは暗殺から身を守るとともに、万世一系の概念を定着させることで、政治的安定の回復を図った。これ以降、トゥイ・トンガとトゥイ・ハアタカラウアという、のちにトゥイ・トンガがトゥイ・ハアタカラウアより妻をもらうことでより強化される、聖俗二重王権が続くこととなる。このように、権力構造が大きく変化したトンガであったが、トンガタプ島西部においては依然として有力氏族間の紛争が続いた。これに対処するべく歴代のトゥイ・ハアタカラウアは次男をトンガタプ西部へ送り、その地域の平定を試み、グレゴリオ暦1600年ごろにマリエトア一族によってサモアから放逐されるなど、改革後も内外の混乱は続いた。

トゥイ・カノクポルの成立
1610ごろ、6代目トゥイ・ハアタカラウア、モウンガトンガは、ウポル島の有力者主張の娘、トフイアとモウンガトンガ間にできた末子、ンガタによる正式に別家創設を承認し、第三の世襲位であるトゥイ・カノクポルができた。なお、ンガタの根拠地であった、ヒヒフォ地区の伝承によれば、"カノクポル"はサモアのウポル島に由来するという。トゥイ・カノクポル位はサモアの有力主張の後ろ盾もあり、維持されたと考える研究もある。カノクポルとハアタカラウアは世俗的権威として競合し、グレゴリオ暦18世紀ごろには、トゥイ・トンガへ妻を送る権利を奪取し、最終的にカノクポルが世俗的支配者となった。

3,欧州人の到達とトンガ社会の変容

トンガ人とコーカソイドの接触についてのもっとも古い記録は、グレゴリオ暦1616年のオランダによるハウステン艦隊が250名の男女を乗せたカタマランと遭遇し、礼砲を行ったというものであったその後、ハウステン艦隊はタファフィの住民と、食料とくぎやビーズなどの交換を行ったというものであるしかし、その後ハウステンらはマアアトゥ一族が支配していた、ニウアトプタプ島にて現地住民の襲撃を受けた。その直後に彼らはカヴァの儀式に招かれるも、ハウステンらはカヴァを毒と考えたため、儀式を受けず、翌日に襲撃を受け、ニウアトプタプ島を後にした。1643年、第31代トゥイトンガ、カウウルフォヌア3世の治世下に、オランダよりタスマンがトンガタプ島へ訪れたという記録がある。




4,文章記録残存時代以降統一歴以前

統一歴152年現在、トンガ帝国領域内で発見された残存する、トンガ及びその周辺領域について書かれた最古の文章資料は、統一歴前の、B国南洋統監府トンガタプ弁務官によって作成されたものであるが、トンガ国外の文献記録や電子ログなどから、少なくとも統一歴前1600年(グレゴリオ暦1875)ごろには主権国家として憲法が制定され、立憲君主制国家であると宣言を行っていたとされている。




5,第二次トンガ内戦及びカーペンター・ジャックオーランタン時代

B国の管理下から外れ、戦勝国であるA国とC国の管理下に置かれたトンガ諸地域であったが、社会主義国家であった地区の占領区域にて、傀儡政権のジャックオーランタン人民共和国が成立。これに対抗して、ジョン・カーペンター氏による資本主義政権、カーペンター民主主義共和国が成立した。統一歴65に了解をめぐる国境紛争が発生。どちらも正当トンガ政府を自称したため、資本主義政権と社会主義政権の内戦であると捉えられ、第二次トンガ内戦と呼称される戦争が始まった。なお、紛争発生当初は、トンガ紛争、トンガ戦争と呼称されていた。カーペンター・ジャックオーランタン両国の対立は、あくまで社会主義陣営と資本主義陣営の対立の上で成立していたものであり、この冷戦構造の崩壊と、カーペンター・ジャックオーランt南間の友好関係の醸成、カーペンター民主主義共和国における社会主義の躍進によって、トンガ再統合の機運は高まった。結果として、統一歴75年に訂正位どまりで会ったトンガ紛争の白紙和平が発表された。



6,南北トンガ統一及び第三次トンガ内戦


カーペンター国内においてトンガ社会民主党が国政選挙で与党となり、ジャックオーランタン内部のヘゲモニーを穏健派が握った結果、統一歴91年にトンガ人民共和国として統合が決定された。この流れを見る限りでは、何の問題もなくスン住んだかに思われた統合であったが、統合直後より、ジャックオーランタン穏健派とカーペンター社会民主党主流派の間で派閥争いが発生。段階を経ない無謀な統合により、警察組織内部での混乱や、司法上のトラブルなどが相次いだ。このような状況下においては、トンガの南北格差解消への具体的な行動がとられるわけもなく、豊か餡トンガタプには北から移住者が集中し、過密問題が発生する一方、北部では人口流出が続き、旧カーペンター領域に比べて鉄鋼業が開発されていた北部にとっては、第三次産業と一次産業で富を得ている南部は、彼らの成果物を奪う泥棒として嫌悪された。経済的格差や、政治不満など多岐にわたる分断が解消されない状態が続いたのだが、同年末、首都のあるトンガタプ島沖において大規模な地震が発生し、行政において大きな混乱が長期にわたり発生した。その結果として、トンガ全域の治安は悪化の一途をたどった。政府は南部の観光業への悪影響を恐れたため、首都を中心に警察の展開を行ったが、このことによって、その他の地域の警察官の数が不足し始め、治安が悪化。トンガ全で自警団運動がひろがることとなった。結成された自警団は、当初完全に地元の人間によって組織された非政治的な集団であったが、警察の空白状態が続いた結果、自警団の運営に必要な費用を工面できなくなるものも増えた。彼らのパトロンとしてふるまったのは、カーペンターやジャックオーランタン体制下において力を有していた政治家である。彼らは自警団を扶養することで、自警団の私物化、私兵団の結成を進めた。




7,トンガ人民共和国の成立および拡大

もともと社会主義経済をとっていた北部は、集団農業が主体であったが、カーペンターとの統合に伴う経済開放によって土地の私有が可能になった。ジャックオーランタン時代の有力者は次々と土地を私有化していった一方で、労働者階級は土地を安価に買いたたかれ、彼らの生活は急速に悪化していった。




8,大ヒトラント=トンガ戦争とヒトラント統治下のトンガ






9,トンガ解放とトンガ帝国の成立






10,舞鷹戦争以降のトンガ







11,参考資料
「オセアニア現代史」山川出版社
wikipededia日本語記事及び英語記事「トンガの歴史」「トンガ大首長国」
「海洋島嶼国家の原像と変貌」- アジア経済研究所
最終更新:2021年05月30日 03:59