先史時代から新石器時代
7万年前にアフリカ大陸を出たホモ・サピエンスの一団は、中東から北西に進み、およそ4万5000年前に初めてヨーロッパ大陸に進出した。欧州におけるホモ・サピエンスの代表例として、クロマニヨン人が挙げられる。彼らは剥片石器や骨角器を用いて生活を豊かにするとともに、アルタミラ洞窟(イベリア)、ラスコー洞窟(シェラルド)に現在も残る洞穴絵画といった優れた文化的遺産も残した。
濃厚・牧畜が始まると、定住生活が可能となり、土器製作が始まった。また、石斧・石臼などの磨製石器が用いられるようになった。新石器時代の始まりである。ブリテン島南部に存在するストーンヘンジは新石器時代に建設されたと考えられている。
青銅器時代
ヨーロッパにおける青銅器文明は東地中海沿岸地域で誕生した。この地域で繁栄した一連の青銅器文明はエーゲ文明と呼ばれる。
エーゲ文明は、まずクレタ島で栄えた。紀元前2000年頃に始まるクレタ文明(ミノス文明)はクノッソス、フェストス、マリアのいわゆるミノア三大宮殿やその他の拠点を中心に宮殿文化の花を咲かせ、後の古典期とは異質な文化が大いに栄えた。これらの宮殿は宗教的権威に巨大な権力を握った王の住居であった。彼らは外部勢力への警戒が薄く、宮殿は城壁を持たなかった。当時のクレタが非常に平和であったことが推察される。
▲クノッソスのフレスコ画
一方現在のモレラ共和国本土では、紀元前16世紀ごろから北方から移住したアカイア人がクレタ文明やオリエントの影響を受けミケーネ文明(ミュケナイ文明)を築いた。ミケーネ・ティリンス・ピュロスなどに代表される王宮はクレタ文明のそれと対象的に巨大で堅牢な城壁を持ち、軍事的関心の高さと王の権力の大きさが伺える。ミケーネ王国宮殿跡には巨大な石造建築物の獅子門などがあり、またアガメムノンの黄金のマスクなどの金製品が多数出土している。紀元前15世紀にはクレタ島へ勢力を伸ばし、さらに小アジア(現在のアナトリア諸侯連合領)のトロイア王国と干戈を交えた。ホメロスの叙事詩『イーリアス』、『オデュッセイア』はこの戦争を基にしたと考えられている。
ミケーネ文明の諸王国は紀元前1200年頃突如として破壊され、滅亡した。理由として貢納による支配体制の行き詰まりや、異民族の侵入などが挙げられるが、正確な原因は未だ解明されていない。少なくとも、この頃には王や宮殿を中心とした統治・経済システムは必要とされなくなっていた。ミケーネ文明の崩壊とともに、ギリシアにおける青銅器時代は終焉を迎えたことから、前11世紀~8世紀を初期鉄器時代と呼ぶ。また、この時代の史料はほとんど存在していないことから暗黒時代とも呼ばれる。
初期鉄器時代以降からポリスの成立
紀元前8世紀前後になると各地の貴族層たちの移住が始まり、やがて集落が連合しアクロポリスを中心とする都市(ポリス)が建てられた。また、地中海及び黒海沿岸にも進出し多くの植民市を設けた。主な植民市として、マッシリア(現在のマルセイユ)、ネアポリス、シュラクサイ、タレントゥム、レギウム、黒海沿岸のビュザンティオン(現在のコンスタンティノポリス)が挙げられる。中でも、南イタリアの入植地はマグナ・グラエキアまたはメガレー・ヘッラス(大ギリシアの意)と呼ばれ、イタリア半島北部のエトルリア人と盛んに交易を行った。時代を同じくして、フェニキア文字を基にして作られたアルファベットが使われるようになった。フェニキア文字は原カナン文字から発展した文字であり、子音しか表せなかったが、ギリシア人はギリシア語発音にはない音価を持つフェニキア文字を、母音を表す音素文字に転用するなど、さまざまな改良を加えた。この改良によってギリシア文字は母音と子音がそれぞれ文字を持つ、現在みるようなギリシア・アルファベットとなった。
ギリシアのポリスはそれぞれ独立国家であり、ギリシア人の統一国家を作ることはなかった。しかし、文化面、思想面では彼らは共通の言語と神話、4年に一度開催されるオリュンピア祭など同一民族としての意識を持ち続け、古代ギリシア文明を作り上げた。また、彼ら自身は彼ら自身はヘレネス(ヘッレーンの子孫)と称し、他者をバルバロイ(意味のわからない言葉を話す者)と呼んで区別した。
ギリシア各地には大小約200のポリスが存在したが、その中でも高い影響力をもったのが、アテナイ(アテネ)、スパルタ、そしてテーバイ(テーベ)であった。
アテナイはイオニア人がアッティカ地方に建設した都市であり、名はギリシア神話の女神アテーナーに由来する。アテナイは奴隷制度が最も発達したポリスであり、その数は総人口の3分の1にのぼった。彼らは家内奴隷・農業奴隷として用いられたほか、手工業やラウレイオン銀山など鉱山での採掘にも従事させられた。また、アテナイでは民主政が典型的な形で出現し、その政治体制はアテナイ民主政として知られる。
スパルタはドーリア人が先住民を征服して建設したポリスであり、伝説では、紀元前1104年にエウリュステネスが建国したとされる。スパルタ人は伝説的な立法者リュクルゴスが定めたとされる制度に基いた社会生活を営んだ。中でも、軍国主義的政治と尚武を尊ぶ厳格な教育制度は古代ギリシア世界で最強の重装歩兵軍を作り上げたとされている。
テーバイはアイオリス人によるポリスであり、ボイオティア地方の中心に位置する。アテナイの民主政や、スパルタの軍国主義政策などといった文化、政治における特異な点はないものの、ギリシア神話では「7つの門のテーバイ」として名高く、劇作者ソフォクレスの代表作『オイディプス王』と『アンティゴネー』の舞台となっている。
ペルシア戦争とヘレニズム時代
紀元前5世紀頃、古代オリエントを統一し、マケドニア、トラキアに勢力を伸ばし大帝国となったアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)ペルシアの支配に対し、イオニア地方の都市国家群が反乱を起こした。これに対しアテナイは反乱軍を支援し、アケメネス朝を牽制した。これをきっかけに始まったのがペルシア戦争である。紀元前492年にペルシアの王ダレイオス1世はアテナイに遠征軍を差し向けたが、暴風に遭遇して大損害を被り撤退、前490年に再び侵攻を開始するがアテナイ軍にマラトンの戦いで敗北、海軍も橋頭堡を築く事ができず撤退した。ダレイオス1世の没後、後を継いだクセルクセス1世は前480年に再度ギリシア侵攻を行い、テルモピュライの戦いでスパルタ王レオニダス1世率いるスパルタ軍を打ち破るも同年サラミスの海戦で大敗、更に翌年のプラタイアの戦いで敗北を喫するとギリシア側の勝利は決定的となった。
ペルシア戦争勝利後、諸ポリスはペルシアの再侵攻に備えデロス同盟を結び、アテナイがその盟主となった。アテナイは強大な海軍力と財力で他の同盟国に対する支配力を強め、エーゲ海に急速に勢力を広げていった。これに対し、すでにスパルタは前6世紀にペロポネソス半島の諸ポリスとの間にペロポネソス同盟を結成していたが、アテナイの勢力拡大にさらに強い警戒感をもつようになった。前431年についに両国はペロポネソス戦争に突入し、古代ギリシア世界は二大陣営に別れ戦うこととなった。戦争序盤はアテナイが優勢だったものの、優秀な指導者ペリクレスを失ってからは政治が混乱し、ついにアケメネス朝と結んだスパルタに敗北、前404年に全面降伏した。
ペロポネソス戦争後はアテナイの海上帝国は崩壊し、デロス同盟も解体、ギリシア世界の覇権はスパルタが握ったが、前4世紀半ばにレウクトラの戦いでエパメイノンダス率いるテーバイ軍がスパルタを破り、ペロポネソス同盟は解体、テーバイが一時主導権を握るが、紀元前362年にマンティネイアの戦いでエパメイノンダスが戦死すると覇権を失った(ボイオティア戦争)。
その後もポリス間の戦争は相次ぎ、市民の団結は失われ、ポリス社会は変容し始めた。こうした状況の中で台頭したのがギリシア北部のマケドニア王国である。マケドニアは他の国家と異なり、ポリスを作らず移動的な牧畜を営んでいたので他のギリシア人からはバルバロイ扱いを受けていたが、前5世紀に王都ペラを建設、ギリシア文化を受容していった。マケドニアは王位をめぐる内戦、異民族の侵入など混乱が相次いだが、ピリッポス2世の治世に最有力の国家に成長し、ペロポネソス戦争後のポリスの衰退に乗じてギリシア本土に侵攻、前338年カイロネイアの戦いでテーバイとアテナイの連合軍を破り、スパルタを除く全ギリシアのポリスをコリントス同盟に集め、覇権を打ち立てた。ピリッポス2世はこれまでギリシア諸国の争いに度々干渉してきたペルシアへの侵攻を計画していたが、暗殺されて計画は頓挫、遺志は子のアレクサンドロス3世(大王)が継ぐこととなった。
アレクサンドロス3世はまずドナウ川周辺のトラキア人を平定した後、テーバイの反乱を収めギリシア諸国との同盟関係を固めてから、前334年に父の意を継いで、東方遠征に着手した。遠征軍はグラニコスの戦い、イッソスの戦いで勝利を収め、エジプト、アケメネス朝の属国であるバビロン=レグルス王国を征服、ついでガウガメラの戦いでペルシア王ダレイオス3世を破り、前330年にアケメネス朝を滅ぼした。その後も軍を進めてインド西北部まで至る大帝国を築き上げた。大王はアラビア遠征も経画していたものの、熱病にかかりバビロンで32歳の若さで急死、彼の領土はディアドコイと呼ばれる部下の将軍たちによって分割され、やがてアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト、アッタロス朝ペルガモンなどの諸国に分裂した。大王の東方遠征から、最も長く存続したプトレマイオス朝の滅亡までをヘレニズム時代と呼ぶ。
この時代にはギリシア風の都市がオリエント各地に建設され、ギリシア文化が広まっていった。なかでもアレクサンドロス大王の名を冠した都市アレクサンドリアは多数建設され、エジプトのアレクサンドリアは経済・文化・学問の中心として大いに栄えた。
ローマ世界~共和制ローマ前期
前10世紀頃、ラテン人の一派によってティベリス川のほとりに都市国家が建設された。この都市こそがローマである。ローマははじめ先住民であるエトルリア人を通してギリシア文化の影響を受け、エトルリア人の王に支配されていたが前509年に王を追放し共和制となった。共和政ローマでは王に代わって執政官(コンスル)が指導権を握った。執政官には同等の力を持つ2人が就任し(ただし、前367年以前まで2人制が定まっていなかった説も存在する)、その任期は1年とされ、彼らの諮問機関であったのが元老院(セナトゥス)であった。共和制初期には執政官や元老院議員といった官職は貴族(パトリキ)が独占していた。しかし重装歩兵として国防に重要な役割を果たすようになっていた平民(プレブス)は貴族による独占を不満を持ち、聖山(モンス・サケル)に立てこもり、さも独立するような素振りを見せた(聖山事件)。これに対する妥協策として、元老院や執政官の決定に拒否権を行使できる護民官と、平民による民会であるプレブス民会が設置された。ただし、平民による権利闘争というよりも、平民のエリート層が貴族と同等の権威と正当性を要求するために大衆を利用した一種の貴族制とする見方もある。このことは物証的証拠がないものの、平民の権利の守護者である護民官が拒否権をあまり行使しなかったという事実と一致している(Mouritsen, 2017)。ついで前367年にリキニウス・セクスティウス法が制定され、執政官のうち1人は平民が就任することが可能になり、前342年のゲヌキウス法で両者とも平民から選出されることが可能になった。そして前287年のホルテンシウス法でプレブス民会による立法がローマ全体への拘束力を持つことが可能になった。
形式上、平民にも貴族と同等の参政権が与えられるようになったが実際には貴族層が指導力を持ち続け、非常時には独裁官が護民官職権を無視して独裁権を行使できた。これらの点においてローマ共和制はギリシア世界の民主制とは大きく異なっていた。
共和制初期ではローマはイタリアの小国であったが、他のラテン人都市国家やエトルリア人、イタリア南部のギリシア人植民市を征服し、前3世紀前半にはイタリア全土を支配した。ローマ人はイタリア外にも領域を広げていき、フェニキア人植民市のカルタゴと衝突、前264年の第一次ポエニ戦争ではシチリア島を獲得、ローマ最初の属州となった。第二次ポエニ戦争ではカルタゴの名将ハンニバルによって一時危機に陥ったが、スキピオ、マルケッルス、ファビウスといった将軍たちの活躍によってカルタゴを破り、カルタゴの植民市が置かれていたイベリア半島を獲得、前146年の第三次ポエニ戦争ではカルタゴを滅ぼした。更に同年、マケドニア王国を属州として編入し、東方のヘレニズム世界にも進出した。
ローマ世界~共和制後期
その後も対外征服戦争および反ローマの反乱などによりローマの軍事活動は止むことがなく、相次ぐ戦争によって農地から引き剥がされていた中小農民は没落の一途をたどり、貴族層が支配する大規模農場によってさらなる社会的・経済的基盤の没落を招いたとされているが、近年ではこうした説に対する反論も出ており実態ははっきりしていない。
第三次ポエニ戦争後に頭角を現したティベリウス・グラックスは中小農民や、政治的影響力を欲していた富裕層の平民らの支持を受け、護民官に就任、個人が所有できる土地の上限を定めた法律などを制定し、土地の再分配を推し進めた。しかし同僚護民官の解任や元老院への非妥協的な態度は元老院の不興を買い、あるいは独裁者にならんとしているとして批判の的になり、護民官の任期満了後に政敵の私兵により暗殺された。弟のガイウスも護民官を務めたが民衆の指示を失い、前121年に元老院最終勧告が発動され殺害されることとなる。
ローマ世界~共和制末期
グラックス兄弟の改革後のローマ社会は安定とは程遠いものだった。南方では北アフリカのヌミディアとの間でユグルタ戦争が勃発し、北方ではキンブリ・テウトニ戦争が行われた。更に本土に近いシチリア島においても奴隷による大規模な反乱が巻き起こった。これらの外敵や内乱を乗り越えるために、共和制ローマは新たな指導者を生み出すこととなった。その一人がガイウス・マリウスである。彼は前107年に執政官に選出され、ユグルタ戦争においてローマ軍を率いて勝利を収めた。さらに、キンブリ・テウトニ戦争でもマリウスは大きな功績を上げ、彼の軍事的成功はローマ軍の改革につながった。特に、彼は市民兵制から志願制へと移行し、無産市民でも軍に参加できるようにした。これにより軍の人材供給が安定し、ローマはさらなる軍事力を持つことができたが、同時にマリウス個人への忠誠心が強まる兵士たちを抱えることにもなった。
この軍事改革は、やがて共和制における政治と軍の関係を変え、指導者たちが個人の権力を強化する手段となっていった。マリウスの後、スッラという新たな人物が登場する。彼はローマ内戦を引き起こし、前82年にはローマの独裁官に就任した。スッラは元老院の権力を強化し、護民官の権限を制限する改革を行ったが、彼の死後、その改革は次第に形骸化していった。
スッラの独裁政権が終わった後も、ローマは内乱や反乱、そして政治的混乱に悩まされ続けた。ローマの元老院はカエサル、ポンペイウス、クラッススという有力な3人の指導者による第一回三頭政治を認めざるを得なくなった。この体制の下、ローマの指導権はこれらの強力な人物に握られたが、やがて三頭の間に対立が生じる。
クラッススが戦死し、ポンペイウスが元老院の支持を得てカエサルに対抗するようになると、ローマは再び内戦の時代へと突入した。カエサルは前49年にルビコン川を渡ってローマに進軍し、元老院とポンペイウスを破って絶対的な権力を手に入れた。カエサルは独裁官としてローマの政治・社会制度に多くの改革をもたらしたが、彼の独裁は共和制の理想から遠ざかるものとして反発を生み、前44年に元老院の一部の者たちによって暗殺された。
カエサルの死後、ローマは第二回三頭政治へと移行し、オクタウィアヌス、マルクス・アントニウス、レピドゥスが権力を分かち合うこととなった。しかし、再び権力闘争が始まり、オクタウィアヌスが最終的にアントニウスを打ち破ると、ローマの共和制は名実ともに終焉を迎えることになる。前27年、オクタウィアヌスはアウグストゥスの称号を受け、ローマ帝政の幕開けとなった。
ローマ世界~前期ローマ帝国
前27年にオクタウィアヌスが「アウグストゥス」の称号を与えられ、ローマ帝国の初代皇帝となった。この新しい体制は、共和制の制度を一部形式的に残しながらも、実質的にはアウグストゥスが全権を握る帝政の始まりを意味した。彼の統治は「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」の時代を築き、内外の安定をもたらした。アウグストゥスの死後、ユリウス・クラウディウス朝の皇帝たちが続き、ローマ帝国は拡大と繁栄を経験する一方で、皇帝の性格や治世の違いにより様々な危機にも直面した。
5代皇帝ネロの死後、ローマは「四皇帝の年」(69年)と呼ばれる混乱に突入した。ガルバ、オト、ウィテリウスの各将軍が帝位を巡って争ったが、最終的にはフラウィウス家の将軍ウェスパシアヌスが勝利し、フラウィウス朝を開いた。ウェスパシアヌス(69年–79年)は財政の立て直しや、ローマ市の再建を進めた。
彼の後継者ティトゥス(79年–81年)は、ポンペイの大噴火やローマの大火といった天災に対処し、ローマ市民から高い評価を受けたが、短命に終わった。その弟ドミティアヌス(81年–96年)は、帝国の防衛と行政改革に努めたが、独裁的な統治スタイルが反発を招き、親衛隊によって暗殺された。
ドミティアヌスの死後、元老院によって選ばれたネルウァが帝位に就いた(96年–98年)。ネルウァは息子のいなかったため、軍の支持を得るためにトラヤヌスを養子とした。この時代は帝国の最盛期を迎え、外征による領土拡大と内政の安定が続いた。
トラヤヌス(98年–117年)はダキア(現在のアークランド領)やメソポタミアを征服し、帝国の領土を最大に広げた。彼の後継者ハドリアヌス(117年–138年)は拡張政策を見直し、防衛に重点を置き、ブリタンニア(現在のシークヴァルド=アストリア)に「ハドリアヌスの長城」を建設した。
続くアントニヌス・ピウス(138年–161年)の時代は内政が安定し、特筆すべき戦争はなかった。マルクス・アウレリウス(161年–180年)は哲学者皇帝として知られ、その著書『自省録』は後世に影響を与えた。しかし、彼の治世ではパルティア戦争やゲルマン人の侵入といった外敵との戦いが絶えず、帝国は次第に疲弊していった。
コンモドゥスの死後、セプティミウス・セウェルスが内戦を制して帝位に就き、セウェルス朝を築いた(193年–235年)。彼の治世では軍の力が増し、セウェルスは軍事的な成功を収めた。しかし、彼の死後は息子カラカラやエラガバルスといった後継者が次々と暗殺され、セウェルス朝は短命に終わった。
235年、セウェルス朝の崩壊後に始まったのが「軍人皇帝時代」である。各地の軍団が次々と皇帝を擁立し、50年間で20人以上の皇帝が即位しては殺害されるという混乱が続いた。この時期、ローマ帝国はゲルマン人やサーサーン朝ペルシアからの侵入に悩まされ、経済的にも社会的にも疲弊した。
この混乱を収拾したのがディオクレティアヌス(在位: 284年–305年)である。彼は軍人皇帝時代を終わらせ、帝国の再建を図った。彼は帝国の広大な領土と複雑な統治を効率化するために「テトラルキア(四分統治)」を導入した。これにより、ローマ帝国は2人の正帝(アウグストゥス)と2人の副帝(カエサル)によって4つの地域に分けられ、それぞれが統治する体制が整えられた。
ディオクレティアヌスはまた、経済改革や宗教政策を行い、キリスト教徒に対する大迫害を行ったが、305年に自ら退位し、その後の皇帝たちに帝国の統治を託した。しかし、四分統治の試みは短命であり、ディオクレティアヌスの死後、帝国は再び内乱に突入していくこととなる。
ローマ世界~後期ローマ帝国
ディオクレティアヌスの「テトラルキア(四分統治)」は帝国の広大な領土を効率的に管理するための試みだったが、彼の退位後、権力を巡る内乱が再び勃発した。テトラルキアの崩壊後、コンスタンティヌス1世(在位: 306年–337年)が登場し、最終的に帝国を再統一した。
コンスタンティヌスは312年のミルウィウス橋の戦いでライバルのマクセンティウスを打ち破り、翌313年にミラノ勅令を発布してキリスト教を公認した。このことにより、キリスト教はローマ帝国全体で合法となり、その後急速に拡大した。コンスタンティヌスはまた、330年に新しい首都としてビザンティウムを「コンスタンティノポリス」と改名し、東方の支配を強化した。
彼の死後、帝国は再び分割されたが、彼の治世における重要な変革は、キリスト教が帝国の主要な宗教となり、東西分裂の兆しが見え始めたことであった。
ローマ世界~西ローマ帝国の衰退と崩壊
410年、西ゴート族の王アラリック1世によるローマ市の略奪は、西ローマ帝国にとって象徴的な出来事であった。ローマが異民族に占領されたのは約800年ぶりのことであり、帝国の威信は大きく損なわれた。
さらに455年にはヴァンダル族がローマ市を再び略奪し、帝国の首都は壊滅的な打撃を受けた。これ以降、西ローマ帝国の領土は次第に縮小し、ゲルマン諸部族によって次々と支配されるようになった。
内政面でも、西ローマ帝国は皇帝権の弱体化と、軍事司令官や貴族たちの権力争いに悩まされ続けた。軍事力を確保するためにゲルマン人傭兵に依存するようになり、これがさらなる混乱を招いた。最後の西ローマ皇帝となったのは、幼少のロムルス・アウグストゥルスであった。
476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルは、ロムルス・アウグストゥルスを廃位し、彼自身がイタリア王として支配を開始した。この出来事が、西ローマ帝国の公式な終焉とされている。しかし、オドアケルは「皇帝」を名乗らず、形式上は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配を認めたため、帝国の分裂は続きながらも、名目的には統一されたものとして存続した。
東ローマ帝国はその後も約千年にわたり存続し、コンスタンティノープルを中心に繁栄を続けた。だが、西ローマ帝国の崩壊によって、かつてのローマ帝国全体の支配体制は失われ、ヨーロッパは中世へと突入することとなる。
このようにして、約千年にわたるローマ帝国の歴史は、東西の分裂とともに終わりを迎え、特に西ローマ帝国の崩壊は、古代世界から中世への大きな転換点を形成した。
東方帝国~コンスタンティヌス朝からユスティニアヌス朝
395年にローマ帝国が東西に分割された後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、旧ローマ帝国の東部領土を引き継いだ。首都コンスタンティノポリスを中心とし、東地中海、バルカン半島、小アジア(現代のルメリア・アナトリア)、シリア、エジプトなど広大な領土を支配した。文化的にはギリシア語が使用され、ギリシア正教を国家の宗教とする独自の文明を発展させたが、東ローマ帝国はあくまで自らを「ローマ帝国」の正当な継承者とみなしていた。
6世紀、ユスティニアヌス1世は東ローマ帝国の最大版図を成し遂げた。彼は旧西ローマ帝国の領土を回復するための大規模な軍事遠征を行い、北アフリカのヴァンダル王国、イタリアの東ゴート王国、さらにはイベリア半島南部を再征服した。これにより一時的に帝国の版図は広がり、かつてのローマ帝国の栄光を取り戻した。
ユスティニアヌスはまた、内政面でも重要な改革を実施した。彼が編纂したユスティニアヌス法典は、後のヨーロッパの法体系に大きな影響を与えた。また、コンスタンティノポリスには壮大なハギア・ソフィア聖堂が建設され、帝国の宗教と文化の象徴となった。
しかし、ユスティニアヌスの治世末期には、ペルシャとの戦争、疫病の流行、経済的な負担などで帝国は弱体化し、彼の死後には再び領土の縮小が進んだ。
また、ユスティニアヌス1世の治世には、ニカの乱と呼ばれる反乱が起こった。これは度重なる増税に反発した市民による反乱で、市民たちは「ニカ(勝利せよ)」の言葉を合言葉としたため、この名で呼ばれることになった。
この反乱は将軍ベリサリウスらにより鎮圧されるが、トラキア管区行政官ヨハンネスのもとにユスティニアヌス帝崩御の報告が舞い込む。これは結局誤報だったものの、彼はユスティニアヌス帝亡き後の東ローマ帝国に価値を認めず、新たなローマ帝国、すなわち「トラキア・ローマ帝国(中世トラキア・ローマ帝国、中世帝国とも)」の建国を宣言し、ユスティニアヌス2世として自ら帝位に付く。この帝国が現在のトラキア・ローマ帝国の前身とされている。反乱の収束後も彼は自らの国家を正当なローマ帝国と主張し続けたが、当然のことながら東ローマ帝国側はトラキア・ローマ帝国が「ローマ帝国」であることを認めず、ユスティニアヌス2世がローマ皇帝であることも承認しなかった。一方、トラキア・ローマ帝国側でも、東ローマ帝国のことを正統なローマ帝国であると認めなかった。
ユスティニアヌス2世による建国後、トラキア・ローマ帝国は東方に向けて領土を拡大し、現在のブルガリアや含む領域を統治した。特に、バルカン半島に住むスラヴ人との戦争が続いたが、7世紀中頃には彼らを服従させ、一部をトラキア・ローマ帝国の文化に取り込むことに成功した。これにより、帝国内ではローマ文化とトラキア・スラヴ文化が融合し、独自の文化的アイデンティティが形成された。
東方帝国~トラキア・ローマ帝国の建国からマンツィケルトの戦い
ビザンツ帝国との対立は8世紀に入るとより激しくなった。特に、聖像破壊運動(イコノクラスム)を巡る宗教的対立が深まり、トラキア・ローマ帝国はビザンツ帝国の聖像破壊政策に強く反発し、双方の総主教を破門する事態となった。これが、両国間の宗教的・政治的な亀裂をさらに深める結果となった。
しかし9世紀にイスラム王朝の脅威がより一層大きくなり、トラキア・ローマ帝国とビザンツ帝国は脅威に対して団結し、領土を防衛するための新たな軍事体制を確立した。この時期、トラキア・ローマ帝国はビザンツ帝国との間で一時的な和平を結び、イスラム王朝からの侵攻に対抗するための同盟関係が築かれた。さらに、両王朝の婚姻も頻繁に行われるようになり、この時期には両帝国の蜜月の時代を迎えることとなった。
1071年、ビザンツ帝国がセルジューク朝との戦いで壊滅的な敗北を喫した「マンツィケルトの戦い」は、東ローマ世界における大きな転換点となった。この戦いにおいてビザンツ帝国は、皇帝ロマノス4世ディオゲネスが捕虜となり、アナトリアの広大な領土を失うという壊滅的な打撃を受けた。この敗北はビザンツ帝国の弱体化を招き、トラキア・ローマ帝国にとっても重大な影響を及ぼした。 マンジケルトの戦い後、ビザンツ帝国は内戦状態に陥り、その軍事力と統治力が大幅に低下した。これにより、ビザンツ帝国のバルカン半島での支配が揺らぎ、トラキア・ローマ帝国はビザンツ帝国の混乱を利用して自らの地位を強化する機会を得ることとなる。 1070年代後半から1080年代にかけて、トラキア・ローマ帝国はビザンツ帝国からの独立性をさらに高め、バルカン半島南部での影響力を拡大した。しかし、セルジューク朝がアナトリアを支配する中で、トラキア・ローマ帝国もまた、セルジューク朝の脅威にさらされることとなる。
出典:
山川の青いやつ
Politics in the Roman Republic
最終更新:2024年12月27日 02:21