2006年10月14日(土) 20時38分-渋沢庚
「ほれ」
と声が飛んできて、雨がやんだ。
振り返った幸平の前には青い作業服を着た男が突っ立っていた。
「濡れるじゃろ?こんな雨の日に傘もなしじゃ」
傘は幸平と男の真ん中の辺りにぶら下がっていた。大きな黒い傘だった。柄の部分にきれいな木目が出ていて、その高級感が男の作業服に不釣合いだった。
「すいません」
といって、幸平は男の方による。
幸平は下校途中だった。お気に入りの自転車も制服もぐっしょり濡れている。学校を出るときは小ぶりだった雨も、何の因果か、帰りだした途端に激しくなった。濡れたカッターシャツが体にはりついてくるのが気持ち悪い。まっすぐな髪の繊維一本一本を束ねるように、水玉が頭から滴り落ちた。
自転車だ。濡れて帰るのも悪くない。走っていると、水滴が自分に向かってくるのがわかった。その水玉を集めるように自転車を走らせた。速くこげば地に水が落ちる前に追いつけるような気がした。しかし、その足取りを信号がとめた。大きな交差点というわけでもないが、無視するには交通量が多すぎた。仕方なく待っていたところに、傘が差し出されたわけである。もちろん、信号が青になればまた濡れていかないといけない。わずかの間だから傘の意味もほとんどないだろうが、好意はありがたい。幸平は軽く鼻をすすった。
「学校帰り?」
男のはいた息が白くなりやがて消えた。それは、この辺り一体の工場の煙のようだった。この街は、工場が多い。実際、今、幸平が立っている交差点をぐるりと囲むように工場が密集している。少し離れれば、きれいな住宅地もあるのだが工場の発する独特のにおいが幸平は好きだった。あえてここを通ってかよっている。何より近道だった。
「ええ。そうです。K町のH高校」
「そうなんか。いや、うちの息子も同じ学校なんじゃが。安藤一郎っていうじゃけど、知らんかのう?」
「安藤君なら知ってますよ。同じクラスです」
幸平は立ち止まってからずっと信号を見ていたが、ふとその男の方をみた。
あまり似ていないな、安藤には。
幸平はそう思ったが、方言で話しかけてくるこの男に、一応、微笑してみせた。それは、笑顔というよりも顔をゆがめたというのに近かった。
「そうか。一郎の友達か。なんならトラックで送っていってやろうか?そこの工場のなんじゃけど」
男が笑うと、黄色くそまった歯がいやに光った。
「結構です。家、この近くなんで。悪いです。お仕事中でしょ?」
幸平がそういったとき、信号が青に変わった。
「それじゃ、僕はこれで」
男はまだ何かいいたそうであったが、口をつぐんだ。
幸平は傘を見ると
「傘、ありがとうございました」
と、言葉をおいて雨の中に入っていった。
シャワーがはじける。雨が頬ではじけるのとはまた違う感触だ。
幸平は、帰ると、濡れたものを全部洗濯機に投げて、シャワーを浴びた。上から降ってくるような温水だけがシャワーではなくて、自らの体や床、バスルームのなかではじけて霧となった全てを総称してシャワーなんじゃないだろうかと幸平は思った。
雨はずいぶんせっかちに冷たい。シャワーは暖かく包み込むようだ。
蛇口をひねってとめると、脱衣所に出た。扉を開け放った瞬間にミストが脱衣所まで追いかけてきた。
体を拭き、服を着るとキッチンに向かった。
家には誰もいない。共働きの両親は昼間どころか夜もほとんど家に帰ってこなかった。
薄暗い部屋には灰色が重くのしかかっていた。
やかんに火を入れお湯を沸かしながら、インスタントコーヒーをマグカップに何杯か入れた。
お湯をそそぐと湯気が顔まで立ち上った。スプーンで二、三度かき混ぜると一口飲んで、そのまま部屋に向かった。
部屋はカーテンが閉めてあったので、さらに薄暗かった。
幸平は机にマグカップを置くと、音楽をいれ、ベッドに仰向けになった。白い天井がずいぶんと薄汚く見える。
傘がなかった。
幸平は天井を見ながら思った。
朝、下駄箱のところに置いておいたはずの傘が帰るときになって見つからなかった。
幸平は、今日のことを思い出していた。
傘がない。それは、今日だけのことではなかった。いつもなくなっていた。
幸平の視界を横切るように一匹のハエが飛んだ。
傘だけではなかった。いろんなものがなくなる。それが誰の仕業かわかっているはずだった。
ハエは耳障りな音をたてて幸平の周りを旋回した。しかし、幸平は一向に気を取られなかった。視界の中に入りさえしないのだ。
かばってくれるのは、安藤くらいのものだった。彼とはなんとなく馬が合った。
ハエは天井に止まると、じっとして動かなかった。ときおり、すばしっこい動きを見せてはまた動かなくなる。
安藤の父という男が持っていた傘は自分のものだった。ずいぶん前になくなったものだ。
ハエはついに動かなくなった。本当に、ピクリともせず、じっと天井にへばりついていた。
安藤は傘を盗んだのだろうか? それとも、間違えてもって帰っただけなのだろうか? 少なくとも、自分の唯一の味方であると思っていた安藤が敵であって欲しくない。傘がないのだ。傘がないのだ。しかし、本当にないのは友達だった。
「余計なもの見てしまったな」
ポツリとつぶやくと、目の上に手の甲を乗せた。真っ暗になった。
騙されていたのなら、騙されたままがよかった。
うつらうつらと眠くなっていく中で、ハエの遠ざかる羽音が聞こえた。
一応、「親切だけど、少々迷惑」作品です。二十分くらいの即興です。