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2006年10月16日(月) 17時17分-川口翔輔

 

 


 ええと、なんだっけ。

 「まぶたの裏だけを見た、と言った。いつか不意に感じたのは、確かに求めた楽園の光。歩み寄り、まぶたを開けて見れば、迫る夜行列車。光に包まれた世界。警笛。砕ける骨の音。潰れる肉の音。滲む世界の画。 さよならグッバイ ――――――――――― 」

 ああ、どうして、彼が幸せなだけでは、だめなのだろう。どうして、彼女が幸せなだけでは、だめなのだろう。どうして、自分でなくては、だめなのだろう。どうして、他の誰かじゃあ、だめなのだろう。
 何がそう決めるのだろう。面倒くさいな。

 それでも、
 最高な世界に行きたいな。



                              *

 その当時、つまり、僕がまだ、世界の中心に立っていて、しかし惜しいことには、そこが世界の中心であると知らないでいた、そんな時分、僕は、「たたいてかぶってじゃんけんぽん」が凄まじく強かった。その強さといったら、まさに「無敵」と銘打って恥ずかしからぬもの、と自分では思っている。事実、校内はもとより、市内のどこにも僕を破る者はなく、一目置くに足りる程の者もなく、それどころか、僕が握ったピコハンから自身を一度でも防ぎきることさえ、成し遂げる者はなかった。
 この特技のほかは、すべて、どうしても「普通」の域を脱し得ない僕にとって、この「たたいてかぶってじゃんけんぽん」が強いことは、確かに心の支えであり続けた。これがあったから、僕はやってこられた。他の誰にも負けないものを持っているという自負が、僕を支え、僕を生かした。こう言っても、まず言い過ぎにはなるまいと思う。
 ただ、そのことで、僕が女の子から好意、あるいは敬意を寄せられたりすることはまったくなかったし、女の子に限らず、周囲の人間からの評価を受けることも、まるでなかった。この「たたいてかぶってじゃんけんぽん」の力が実益を生むことはまるでなかったのである。僕はまだ自分の力の限界を見たことがなかったが、少なくとも市内では最強であるわけだから、せめて、例えば「降り注ぐ紅き閃光」とか、「悪魔の宿る手の男」とか、そんなかっこいい異名をつけてくれたっていいものだと思っていた。しかしこの願いも、世界の中心で果たされはしない。僕は、これに不服だった。そしてさらに、負け惜しみでもなんでもなく、客観的に見て、大したことのない人間が、その性質においてただ出たがりであるということだけで、この世界の中心に分不相応の地位を勝ち得ていることが、そうして勝ち得た地位に自分はふさわしいのだと自身を過信して笑う彼らが、そんな彼ら同士で、互いの見る幻想を引き立てようとも、まず破らないよう、できあがった暗黙の境界線上で交わされる言葉が、………不快だった。彼らが、それで当たり前といったような顔をしていることが不服だった。ある一点において、確実に、しかも遥かに、彼らよりも優れている自分が、どうしてこうなのか、僕は理不尽に思った。
 世界の中心にも、やはり他の地と同様に不快なことは多かったが、僕はよく笑った。ただし、目的語を伴って僕は笑った。僕は笑っていたのである。指差した先、思い上がった、自分以外の誰かを、そしてまた、そうやっていつも渦の外にしかいられない自分自身をも。
 僕は笑った。

 なんだかこんな風でいたというと、僕は友達がまるでいないみたいだけど、実際はそうでもない。僕のまわりには斉藤と仲神と白井という奴らがいた。斉藤とも仲神とも白井とも、それほど仲が良いというわけではないにせよ、確かに付き合いがあった。いつも一緒にいるというのも違うが、「うん」とか「いや」の応答だけで終わらない、十分まともな会話は成り立てられた。会話が云々というよりむしろ、ぼんやりと輪郭のはっきりしない、善し悪しさえも判然としない何かが、双方向的に、無言でいる僕らの間に流れ合っているような感じだったというのが正確かもしれない。
 ただ、はっきり言って僕はその三人のうちの白井が嫌いだった。具体的に、僕が白井のどこを、どのようなところを嫌っているのか、自分でも判然としない。ただなんとなく嫌いである。この形容が、最も正確に僕の感情を表しているし、実際、白井という人間を一言に表現するにもすぐれて相応しいと思う。そして一方、どうやら彼のほうでも僕を嫌っているようで、そのために、互いに向き合って口を開けばまず喧嘩になった。まったく華のない喧嘩になった。得るところのない喧嘩になった。だらだらと切れの悪い喧嘩になった。それでもどうしてか、僕は彼らの中でも白井と一緒にいる時間が最も長かった。不思議である。断っておくが、決して一緒にいたいわけではない。ただ、おそらく、僕らは互いに、一緒にいてやってもいい、というところまでは譲歩し合っていたのだろう。
 僕の住む家からは白井の家までほとんど距離がなかったので、僕は時々、事前に連絡も約束もなしに、勝手に白井の部屋にあがった。僕が来ても白井は「おう」とか「よう」しか言わない。だから僕も「おう」とか「よう」とか「ふん」しか言わない。何も言わないこともある。お互いに、余計な口をきくと面倒なことになることを知っているから、僕らは二人でいると自然と無口になり、無愛想になる。そうすることで、ぎりぎりの状態ではあっても、なんとかそれほど険悪でない関係を維持することができるのだ。
 白井の部屋に上がると、ここに主の白井さえいなかったら、例えばこれが白井のでなく僕の部屋だったなら、なかなかいい部屋だと、僕はいつも思った。二つある窓が両方とも小さいせいで日中でも薄暗いし、風通しが悪くて夏は暑いし、それほど広くもないのだけれど、安物のアコースティックギターがあり、オーディオはけっこう上等のものが置いてある。その上、白井の部屋は離れで、それだけでひとつの棟をなし、隣家からも遠い。だから、二つの小さい窓さえ締め切ってしまえば家族にも近所の人にも気兼ねがいらず、大音量で音楽を聴くことができた。
 僕は白井の部屋の床にごろんと寝転がって、持ってきた自分のCDや白井のCDを大音量でかけた。僕らはそれを黙って聴いた。ひどい台風の日は必ずこうすることが慣例である。豪雨の中をやっとの思いで道を辿り、僕がびしょびしょになって部屋に入ってきても、白井は相変わらず「おう」とか「よう」しか言わず、タオルはおろか、熱いコーヒーも出してくれない。僕はそのせいで一度風邪を引いてしまった。白井は気が利かない。もしかしたら、故意にそうしているのかもしれないと疑うほどに、気が利かない。それでも必ず台風の日には白井の部屋に行った。外の豪雨と暴風を感じながら、オーディオのヴォリュームつまみを目一杯に回して聴くグラムロックは、いつも最高だった。こういう慣習のために、僕は台風というものにそれほど嫌悪の念を持っていない。もちろん、自分の身に実害が及ぶような台風は、また別である。
 僕はたいていロックを聴き、時にはクラシックミュージックやフュージョンジャズやポップソングを聴いたが、白井の音楽の趣味は広かった。ロック、ブルースの類はもちろん、演歌、歌謡曲、民謡、軍歌、クラシック、シャンソン、ジャズ、ラップソング、ヒップホップ、ラテンアメリカンミュージック、トランスミュージック、へヴィメタル、カントリー、ボサノヴァ、ニューウェーヴ、テクノ、ソウル、ゴスペル、ハウスにまで手を出していた。僕が、嫌いな白井の部屋に通ったのも、ひとつにはきっとこういった音楽にいつでも触れることができたからだろう。
 白井はやっぱり音楽が好きみたいだったけど、僕は白井が部屋に置いてあるギターを弾くところを見たことがなかった。時々、弦が張り替えられているのに気付いて、ちょっとそれについて聞いてみようかと思うこともあったが、いつも面倒でやめた。これくらいの、つまらない話題でも、誤れば、僕らの関係は険悪になってしまうものなのだ。そうなってしまうと、実に面倒である。触らぬ神に祟りなし、である。それに、僕は白井の演奏なんかよりリッチー・ブラックモアや山崎まさよしの演奏が聴きたかったのだ。

 白井とも、斉藤とも、じつは付き合いが長い。だから、あいつらは、僕の「たたいてかぶってじゃんけんぽん」がものすごく強いことを知っている。知っている、といっても、正確には僕が彼らにそう言ったというだけのことだ。彼らがそれを覚えているかどうかだってわからないし、もう確かめるにも億劫である。ただ、二人とも評価はしてくれない。もしかしたら評価してくれているのかもしれないと疑うこともあるが、その節は実際に読み取れない。たぶん、白井も斉藤も、他と同じなのだろう、と、そう自分をひとまず落ち着かせる。過度の期待は余った分だけ自身を傷める刃になる。僕はそれを知っている。
 仲神とは、まだ付き合って半年ほどだったが、一番僕と気があった。というか、僕は心中でこっそりと彼を尊敬していた。特になにかができる奴ではなかったし、人間的にどこか突出した美点もみられない。今、振り返ってみても、どうしてかわからないが、確かに僕は彼を尊敬していたし、今でもそうだ。しかし、そんな彼に、僕は自分の「たたいてかぶってじゃんけんぽん」の力を最後まで言わなかった。僕は、彼と付き合うようになった頃から、評価されない不満に波立つ心を鎮めようとして、新しく諦めというものを身に付け始めていたのだ。世界の中心では、様々の能力を、比較的、身に付けやすい。僕は、この諦めのために、以来、自分の能力を口外しなくなっていった。

 さて、僕が一度もかっこいい異名で呼ばれることなく、周囲への不服と、身に付き始めた諦めの心を引きずって、知らず、いよいよ世界の中心を退こうという折、僕はあの第一次宗教戦争の勃発を聞く。世界の中心から、遥か彼方の土地である。
 僕は迷っている。きっと、一年前だったなら、自分の立つそこが世界の中心であると知っていたとしても、なんらの迷いなく、遠く戦火にこの身を投じたろう。しかし今は違う。この一年で、僕は心の安定を求めるあまり、諦めることを身に付け始めていた。これが、本来なら沸き立とうという僕の心に差し水となって、ここに迷いを生ずる。巡ってきた好機を掴み取ろうという意気を鈍らせる。仲神に相談してみようかとも思ったが、結局、思いとどまる。相談するには、どうしても「たたいてかぶってじゃんけんぽん」についても語らなくてはならない。僕はこれについてを仲神に明かすことが、もはや嫌だと思うにまでなっていたのだ。とりあえず、何事も一人で悩んでからのことだ、と僕は決断を下す。優柔不断的決断である。進歩も見なければ後退も見ない。ただ時間を浪費するための決断である。

 しかしそうして一人で悩むうち、本来求める決断の下されないままで、とうとう卒業式の前日にまでなってしまう。心象に、あの報せを聞いてから何の変化もきたさない。自分で呆れるほどに、思考は停滞を保持し続ける。継続は力なりとも言うが、どんな類の「力」も沸いてこようという気配が全然ない。それでもあえて言うなら、嘆息力が湧く。僕に嘆息をつかさしむるだけの力である。
 この日、心中渦巻く優柔と果断の混沌もとりあえず、僕は夕方からまた白井の部屋に行く。今回は、しかし、僕だけでなく、仲神も斉藤も集まることになっていた。仲神の企画した会合である。斉藤がこれに、たしか『馬のはなむけ進水式』と名付けた。でも誰もそう呼ばなかった。
会合、といっても、特に何かの反省をしたり、互いに夢を語り合ったりするというでもなく、ただ僕らは、4人では狭い白井の部屋に各々転がって、ツェッペリンやストーンズや美輪明宏やキッスやディープパープルやコーネリアスを聴き、持ち寄ったポテトチップスやなんかを口に入れたまま、何でもないことを話しては汚く笑うばかりの小会である。僕らは、仲神が持ってきた発泡酒をそれぞれに飲んだが、僕はちょっと口を付けただけでやめた。斉藤も白井もちびちび、というくらいである。ただ一人、仲神は酒が強い。顔色ひとつ変えずに続々とアルコールを体内に流し込む。仲神の手元、口元で、見る間に空き缶が増殖する。僕も負けじと一人でダイエット・コーラを1,5リットルも飲んだ。僕も仲神も三回小便に行く。互いにゲップがたくさん出る。ゲップの音は、仲神より僕のほうが大きいことがわかる。無益な不等号を打つ。
 斉藤は、プリン20個以上と生クリーム絞りまで持ってきていた。白井に大皿を持ってこさせて、その上に次々とカップからプリンを出してピラミッド状に積み上げ、プリンが見えなくなるほどの生クリームで下手くそなデコレーションをする。斉藤は最後にその頂点にシロップ漬けのチェリーを飾りたがったが、白井の家にはこれがなくて、代わりに梅干を乗せた。完成である。斉藤は、できあがったこれを『プリンプリン王家の墓』と名付けた。でも誰もそう呼ばなかった。最初はみんなこれを面白がってプリンをつつきまわしたり、生クリームをすくって舐めたりして、斉藤も得意気でいたが、各々二、三個も食べるとすっかり飽きが来て、残ったプリンは、結局、持ち込み主の斉藤が責任を持って食べることになってしまった。斉藤は仕方なく、まだ大半の残る、字の如く山と積まれたプリンを食べ進めていく。
 「生クリームがキツい。生クリームがキツい」
 そう繰り返す斉藤に、仲神が笑いながら発泡酒を勧める。
 「アルコールで食欲でるから」
 斉藤は言われたとおり、アルコールの助けも借りつつプリンを食べる。
 「生クリームかけ過ぎなんだよ」
 そう言って白井が笑う。嫌な奴だ。僕はさすがに斉藤がかわいそうになって、ちょっと手伝ってやろうと思い、頂点の梅干を食べてあげた。手伝おうという意気込みはあれど、僕だってもうプリンは食べたくなかったのだ。ただ、あんまりおいしい梅干ではなかった。
 斉藤は、一口ごとに「生クリームがキツい」とぼやき続けながらも、アルコールの力も借り、僕が梅干を代行して食べたこともあって、ついについにプリンの山を食べ尽くしてしまった。見事である。ただ、完食した後は、プリンを詰め込んで一回り大きくなった腹を抱えて白井のベッドを借りて横たわり、そのままうんうん唸るばかりになってしまった。苦しみ喘ぎながら斉藤は、やっと絞り出したような声音で言った。
 「プリンプリン王家の崇りだ」
 仲神が斉藤の額に浮かぶ脂汗をタオルで拭った。
 「王家の崇りだ」
 と僕は真剣な顔で言った。
 「ああ、間違いない」
 そう白井が深刻そうに応じる。
 「きっとそうだ」
 仲神も怯えたように肯く。
 そして、4人とも、ふふふと笑った。

 斉藤が白井のベッドで崇りに苦しんでいる間、仲神が置いてあった安物のアコースティックギターを手に取り、『夜明けのスキャット』と『おおシャンゼリゼ』を弾き語りした。その後を受けて今度は白井が『月の沙漠』をやった。白井がギターを演奏するのを見るのは初めてだった。僕はまた、白井を嫌な奴だと思った。僕は何も弾かなかった。
 白井と二人きりだと、僕らは無口になったが、仲神がいれば、そうでもなくなった。仲神ありきのこの4人だったし、僕は仲神がいれば大抵のことはうまく巡るんじゃないかと思っていた。仲神が間にいれば、僕は白井とだって普通に会話ができたのだ。仲神は円滑油みたいに機能する一面を持つ。いったい、仲神のなにが、こんな風にさせるのか、僕にはわからなかった。
 会合の後半は斉藤抜きのまま、僕と仲神と白井だけで話した。この間に、斉藤は4回もトイレへと走った。戻ってくるたびに、斉藤は少しずつ痩せていった。僕らはそれを見て笑った。斉藤は恥ずかしそうに繰り返した。
 「王家の崇りだよ。あんな風に墓を荒らしたから」
 でも誰も信じなかった。

 午前0時をまわって、僕らはもそもそと部屋の片付けと帰り支度を始めた。翌日は卒業式だから、そんなに無茶はできない。てきとうに帰り、てきとうに眠り、てきとうに起きて、てきとうに卒業するために、この会の幕を引かねばならない。斉藤も、もう動けるようになったから、片づけを手伝わせた。白井は、いつのまにか千鳥足で、使い物にならなくなっていた。僕はますます白井を嫌いになった。
 片付けをしながら、仲神が「一応、」と口火を切った。脇で、斉藤が重ねて積み上げた空のプリンカップの塔の前に正座して手を合わせている。慰霊のつもりだろう。仲神が言った。
 「一応、言っとこうと思って、おれ、自衛隊に入るから。斉藤は?」
 ジエイタイ、と僕はその言葉の意味が一瞬にはわからない。仲神に話をふられた斉藤は、手をすり合わせたまま答える。
 「ああ、これ、『プリンプリン王家の慰霊碑』。どう?」
 仲神の表情は動かない。
 「ちがう。卒業してからのことだ」
 「あ、ああ、進学。進学するよ」
 斉藤はくじけない。僕は自衛隊だと気付く。シンガクはすぐに進学だとわかる。
 「そうか」
 そう言って仲神は僕の方に向き直った。自衛隊。進学。
 「それと、あいつも自衛隊に入るってさ」
 仲神は視線だけベッドのほうへやった。さっきまで斉藤が苦しんでいたベッドで、白井が酔い潰れている。何が面白いのか、時々体がびくっとしてうふうふ笑う。むかつく野郎だと僕は思った。自衛隊。進学。自衛隊。僕の知らぬ間に、仲神も斉藤も白井も、これからを見据えていたのだ。僕が本来求める類の決断を、彼らはすでに下していたのだ。
 「で、お前は」
 そう仲神は僕に問う。僕はとっさに「進学」と洩らしてしまう。その後で慌てて「一応」と継ぐ。仲神や斉藤や白井のように、僕もまた例外なく猶予期間を使い果たしつつあって、今いる所よりもっと向こう側を見るべき時に立っていたのだった。このことを、忘れていたわけではないのに、どうしてこうも驚いたのか、わからない。しかし、依然僕の迷いは消えていなかった。沸き立とうという心も健在ならば、差し水であり続ける諦めも健在だったのだ。それなのに僕は、どうしてか仲神の問いに「進学」と応じた。いずれにせよ、一寸先は闇である。たしかにその点では等しい二つの選択肢も、他人の心に起こす波紋の大きさは平等ではないのだ。
 「ふうん、そうなのか」
 仲神はそう言って白井に布団をかけた。白井はなんだかくすぐったそうだった。僕は今こそ仲神に、遥か彼方の土地へ行ってしまおうか迷っているということを打ち明けてしまおうかと思ったが、やはり思いとどまった。なんだかそれは、自分以外の誰にも、まして仲神には、相談してはいけないことのように思えたのだ。それに、そうしたところで一体どうなる。僕は仲神から視線を逸らし、そこで目に付いた『プリンプリン王家の慰霊碑』を崩した。斉藤が溜め息交じりの悲鳴をあげた。白井がそれを見て笑った。

 白井の家から距離のある仲神と斉藤は僕より少し早く帰ることになる。
 「じゃあ明日」
 と仲神が言った。斉藤はもう眠そうな顔をしている。朝型人間なのだ。
 「ああ」
 と僕は軽く手を振った。
 完全に眠ってしまった白井を尻目に、僕は最後に少し残った片付けを済ませながら、ついさっき帰って行った仲神と斉藤を思った。仲神は「明日」と言った。明日。もし出発するなら、僕がここにいられるのも明日までだろう。僕の迷いはまだ死んでいない。時刻は、もうすぐ午前1時になろうとしていた。けっこう時間がかかったものだ。僕はふうと息をつき、床に投げっぱなしのコートを取り、床の埃で白くなったところをはたいて袖を通した。ごわつくコートを体に馴染ませるように上体を左右に軽く捻ってみる。仲神の言った、「じゃあ明日」を何度か心中に呼び起こす。仲神はきっと明日も僕に会うものと信じて疑わない。それは、知らないからである。なぜ知らないか。それは、僕が言わないからである。なぜ言わないか。それは、とまで考えて、僕は鼻をすすった。
 それを本当に信じることと、それを知らないこと。似ていることと、違うこと。
 また鼻をすする。鼻詰まりは、思考をも窒息させる力を持っているような気がした。
 明日、どうなるものだろう。これを、僕はまだ知らない。ただ、万事が己次第とは、知っている。そのはずである。知っているつもりである。また、ふうと息をつく。どうやら嘆息力はいまだ健在らしい。困ったものだ。僕は眠る白井にちらと視線をやり、ティッシュで一度鼻をかみ、丸めたそれをせっかく掃除した床にぽいと捨て、蛍光灯を消して、靴を履き、素早く外に出た。
 見上げれば、月は明るい。春先といっても、午前1時ともなれば寒い。鼻の奥がツンとなる。風がひょうと鳴る。僕は思わず寒さに目を細め、舌打ちをして歩き出した。知らず、鼻歌は『月の砂漠』で、気付いた僕はまた舌打ちをする。鼻をすすり、寒い指をたたんだままに手をコートのポケットに突っ込む。すると、左のポケットになにかが入っているようである。僕がそれを取り出すと、B5サイズくらいの紙が四つ折にしてある。開いてみると、風にあおられたその紙はがさがさとうるさく鳴った。暴れる紙を制し、月明かりを頼りに見てみると、どうやら仲神の字である。たぶん。


 GET IT BY YOUR HANDS ! ! ! !


 それだけだった。また風がひょうと吹いてがさがさと紙が暴れる。他になにかあるまいかとそれをひっくり返そうとしたときに、寒さで言うことを聞かなくなった指が紙片を掴み損ねて、あ、と言う間に風にさらわれてしまった。それを追うようにまた風がひょうと鳴る。もうどこにいったかわからない。僕はまた舌打ちをして、例の諦めを以て自分の部屋に戻ることにした。寒かったので小走りに戻った。本当は、疲れて途中から歩いた。

 部屋に戻ると、電気もつけないままで、コートも脱がずに僕はベッドに身を投げた。だんだんとフェードアウトしていくスプリングのきしみの隙間に、とくとくと心臓が鳴っていた。熱いシャワーを浴びたかったけど、これ以上動くのを面倒に思った。手探りで枕元にあったオーディオのリモコンを取り、音量を絞ってショパンの『マズルカ』をかけ、天井を見上げたまま聴くともなしに聴く。まだ鼻の奥に外の冷たい空気が居残っているみたいだ。指先もまだ寒さを覚えている。僕は体が寒さを忘れるのをじっと待つ。まぶたを閉じて、ぴくりともせず、さっきまでのことや、明日からのことをぼんやり考える。
 しばらくして、目を開けてみると、ベッドの脇の窓から月が見える。直視するには眩しいくらいだ。速くて薄い雲が、いくつも月をかすめては去っていく。月光は鈍っても、完全に遮られはしない。流れる雲が窓枠の外に見えなくなるまでをいちいち目で追ってみる。冬を過ぎても、まだ僕は見る月を、冴ゆ、と形容したい。静かだった。『マズルカ』は終わり、かすかに風の音を聞く。そうしながら、僕はただ心中であの言葉を繰り返す。

 GET IT BY YOUR HANDS ! ! ! !
 GET IT BY YOUR HANDS ! ! ! !
 GET IT BY YOUR HANDS ! ! ! !
 GET IT BY YOUR HANDS ! ! ! !

 …………

 僕は大きく溜め息をついた。仕方ないのだ、やはり。

 「オーケー・レッツゴー」

 立ち上がると、頭が少しふらふらした。大丈夫。行こう。身を投じるのだ。遥か彼方の土地。そこな踊る戦火へ。
 夜が明ける前に、僕は街を出た。
 道すがら、振り返ると、ぼんやりと朝霧の向こうに世界の中心が見えた。僕はこのとき初めて、そこが確かに世界の中心だったと悟る。ああ、あそこがそうだったのだと僕は思う。そこには、仲神がいて、斉藤がいて、あと、白井やなんかがいるのだ。あそこ以外には、絶対にあるはずのないものがあるのだ。僕は、ふふふと笑った。仲神は、知っていたのかもしれない。もしかしたら、斉藤も、白井も。世界の中心から、旅立つ身には、ただ使い古しのピコハンを携帯するばかりである。いずれ幕を切るであろう、今日の日の卒業式を思いながら、僕の足は世界の中心から遥か彼方の土地へと向く。ばかみたいだと僕は思う。僕は、それが、世界の中心であると知りながら、それと知りながら、それでもあえて背を向けようというのだ。

 「オーケー・レッツゴー」

 僕は他人ではない。僕がやることは、僕がやるしかないんだった。似てる誰かじゃだめなんだった。代弁してもらおうなんて、思わない。
 ただ、そこは、世界の中心ではない。
 また、ふふふと笑う。
 みんなさよなら。
 みんなさよなら!
 体が粉々になりそうな声で、そう叫んだ。心の中で。
 また、笑い、あとはただ、遥か彼方の土地、その戦火を思い、僕はもう振り返らない。





 → O.K. LET’S GO ! !

 遥か彼方の土地、そこではすでに戦火は広がりきっていて、戦局もほぼ完全な二極化をみていた。どちら側の陣営でも志願兵の募集をふれ回っていたし、それぞれの神に誓いを立てさえすれば、それだけで信者として兵士として、受け入れられてしまう。要するに、ただ右に倣えばよかったのだ。だから、兵士として戦場に赴くくらいは容易い。
 僕はただ「たたいてかぶってじゃんけんぽん」の力を活かすべくやってきたばかりである。それに、神がどうとか、教義がどうとか、そういうことに興味もない。ただ、この土地では、世界の中心とは違い、僕は活かされる。それだけが重要だったし、それだけを信じていたのだ。だから、いがみ合う二つの神の、どちらに味方してもかまわなかったし、どちらが敵になってもかまわない。どちらに祝福されようと、どちらに裁きを下されようと、知らない。
僕は最初に見つけた教会に入った。羽の生えたカタツムリみたいなエンブレムの旗が立っていた。そこの坊主に掛け合い、志願兵として教団の軍部に入るべく、言われた通りの誓いを立てた。感じの悪い偉ぶった坊主にその神の名前も教わったが、すぐに忘れてしまった。たしか、むかし死んだプロレスラーみたいな名前だったように思う。名前がないと不便なので、便宜上ここではひとまずこの神を「R」と呼んでしまおう。とにかく、僕は「R」側につくことになったのだ。
 続く手続きに、出身地を問われたが、答えた僕の出身地を誰も知らなかった。偉ぶった坊主がそれはどこかと重ねて問うものだから、ずっと遠くだと僕は言った。それ以上は必要ないと思った。
 拙速を尊ぶのか、ただ粗相なのか、知らないが、教団の命で、僕を含めた志願兵数十名は入軍当日に直接前線へと発つ強行軍に組み入れられた。思っていたより早い。ろくな訓練も、説明もなく、兵仗の類の配給もなく、ただ、走れ、戦え、と、それだけだ。しかし、まったく望む所だった。
 行軍中に聞き耳を立てると、どうやら予定戦場は、ヒタとかいう盆地で、翌朝までには到着するらしい。夜をおしてまで僕らは進むようだ。同軍の兵卒の数はさやかには知れないが、おそらく五千、六千程度ではないかという風である。ただ、僕は自分の目算に信頼をおいていない。そんな中にあって、多く発せられる、定かには聞き取れない声と、足音が、時折、妙な不協和音を奏でているように聞こえる。無色透明のゼリーのような空気を介して僕の元へ届く音は、言葉の角を置き去りに、抑揚ばかりを浮き上がらせて、代わる代わるに響く。
 日が落ちきると、視力が弱まり、代わって不協和音の感はいよいよ強まる。不快になって、僕は聞き耳を立てるのを止める。小走りに駆けながら、見上げると、やはり空に月を見る。朗徹を感じる夜空である。星を見ず、雲を見ず、夜はいっとう、遠く、深く、濃い。そこに、ただ月ばかりが清かに懸かる。僕は不協和音を忘れる。夜や、月や、空や、世界が、それぞれに調和しているのを見るのではなくて、ただ、あるかさえ定かでないそれらに、僕の方でいささか勝手に調和して、あるように見るのだと、なんとなく思う。僕なんかでも、この出来上がった夜のハーモニーに参与しているみたいだ。奏者として、聴者として、あるいは、ただひとり道化に踊るように、僕は世界の諧和に遊ぶ。その世界も、非我より、僕の六穴に合うよう、ダイジェストして、取り込み、リクリエイションしたものである。月は、あの夜、世界の中心に見たものと違いない。少し太ったそれに、また知らず、『月の沙漠』を口ずさもうとして、はっとする。ほぼ同時に、僕は後ろの男においと言われて背中を小突かれた。どうやら、思ううち、いつの間にか歩を緩めていたようである。そしてそこで僕は、この身が低く渦巻くディスコードの中にあることを思い出す。僕はなんだか可笑しくなって、ふふふと笑う。後ろの男が、またおいと背中を小突いた。

 どうやら予定通りに目的地に着くことを得たようで、まだ夜の気が地平を支配するうち、僕らは至る山腹に宿営を構えるよう言い付かる。盆地とは聞いたが、実際に見下ろしてみると盆地というには狭いようである。確かに、四方を山に囲まれた土地ではあるが、平地の区域が小さい。何かの加減で、水溜りにでもなってしまいそうである。そんな盆地を挟んで、向かいの山腹に、ちろちろと篝火の揺れるを見る。ごわつく多角形のフェルトの端へ、支柱になる枯木の突端をくくる、フリをしながら、横目に僕は、たぶん、あれがそうなのだろうと思う。
 知らぬ間に組み上がっていたテントに、周囲がいそいそと潜り込んでいく。僕は盆地の向こう側に遣ってばかりだった注意を戻す。山を下るのは夜明け過ぎになるらしい。それまではまだある。少しは休めそうである。僕もけっこう疲れていた。腰をかがめて、近くのテントに首だけくぐらせてみる。すると、すぐに暗闇から、他をあたれと声がする。仕方なしに首を引っ込めて次へあたる。もうたくさんだ、とまた同様の声を聞く。次へあたる。そこでもやはり首より他の身躯はテントの内へ入るを得ない。これをまた繰り返す。どうにも、首だけはなんとか入る。だが後が続かない。しかも、首だけをテント内の宙空に保って眠るは、果たせようという気を起こさない。首ばかりが雨露を避け得るを身躯の方で承服しかねる。この身躯をまた頭脳を以て承服さしむるは困難である。仮に果たせようにも、まず訓練がいる。訓練するには相応の時間が要る。そうする内には夜が明ける。それでは本末転倒である。こういう経緯を辿り、僕はついにテントを諦める。気付けば、同様にテントからあぶれた者たちが何箇所かにかたまって暖をとっている。なんだかそれは、焚火や篝火に照らし出されて、なにかの儀式のための供物のようにも見える。供物は時々もぞもぞと動く。びくっとするものもある。僕はあの夜の白井を思い出して、舌打ちをした。
 少し歩こうと思った。白井のことを思い出してしまったばっかりに、仲神や斉藤のことが自然にもくもくと続いて思われる。それが立ち込める陰雲のように脳天にのしかかって離れない。あるいは、僕はこれを振り切って、置き去りにしようとして歩くのだ。しかしやがて、この消極の心象は変化を見る。彼らを思うことが、なんら害になることではないと気付く。そう思う。何を恐れることがあろう。最後には、より積極的に彼らを思い、そうしながら歩くようになる。実際に、僕は彼らを世界の中心に置き去りにしてきてしまったことになるのだが、それは仕方ないのだ。仲神も、斉藤も、白井も、どこかで知っていたはずなのだ。今になり、僕はそう信じる。あの夜は、ともすれば、仲神だけの企画でなかったのかもしれないとさえ思うに至る。仲神はいつもの通りだった。斉藤もいつもの通りだった。白井は、僕の前で初めてギターを弾いた。三人とも、僕が世界の中心を発った朝に、卒業式に出たのだろう。そして、仲神と白井は自衛隊へ入隊する。仲神はともかく、白井は、すぐに音をあげてしまいそうな気がする。白井は、きっとそうだろう。しかし仲神が一緒なら、全然平気だ。どうせなんとかなってしまうのだろう。斉藤は大学へ進学する。斉藤は、どこへ行ってもうまくやるだろう。きっと、友人も多く持つようになる。また仲神の企画で、あの夜のようなことをするかもしれない。プリンプリン王家の墓がまた増えるかもしれない。回を重ねれば、ついに王家の谷までができあがるかもしれない。白井はまた『月の沙漠』を歌っているかもしれない。あるいは、もっと別のレパートリーを習得しているかもしれない。仲神はもっと酒が強くなっているかもしれない。焼酎なんかに入れ込んでいるかもしれない。仲神なら、自衛隊内での昇進はきっと早いだろう。すると、早くに結婚するということも、ありうるかもしれない。斉藤もあれで早いかもしれない。白井はどうせ無理だろう。絶対だ。
 思いは後を絶たず、湧いてくる。ただ、思うどの場面にも、もう僕はいない。いられない。僕が立つところは、他ならぬこの場所なのだ。仕方ないのだ。

 僕は結局、眠らないことにした。部隊の先頭に、目下に盆地を、そして真向かいに明日の敵を臨み、木の幹を背に座り、さらに背後に供物、月は視界の外、右手に山際の紫を見る。リクリエイションの世界。静かな夜になった。スーパーカーを聴きたいと思ったが、叶わないと諦める。双脚を斜面へ投げ出し、双腕を胸に組む。おそらく窪んでいるであろう、双眸には、小さく、ぼやけた篝火がちろちろと踊る。幹に頭を預ける。丸い幹に、丸い頭であるから、すこぶる安定を欠く。それでもなんとか具合よく頭の収まる点を探し出してしまうと、しかし、先刻眠らぬと決めながら、やはり疲れている僕は、すぐにうつらうつらとし始める。決心を反故にしようも、自分の懐裡の内に芽生えたものを外に出ぬままに自分の手で摘み取ったまでである。人目がなければ気は安い。僕は恥も罪も置き去りに、遠路の所労に身を委ねる。ただ愁眠に対するは、漁火ではない。

 ボラか、本当に、ボラか、と問いただす声を、背後に聞く。気付けば夜は、右手の山際から白む朝に圧倒されつつある。朝露に衣服は湿っている。そこへ風が轟と鳴る。凛々と寒く、激しい。僕は反射的に身震いして肩をすくめる。臨む山腹に目をやると、すでに火は見えず、幾筋もの白煙が、夜と朝の境を引くように上るばかりである。眠っていたような、起きていたような、自分でもよくわからない。どれくらいこうしていたのだろうか。背後はにわかに騒がしくなる。ボラだ、ボラだ、と話題はそればかりのようである。腰元に括ったピコハンを探る。確かにある。上体を起こすと、尻も、背中も、幹に接していた後頭部も、痛い。息を止めるようにして、一度伸びをすると、背筋に新鮮な血が勢いよく巡るような気がする。立ち上がってみると、両ひざもきしむように痛みを訴える。しかしこれも、二、三回の屈伸にひとまずの主張を見合わせてくれる。
 始まる今日の空気を、唸る風から盗むように吸い込み、たっぷりと肺に浸して、吐き出す。寒い。風は、こちらの斜面の真向かいから吹き上がってくるようである。妙な感じの風だ。湿った衣服を着てこんな風に吹き付けられるとたまらない。顔を撫で、鼻をすすり、また腕を組んで、寒さに身を縮め、僕は少し歩くことにする。テントや、焚き火、篝火の跡を縫うように、斜面を登る。足は、昨日の行軍を思い出すようにとんとんと前に出る。そうしながら聞こえるのはやはり、ボラだ、ボラだ、と言う声ばかりである。この風よ、この風よ、と言う声も、僅かに聞く。その、ボラというのが何のことかわからない僕は、歩みを緩め、朝の気に聞き耳を立てる。轟、轟と鳴る風の隙間から、断片的に手に入る情報を繋ぎ合わせてみる。それによると、どうやらボラとは単に、今、僕らと盆地を挟んで向かい合っている敵部隊の名称であるらしい。けっこう名の通った逞兵らしく、戻った哨兵からの報せにそれと知り、軍人がみんなして浮き足立って騒いでいるばかりだった。なんだ、と僕は拍子抜けする。僕は歩調を戻す。開戦はもうじきだろうと思う。
 ある程度、斜面を登ってしまうと、テントも人影も見なくなる。ただ、宿営のはずれ、一番高いところに、あの羽の生えたカタツムリの旗が不本意そうに立てられていた。カタツムリは、風に煽られてバタバタと飛んで行きたがっているようである。その度に、大地とカタツムリを繋ぐ旗の柄が、みしみしといってこれを制す。何を思ってカタツムリに羽なんてくっ付けてしまったものだろう。それだけならまだいい。そうして羽を与えておいて、しかし飛んでいかぬよう、大地に縛りつけてある。勝手である。僕は滑稽に思って、周囲を見渡し、人影のないことを確認する。誰もいない。僕は寒い風を背に受けて、旗の根元に立小便をした。黄色い放物線が、吹く風に散り、冷たく輝く。
 小便を済まし、寒さに鼻をすすり、また旗を見上げてみる。彼は相変わらず飛び立とうとバタバタ足掻いている。健気にも見えれば、醜くもある。
 彼に翼を与える者がある。彼は与えられた翼に、本当に飛べるかさえ清かに知らず、ただ闇雲に羽ばたく。それを無益と阻む者がある。これを尊しとして拝む者さえある。仕方ないな、と思った。与えられた翼。でも仕方ないのだ。僕はピコハンを握る。小便の後だったから、手を洗ってからにしたかったけど、まあいい。

 GET IT BY YOUR HANDS ! ! ! !

 こればかり、耳の底で玲々と鳴る。耳の外では風が轟と鳴る。結局は、仕方ないのだ。僕は旗を折った。本当に飛べるものなら飛べる。僕は、なんだろう、何者かな。
 振り返れば、音に気付いた者たちがやってきて、折れた旗を見て云々と喚いている。悲鳴のような声を上げる者もある。「R」へ祈る者もある。軍旗が折れてしまうことは、やはり不吉とされているらしい。悪いことをしたか、と僕は一瞬間に後悔の念を抱くも、やはり仕方ないのだと思い直す。仕方ないのだ。
 「今の突風で折れた」
 そう僕が言うと、彼らはまた、ボラだ、ボラだと繰り返す。僕はもうあのカタツムリがどうなったか知らない。たぶん、彼らは旗を立て直そうとするのだろう。再び彼らの手にかかろうものなら、あのカタツムリも、所詮それまでということだ。彼が、そこらの樹枝に醜く引っかかっていようとも、あるいはどれだけ高く、速く、遠くへ飛べようとも、僕は知らない。そんなことより、僕の意を引くものこそは、そこから不意に見た盆地の向こう側の山腹である。僕は気付いたのだ。

 たしかに、動いている。最初は気付くのがやっという速度が、やがて雪崩のように押してくる。やってくる。大地が唸り出す。いよいよである。

 O.K ! ! LET’S GO ! !

 自陣にもけたたましい号令がかかる。僕はとうに駆け出している。後ろで軍鼓が鳴る。あいかわらず風が轟と鳴る。山腹を全速力に下る僕に対して吹き上がってくる風は激しい。固体的な圧力を以て僕に当たる。この風に、体を斜めに預けて、さらに駆ける。体が軽くなる。回転する脚に、地面を捉える感覚が乏しくなる。走る衝撃を感じない。血が熱い。目に涙が溜まる。世界は輪郭を糢糊とする。ただ一度の瞬きに涙は散る。世界は輪郭を取り戻す。しかしそこにももはや、だんだんと大きくなる雪崩の他は、後方へと流れて消える線しか見ない。また駆ける。腕はもげそうである。耳は千切れそうである。その上で、さらに体を風に捨てる。脚は、より感覚を失い、空転しているようでさえある。風が、大気が、懐に溜まる。とめどなく蓄えられていく。あるところで重力は、足枷でなくなる。重力は、ただ速力になる。頭は冷たく白くなる。飛ぶように飛ぶように走る。

 飛ぶように走る。加速、また加速。血はますます熱い。握るピコハンにまでも脈の通ずるようである。さなか、はや目前に槍床は迫る。
 千の刃は朝日に輝く。耳は玲々と鳴り止まぬ。

 踊る身は猛る群刃へ ――――――――――――――――――

 
 悲鳴を聞く。神など知らぬ。散れよ、砕けよ。
 世界の中心にないものが、ここにはある。






                HERE THE HIGH WIND YOU WANT ! ! ! !
                      JUST SURF ON ! ! ! !
                 GET IT BY YOUR HANDS ! ! ! ! ! ! ! ! !






最終更新:2012年12月03日 20:32