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ある秘書の覚書

2006年10月17日(火) 22時15分-渋沢庚

 

 先生は、代議士です。若くて熱血漢な人でしたが、先生の念願の法案が通ってすぐに、病に倒れてしまいました。肺ガンだそうです。気づいたときには手遅れでした。すでに腫瘍が、肺のほとんどを蝕んでおり取り除くのは不可能、仮にとれても転移の可能性が高いそうなのです。
 私は先生の秘書をやっていましたが、さすがにその話を聞いたときにはショックを隠しきれませんでした。だって、私にとっては、初めて秘書を勤めさせていただいた方だし、先生の政治理念も私の心を打ちました。その上、未熟な私を逆に励ましてくれたりして・・・。ですから、本当にショックだったんです。
 でも、先生は検査を受ける前から、うすうす病気に気づいていたようなのです。だから、無理して、自分が国会に提出した法案をなるべく早く通したのだと、思います。文字通り自分の最後の政治生命をかけて。
 それが、いけなかったとは、言いません。しかし、先生の体は着実に病魔に蝕ばまれていきました。肺ガンという病気は末期になると、恐ろしい痛みを伴ってくるのです。はじめは、お医者様が投与していたモルヒネが利いて、痛みも何とかおさまっているようでした。しかし、月を経るにつれて、そのモルヒネにも抗体ができ、なかなか痛みはおさまりません。しかも、モルヒネというクスリの性格上、多量に投与するわけにもいかないのです。
 先生は、連日連夜、苦しんだようです。それは、想像を絶する痛みのようでした。夜中に先生が発狂して、お医者様が駆けつけたことが何度かあります。そんな時、決って先生が言うのです。
 「殺してくれ」と。
 私は、先生のやつれていく姿を見るのはしのび難くて・・・。だから、幾度となく先生の体にまとわりついてる点滴やら、呼吸器やら、わけの分からない機械をすべてはずそうとしました。しかし、それは、土台、無理な話でした。私の煮え切れなさを弁解するなら、それは、先生の名誉です。先生が自分の秘書に殺害されたとなれば、先生の輝かしい業績に傷がつくのは目に見えていました。私は、ついにできませんでした。
 先生には、家族がいました。奥様は美人な方でしたが、愛情とか思いやりはないようで、別居同様の生活を送っていたようです。先生がおっしゃるには、若い頃に、ある大先生の娘さんをもらったそうで、後ろ盾を得た先生は出世しましたが、家庭は冷め切ったものだったそうです。もちろん、子供はいません。奥様が病室に顔を見せた事は一度ありましたが、手遅れだと分かると、もう、来なくなりました。
 そのただ一回のお見舞いは、お父様と来られていたのですが、適当に会話した後、病室からでると
 「もうだめね。あの人。次の相手、探さなくっちゃ」
 と言って、お父様に遊びに出るお金をせびっていました。私は、彼女たちから受けとった花束をぎゅっと握り、ゴミ箱に投げ捨てました。私は先生のことが好きだったのでした。
 ある時、幾度目か先生を楽にしてあげようとしました。すると先生は、何も知らなかったんですが、
 「私の法案が施行されるまでは、痛みもまってくれるかな」と言いました。
 先生の病状は、おもわしくはありませんでしたが、まだ、耐えられるもののようでした。もちろん、「殺してくれ」と言うくらいですから、死ぬような痛みは変わりません。ただ、ついに、完全な末期に達すると、神経を切らないといけないようになるそうなのです。その段階に到達していない分、まだ、ましでした。しかし、そうなってしまったら、もう、自分の法案が、施行された成果を見ることはできません。法律は、国会で通るだけではだめなんです。その成果を、変わっていく日本を見せてあげるのは、唯一の救いでした。
 先生は戦いました。悪徳政治家と戦い、病気と闘い、痛みに耐え抜きました。そして、法律施行の日を迎えました。先生は、この法律で多くの人を助けたことを、きっと、一番実感できたのではないかと思います。なぜなら、先生が提出した法案は、「安楽死法」。安楽死を合法とする法律でした。


 先生は、施行当日、痛みもなく安らかに亡くなられました。
最終更新:2012年12月12日 21:27