2011年07月31日(日)20時26分 - 雪緒
江戸ハ穢土ナリ―
零れるような月の蒼光を路地裏から少女は眺めていた。
凍えるような夜である。三月を迎えていくばくもたっていないにせよ、あまりにも春は遠い。手甲をはめてもむき出しのままの指が赤くかじかんで痺れている。
は・・・ぁ
吐き掛けた吐息も寒気ですぐに温もりを失った。
「早く」
無意識に呟くほど少女は急いていた。彼女は一刻以上そうして待っているのだ。いつ雪が降り出すかもしれない空の下で、小さな体と得物を抱えて愚直なまでに。
不意に。
少女の耳が捉えた音があった。それは鋼の交錯する音と荒い息遣い、剣を扱うものの気合だ。
少女の鼻が捉えた香りがあった。それは明確な血の臭気だ。
そしてそれらは急速に少女の潜む路地裏へと誘われていった。闇に慣れた目は容易に影をとらえた。まずは三人の浪士、少女は家の陰から彼らの行く手を阻むように立った。三人に動揺が走った。
「娘、何者だ」
少女はゆるりと微笑んで腰の刀を抜いた。月光に負けぬほどに青い金属の輝きは三人に向けられたまま静止した。殺気立った浪士に少女は凛とした声音を発した。
「一手ご指南いただきたい」
きれいな正眼に構え直した少女に浪士は戸惑いを隠すことができなかった。互いに目配せをし、少女の真意を探らんと刀を向けた。じり、と浪士がにじり寄る度に後ろに下がる少女の瞳には、しかし怯えなど見当たらない。壁に突き当たったところで折しも少女をまばゆいばかりの月光が照らした。
美しい少女だった。夜目にも清かに知れるつやのある黒髪が風に遊ばれて零れ、少し陰になった面差しの中で瞳だけが蒼いほど銀色に輝いている。
歳は十七程度か。か細い手の手甲が不釣り合いで、痛々しくも見えた。
「このような小娘に、指南などつまらないでしょうか」
「指南・・・貴様のような小娘ならば刀よりこちらの指南をしてみたいものだな」
なめるような目が少女に降り注がれた。やはり少女に臆する様子はない。あくまで静かに浪士たちを観察している。けれど血が高ぶった浪士たちはその異様さに気付かない。
「さっきは先に殺しちまったからな」
「愉しませてもらおうか」
「わが剣の及ばぬならば、遊女のごとき技をして愉しませましょう」
けれど、と言葉を継いだときには少女は向けられた刃を避けて斬り込んでいた。
ぱっ、と真紅の華が凍えた地面に咲き、どう、と浪士の一人が倒れた。時間にして瞬き一つ、ためらいのない切っ先は次の獲物に向けられて放たれた。斬り結び、少女は力を込めることなく離れる。
ふぅ、と息を吐いて息のある浪士を睨む。
「私はあなた方を殺せることをご理解いただきたい」
「小娘ぇぇ!」
少女と斬り結んだばかりの浪士が駆ける。少女は動かずに気合とともに放たれた一閃を軽くいなし、首筋に己の刃を叩き込んだ。顔面に飛んだ飛沫が少女の顔を赤く染めた。それを拭おうともせずに残りの浪士にゆっくりと顔を上げた。
恐怖が表情に刻まれた浪士に、少し離れた場所で少女は納刀して微笑んだ。
「初めまして、私、万寿と申します」
律儀に頭を下げて、顔の血を拭い取る。蒼い程の銀瞳は黒灰色の落ち着いた色合いになり、着物に付いた紅さえ除けば普通の町娘と相違ない。だが殺気だけは膨らみ続け、蛇に睨まれた蛙の如く浪士は縫いとめられたようにその場に立ちすくんでいる。
「先程のお言葉から大体事の次第はわかりましたので」
さく、と足を進めた。霜が降りている。
「万寿・・・まさか」
「お侍様、あなたは一体何を敵に回したとお思いですか」
左手の手甲を外して少女―万寿は手の甲を晒した。そこには雪の六片を意匠した刺青が刻まれている。
「六片の雪の花。ここから導き出される答えを知らぬわけではございませんでしょう」
万寿は微笑みを消して刀を抜いた。今度は二本、両手に長さ違いの刀が握られる。
浪士は震える己の体を叱咤して刀を向けた。既に逃げ道は失われていると、浪士には本能的に分かっていた。
それほどまでに、彼我の実力の差は歴然だった。徳川二百五十年の盤石が緩み、太平の世が乱れてきたとはいえ一人の浪士が斬った数などたかが知れている。人斬りと呼ばれる人種でない限りは。
しかし、彼女は違う。道場の型剣術にはまらぬ、常に己が生き残り、いかに効率よく獲物を仕留めるか。ただそれだけに特化し、身に着けてきた剣術なのだ。
恐怖よりもまず、命の取り合いに魅せられている。
「吉原の約定に則り、処断する」
振るった刃は肉を割いて血を周囲に撒き散らした。
煙管を燻らせながら老爺は懐手をして路地裏に折れた。
月光は雪雲に隠れてさやかに見えないというのに、提灯一つで悠々と歩いている。
やがて、血臭が濃く漂った。
「君は野に咲くあざみの花よ見ればやさしや寄れば刺す、てか」
怖ぇ女だ、と老爺は揶揄した。
万寿は淡々と骸を見下ろしていた。漆黒の羽織が、風にはたはたと舞っている。白い手にはいまだ濃く地の香りを漂わせる得物が握られている。頬も髪も同様のものに濡れて、それが目から少し下ぐらいから流れるものだから涙のようにも見える。億劫なのか、万寿はぬぐおうともしない。
「派手に喰い散らかしたもんじゃぁねえか」
万寿が顔を上げる。と、同時に。少女の首には別の刃が向けられている。少女は微動だにせず自らの危険を静観視している。
「なぜ避けねえ」
「おまはんの心ひとつでこの剃刀が喉へ行くやら眉へやら、でしょう。死ぬときは死ぬ時です。まぁ、私の場合剃刀ではなく旦那の物騒な刀ですけどね」
時化てやがる、と老爺は刀を納めて骸を蹴り飛ばした。
常人ならば吐き気が抑えられぬような凄惨な光景の中で、悠々と煙管を燻らせる。
「浅黄裏でしたよ、三人とも」
少女は欄干から橋げたの上に飛び降りた。歯の長い下駄をはいているのに無駄な物音一つしない。
鍛錬を積まねばこうはいかない。ただでさえ真剣は少女の体には重い。
「死んだ妓のツケはこっちのモンだってのに、客はいい気なもんだ」
「死体は金になりませんものね。こう考えると家畜の方が役に立ちます」
「おうおう、人間様を家畜扱いか。へ、こりゃぁいい」
老爺は肩を大きく震わせて笑った。
「私たち、人殺しは外道でしょう、旦那」
己の存在意義がわからず、唯一証明できるものと言えば人殺しの道具である刀一本で。
首を掻き切って死ぬことも出来ずただすがるように鬼になった外れ者達。なんて生き汚い生き物なのだろう。だから家畜よりも劣る、人でなしと呼ばれて現世を生きる。
「いい覚悟だ。さて、と。他の店が逃したな、大門の外に」
「一両日中にはカタをつけます」
万寿は血濡れの羽織を翻して歩き出した。
江戸吉原。
公儀公認の遊里であり、遊女三千人を抱える享楽地。
寛政七年、六人の肝煎名主が六花衆を形成し、その配下に用心棒衆を形成する。
彼らが名は揚羽。
剣を以って吉原の領域を守る武闘集団なり。
怖い企画を書く前に何か突発的に書きたくなったもの。最初の台詞は「鬼姫」という漫画からの引用です。なんかこれを入れると殺伐としたものが書きたくなる。病気です。
設定は全く別物です。これからの流れも全然違います。
ま、言い訳はここまでにして。
以前甘い小説企画で書いた人を題材に連載形式にしようとして書きはじめました。もしかすると時々ちょっとずつ改造されている可能性があります。
長文失礼しました。