2011年08月18日(木)16時59分 - 雪緒
弥生が昨日始まったというのに厚く垂れこめた雲は雪を降らせた。殺気立った政情を反映するかの如く、ここ数年の天候は異常である。
ちっ、と紅楼は舌打ちをした。
「春の楽しみのへったくれもねぇ」
今年も凶作となるだろう。
こうなると、百姓が流れ込んでやれ打ち壊しだと米屋や高利貸ら商人を襲うから堪らない。富商に贅沢して貰わなけりゃこっちの飯も食い上げだ。
吉原は外界から隔絶された遊興地であるが、隔絶されてもなお外界の政情は多く影響を与える。江戸の治安が悪化すれば吉原に仇なす者が増える。
それを最小限に食い止めるのが揚羽、用心棒衆である。
「面倒臭ぇなぁ」
その上役である六花衆もいつまでも脇息に凭れて煙管を燻らせているわけにはいかない。紅楼がのんびりと自分の店に落ち着いたのも久々である。
「こんな爺をこき使いやがって」
だが久々に一人で煙管を燻らせて過ごすのも悪くねぇ。後で酒でも持ってこさせるか。
紅楼は襖を端に叩き付けるように開けた。
しかし、である。紅楼は痛む頭を押さえて窓の張り出しに腰掛けた。先客がいる。呼んでも、まして客でもなかった先客である。
「なんでてめぇが此処に居る」
「おう、旦那。いやぁ今日の雪は風流だねぇ」
楼閣の窓に腰掛けて、紅楼の前に坐した男はニカッと笑った。
「こういう日は酒に限るさね」
と、酒瓶の栓を咥えて引き抜く。開いた口から酒は濃く匂いを漂わせたが、水でも飲むかのようにぐいっと飲み干した。
「なぁにが風流でぇ、人の妓楼の最上階占領しやがって」
「かてぇこと言うなよ、紅楼の旦那。兄貴分としてちょっと懐の広いところを見せてくれよ」
男はまだ手つかずの酒瓶を放る。座敷の代金と言ったところだろう。開けてみるとやはり座敷代には十分すぎる値の酒が入っている。
調子のいい野郎だ、と紅楼も栓を抜いて呷る。高い酒程旨いたぁよくいったもんだ。
「旦那の為に飛びっ切りいい酒、用意したんだからよ。肴なんかねぇか」
「肴と喰ったら酒が不味くならぁ」
男は肩を竦めた。
洒落ているというより伊達者。女物の紅い襦袢を着流して、背筋の凍るような色気を漂わせている。似合わないならただの阿呆だが、この男は違和感なく―むしろ本物の女よりも美しく着こなしている。
これだけ別嬪なら、と紅楼は遊女を見るように眺めた。楼主の性である。互いに遠慮も何もない仲で、悪いとも思わない。
張り店をしたらいくらだ、と下衆な算盤勘定をしちまいたくなるもんさ。
しかし単なる優男でもない。若くとも哭烏楼の楼主、六花衆の一人である。
伊達で名乗れる程、六花衆の名は甘くはない。
「しっかし、なぁ旦那」
哭烏楼は頬杖をついて眼下を見下ろす。吊り上げた唇は紅い。
「雪もいいが・・・いい場所だな、ここは」
眼下に広がる広場―燈下。
金で買った囚人と褒賞につられた無宿人や浪人が集まり、若い揚羽達の相手となる場所だ。
その中心、舞うように群がる男達を打ち払う少女がいる。
断続的に降る雪で地面はぬかるんでいる。吐く息は白く、室内でも手がかじかむ。男でも刀を振るうのは容易でない。そしてあれ程の人数が相手ならば気組みも脆く砕けるだろう。
しかし少女の剣気は変わらない。
「もう七年か・・・」
「あぁ・・・早ぇもんだ。万寿はいい揚羽になるさ。刀の音で分かる」
紅楼、哭烏楼両名は腕一本で楼主に成り上がった。刀への執着はいまだ捨てられないでいる。だからこそ二人は揚羽の鍛錬に積極的に燈下を明け渡す。時には自らが刀を振るい、他店の揚羽の鍛錬をすることもある。
「万寿ぐらいのバケモンがもう一人居ればおもしれぇのによ」
「俺と旦那みてぇなモンか。燈下一つ潰すぜ」
けらけらと哭烏楼は笑う。
「違ぇねぇ。ま、十七であれなら俺達以上のバケモンだな」
万寿が地面を蹴って一人の胴を抜く。振り向きざまに背にまた一太刀加える。上段から落とされた別の刀は僅かに体を引く事で避けた。
その時間、ふぅ、と呼吸ひとつ。もう一つ呼吸をすると、万寿の刀は次の獲物を屠っている。ぱっ、と一点は花が咲いたように赤く染まった。薄く積もった雪でははっきりと分からないが、厚く積もっていればさぞかし映えただろう。哭烏楼は溜息をつく。
見事なものだ。天賦の才というものが遺憾なく発揮されてこその剣技である。並の腕では、鍛錬ではこうはいくまい。
「あのな、刃引きぐらいさせろ」
「腕が鈍っちまうだろうが。殺し合いに手加減も何もねぇ」
おっそろしい爺さんだ、と哭烏楼は苦笑する。かといって哭烏楼は止めにいこうとしない。いつものことだ。紅楼は次の酒瓶の栓を抜いた。一気に飲み干してにやり、と口端を上げる。
「人の事を言えた義理か」
「左様で・・・また派手に喰い散らかしたな」
万寿の周囲に転がった屍は四体。対する万寿の怪我は恐らくほぼ皆無。
彼女が揚羽最強であることは六花衆の認めるところにある。女とはいえこれから揚羽を率いて行くのは万寿だろう。揺るがぬ信念が有る限り、万寿は躊躇いなく剣を取るのだ。
「信じられるのは己だけだ、今の万寿は」
だからよぅ、と紅楼は哭烏楼の頬に切っ先を突き付けた。つぅ、と血の筋が一つ流れる。哭烏楼の表情は変わらない。
「てめぇの揚羽を早く決めろ。ここを食い荒らされねぇように」
「万寿みてぇに質のいい餓鬼が少ねぇんだよ。俺ぁそこまで人情に厚くねぇんでね」
「手放した餓鬼を据えりゃあいい」
紅楼は納刀すると部屋を後にした。哭烏楼はまだ空けていない酒瓶を開けると自棄のように飲み干した。
明日は雛祭りだ。
ふと、緋毛氈のような跡を見て思い出す。
吉原には女の成長を祝う行事はない。女は商品であり万寿もまた例外ではない。違うのは廓の外に出られるか否か、色を売るか否か。結局彼女もまた遊女に変わりない。
まして、万寿は揚羽である。男のように剣を振るう中では、その行事を意識することさえ稀なことだった。だのに、その日は何故か胸をざわめかせる。
「万寿」
襤褸切れのようになった浪人を捨て、万寿は振り返った。
途端鈍い閃きが落とされた。一度下ろしていた刀を反射的に上げて受け止める。捌き切れなかった重みに両腕が痺れた。
ふぅっ、と万寿は息を吐き出す。
左横に負荷を受け流して、右脇を払う。が、掠りもしない。目標を失って身を翻さんとした瞬間、緩んだ足場に踏鞴を踏んだ。わずかな時間だが勝負はついていた。
切っ先が喉笛に突き付けられている。はぁ、と万寿は刀を下して首を傾げた。
「旦那、随分急なお越しで」
「けっ、なんでぇ白々しい。露程にも驚いてもいねぇくせに」
浅黄色の着流しと漆黒の羽織の老爺、紅楼の楼主。押し潰されるような剣気に全身が震える。今も昔もそれは大して変わらない。恐怖が伴わなくなっただけ幾分マシではあるが。
「腕は鈍っちゃあいねぇようだな」
ちん、と涼やかな音を立てて老爺は納刀した。
「あらかた死んじまったしよ。暇だろう」
「ええ」
そりゃあよかった、と老爺は目を細めて笑んだ。そして袂から紙片を取り出して万寿に差し出した。お世辞にも綺麗と言い難いその字は老爺の手だろう。それを目で追い、幾分目を見開いた。くしゃりと紙を握り潰す。酷い吐き気がした。こういう場合ロクなことが起きないと相場は決まっている。分かってやるから始末が悪い。
「ちっと、潰してこい」
狸め、内心で毒づきながら万寿は頷いた。