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L'histoire de la Marche

2011年09月03日(土)03時21分 - エンディミオン

 

 マルシェ。
 それが僕とセレーネ、しがない剣術指南役と一国の姫君が、互いの心を認め合うための合図だった。剣を交えれば、彼女がどんな気持ちで僕に向かっているのか、なぜだか伝わってくるような気がして。きっと同じ様に僕の想いも、切っ先から痛い程伝わっていた事だろう。少なくとも僕はそう信じていたい。だから、だからこそ僕には、自分の心の内をそのまま押し留めておく事なんて、到底出来なかった。
「その様な申し出、聞き届けるわけにはいきません。私はこの国の王位継承者。貴公はその私に剣術を指南する身。その意味を、貴公はお分かりか」
「しかしセレーネ様の剣からは、私を本気で切ろうとする意志が感じられません」
「なっ……愚かな事を」
 率直に「愛しています」と伝えると、面を外し少し上気したその表情は、堂々と構えようとしながらも、しかし動揺の色を禁じ得ない様子だった。汗を拭い、結い目からほつれた金色の前髪をかき上げる姿は勇ましいが、うっすらと頬を赤らめながらも言葉を探す様はいじらしい。町を歩いている少女達と何ら変わらない。愛の告白に眉尻を下げる彼女を見て僕は思った。しかしそれでも、彼女の言葉通り、確かに彼女は「姫君」で。しばらくすると、普段の平静をすっかり取り戻し、僕に一言。
「己の立場を理解していれば、その様な言葉は出てきますまい」
 ワントーン低い声。どこか寂しげな声でそう言って自室に、僕の知り得ない世界に帰ってしまうのであった。
 ちょうど五年間。長い道のりだった。この場所を祖国と呼べるようになった僕は、それを許してくれたこの国に報いるために、そして幼き日々より修練に励んだ剣術の腕を生かすために、騎士団に身を捧げる事を決意した。けれどその選択は一方で、僕には恐怖しかもたらし得なかった。だから。その日から僕は、暇を見つけては剣を抜き、騎士団の実力という見えない敵と戦い続けた。いくらやっても、僕にはただ「足手まとい」という悪魔がしがみついてくるばかりで。
 ――愛など、国を背負うという使命を帯びた私には、足かせ以外の何物でもない。
 しかし不安とは裏腹に、僕が騎士として名をあげるまでに、時間はそう長くはかからなかった。長らく戦いから離れていた騎士団は形骸化し、内部では腐敗が深刻化していたのだ。貴族の子息達はもちろん、志願して入団したのであろう平民達でさえ、修練を怠り、ただ無下に日々を過ごすばかりで。一人ひたすらに汗を流し階級を上げていく僕に、冷たい視線を浴びせ続けていた。
 ――そもそも貴公は、男女が睦むその意味を、愛の意味を理解しているのですか? 私には分からない。その先に何も見えはしない。
 「長い道のり」とはその後ここまで、彼女の隣に立つまでの三年間だった。この国では、騎士団の実質的な権限は副団長が握る。なぜなら古くからのしきたりで、騎士団長は王族、特に王位継承者の剣術指南役を兼務する事になっているからだ。しかし貴族達は、他国からやってきた僕がセレーネの傍に仕える事をよしとしなかった。「他国のスパイではないのか?」、「信用出来るわけがない」。僕へのプレッシャーは日増しに大きくなっていった。
 ――色恋沙汰など……私には必要ない。
 三年後。それは各方面からの圧力が、僕の修練にまで影響を及ぼし始めた時だった。もうダメかもしれない。この国に身を捧げると誓った。けれど国が僕を拒絶するなら、どうしようもないじゃないか。思い悩む僕に、玉座の間で王がおっしゃった言葉。
「佐藤隆将をセレーネの剣術指南役として正式に召し抱える事とする」
 国民の絶大な支持を得ている王に、正面から逆らえる貴族がいなかったのだろう。果たしてそれはあっさり議会と枢密院の全会一致を持って承認された。いったいなぜ、王がその様な決断をしたのか、僕には未だに分からない。ただ玉座の間で宣下を受けた後、去り際に見せたほんの少しの微笑は、今でも鮮明に覚えている。


「父上の意向だとおっしゃるのか? 貴公は私が思っていたより、ずっと卑怯だったようですね」
「そうじゃない。僕はただセレーネの……セレーネ様のお気持ちを――」
「……はぁ。セレーネで構いません。二人だけの時は」
 「二人だけ」という言葉が少し嬉しかった。相変わらず素っ気ない語り口だが、最近は随分気を許してくれるようになった。鋭い突きを見せる剣さばきからも刺々しさは消えて、安心感に似たものが伝わってくるような気がする。一時の休息の折にも背筋をピンと伸ばす彼女が、しかし同時に汗ばむうなじを不用意に晒す姿は、僕に不純なドキドキと、純粋な喜びをもたらしていた。
 競技場の外から、小鳥のさえずりが聞こえた。朝の太陽が窓越しに僕達を照らし、清々しい気持ちが心に溢れる。なにより一日を、二人きりの稽古から始められる事が幸せだった。
「父上は貴公をからかっておられるのでしょう。他国の一庶民であった貴方に何が出来るのかと。昔から酔狂な方ですから」
「セレーネはどう思ってるの?」
「私?」
「セレーネにとっても、僕はまだ『他国』の人間なのかな。何も出来ない、帰って欲しいって、思ってる?」
「それは……」
 僕を見つめていた彼女の瞳が、何度も左右に揺れる。視線が合うと、どうしようもないほど困惑の表情を浮かべて。それはもしかしたら彼女ではなく、僕、自身が、真っ直ぐに見つめようとしながらも、しかし心の中ではとても不安だったからかもしれない。「国を背負うという使命」と自分が天秤に掛けられたらどうなるか。その答えに名乗りを上げる自信が、僕にはまだ無かった。逡巡は多分、両方にあったんだ。
「私はあなたが分からない。なぜそうまでして、私の心の奥深くに踏み込んで来ようとするのか。あなたを冷たく突き放すだけの私に、どうして」
 それは君が好きだから、と返す前に、しかし彼女は背を向けてしまった。「私は何を……」と小さく呟きながら。結局その日、セレーネは体調不良を理由に稽古を途中で切り上げ、夕刻を迎え僕が城を出てゆくまでの間、一度も姿を現さなかった。


 たとえ指南する相手がいなくとも、剣術指南役は毎日登城しなければならない。それはこの役目に就いた際、王から下達された決定事項である。例外は無い。だが実際早朝に登城し、着替えただけで何もせぬまま下城の刻限を待つのは、随分辛い仕打ちだった。一人で剣を振るおうかとも思ったが、やめた。剣を振り上げた時、空を切る音がいやに響いて、孤独を痛感させたのだ。
 僕はあの日以来、セレーネと剣を交えていない。いやそれどころか、まるで僕を避けているかのように、彼女の姿は、その影すらも僕の視界には入らなかった。普段は稽古の時に加えて、王宮の廊下や帰り道の途中にある庭園で顔を合わせる事も多かったのに、その日常は完全にかき消えていた。同じなのは、時が流れれば夕空が顔を見せるという事だけ。無論、一日を前よりもずっと長く感じたし、僕が見たかったのは、えんじに染まる夕空の表情ではなかったのだが。
 独りになって二日が過ぎ、三日目を迎えた僕は、ふとある事に思いを巡らせていた。
『愛など、国を背負うという使命を帯びた私には、足かせ以外の何物でもない』
 彼女に課せられた使命、それはいずれ首長としてこの国を治めるという、生まれながらにして与えられた道。きっと、いや間違いなく剣術指南役や騎士団長とは比べ物にならない程の責任が、彼女の背中にのしかかるのだろう。僕の知り得ない世界の中で、知り得ないものを、彼女は背負う事になる。
 ――己の立場を理解していれば、その様な言葉は出てきますまい。
 もどかしい思いが胸の奥に広がる。見えない壁が目の前にそびえ立ったかの様に感じた。
 相手が人ならば、それは嫉妬という感情に収まっていただろう。そして実際そうでないから、収まらず、今もこうして鬱屈した思いに苛まれているのだ。霧掛かった使命という言葉が、彼女の中でどれほどの位置を占めているのか、僕には分からない。前に彼女にも言った事だが、それと自分が天秤に掛けられた時、自分が選ばれる自信は生まれ得なかった。だからなんだ。こんなにもやもやしてるのは。僕の中では、セレーネが一番大きな存在だった。それと同じ様にセレーネの中で、僕は一番になりたかった。それは結局……結局、ただの嫉妬なのかもしれない。
 辺りを見渡し、競技場に誰もいない事を確認した後、僕はその場で仰向けに寝転がった。そして、微笑した。こうして高い天井を見つめられるのは、誰もいなかったから。つまり僕は、誰もいない競技場で独り、苛立ちを募らせていたのだ。そう考えると、何だかおかしい様な、空しい様な。いずれにしても、先程までの苛立ちは、体の中からすっと抜け消えていた。
 ――使命、か。
 歯がゆさだけが、使命を背負う彼女に向けられた感情ってわけじゃない。天井にある照明と、それがもたらしている光の束を見つめながら、僕はひとり呟いていた。彼女の後姿が、光の中をさまよって、薄らぐ。頬に影を落としたのが彼女のプラチナブロンドではない事、そして瞳に悲壮の色が映っている事を、僕は知っていた。手を伸ばすと、それが届く前に彼女の姿は消えた。指の間をすり抜けて光が差し込んでくる。眩しい、皮肉な光だった。
 使命という言葉を紡ぐ時、セレーネは決まって表情を曇らせる。「使命とは道。道とは、進むべきもの」。鍔鳴りの様に鋭く響く声、しかし直後に振るう剣はいつもどこか荒削りで。それはまるで、セレーネの言う使命が鉄の鎖に変わり、彼女を束縛しているようだった。稽古の時一番近くにいるのは僕のはずなのに、現実は違った。僕はただ、乱れる剣を受けるだけ。見たくなかった、見ていられなかった。彼女が剣を向けていたのは、他でもない、彼女自身だったから。
 広げていた手の平を握り、下ろして、体を起こした。頭を掻きむしり、競技場の隅に置いてあった剣を手に取る。
 そんな事、と思っていた。そんな事、考えて何になる。今ここで、天井を見つめながら考えに耽っても、彼女には何ももたらし得ない。もたらす物があるとすれば、それは僕に。つまり、自己満足に過ぎない。
 そして、物事には必ず理由、ひいては目的がある。理由からは逃れられない。目的を否定する事は出来ない。何時かに聞いたその言葉は、正しいと僕は思う。少なくとも今回は。なぜなら、使命に勝てる自信が無いという理由に駆り立てられ、使命に勝てる要素を無理やり捻り出すという目的に引っ張られ、それらによって僕自身が定義された、その帰結として僕の独白があったのだから。
 僕は一人、剣を振り上げた。競技場には、やはり空しい風切りの音が響く。それでも、自分の弱い部分を絶ち切りたいと思った。
 もしかしたら、こうして僕が剣を振るえば、それは、僕自身の首を絞める事になるのかもしれない。剣を握り汗を流す事はすなわち、新たなものを得るという事。それを彼女に伝えるのは、彼女が使命を追いかける助けに他ならない。
 でも、僕にはこうする事しか出来ないんだ。彼女の前に立って、ひたすらに気持ちをのせる事でしか、彼女に近づけない。伝えるんだ。自分の気持ちを。ひたすらに、ひたむきに。前に進まなければ、何も始まらない。そう、一歩前に。剣を振る僕は、自分に言い聞かせていた。


「ちょっと待ってよ! 何でそこまで僕を」
 王宮の広すぎる廊下に、僕の声が驚くほど反響した。給仕の女性達がこちらを振り返るが、ある者はそそくさと、ある者はクスクスと微笑んでその場を後にする。いつからかこの王宮では、僕の不敬を咎める者はいなくなっていた。
「……別に、避けてなどいない。貴公の思い違いです」
 実に三日ぶりの彼女の声だった。しかし言葉と共に僕に背を向け、足早に立ち去ろうとするものだから。
 僕は彼女の腕を掴み引きとめて。
「嘘なんて、全然らしくない。セレーネはもっと――」
「離せ! その罪深い手を、今すぐに!」
「え?」
 力が緩んだ一瞬の合間に、彼女は腕を強引に僕から引き戻した。振り返り見つめるその瞳は、胸の奥まで痛くなってくる程ひたすらに僕を睨んでいて。立ちつくす僕に、再び背を向けた彼女は、廊下の先を見据えながらこう言った。
「私の何が分かると言うのだ。うわべだけの言葉を繕うだけの、それだけの貴公に」
 表情を知る事は出来ないが、彼女の声は少しだけ震えていた。いつもは凛々しくしゃんと伸びた彼女の後ろ影が、一回り小さくなったように見えた。
「私が何も知らないと思ったら大間違いだ。私は自分で見て、そして知っている。私のいない間、貴公が……貴公が誰と蜜月を過ごしていたか」
 蜜月? それはどういう……。繰り返される疑問。しかしある時、その流れは止まった。急に、鈍い音を立てて。
 頭の中が真っ白になっていた。違う、それは違うのに――
「よりによって私のメイドを……貴公には失望しました」
 再び振り返った彼女の目尻には、涙が湛えられていた。しかしそれを見つけられても、僕には何もかもが遅すぎて。流れる一筋の悲しみを、ただ見つめている事しか出来なかった。彼女の部屋の扉が閉まる音を聞くまで、いや、聞いてからも、僕はその場所にずっと立ちつくしていた。


 マルシェ。
 それが僕とセレーネ、しがない剣術指南役と一国の姫君が、互いの心を認め合うための合図だった。剣を交えれば、彼女がどんな気持ちで僕に向かっているのか、なぜだか伝わってくるような気がして。きっと同じ様に僕の想いも、切っ先から痛い程伝わっていた事だろう。
 でも。
 マルシェ。
 でも、ねぇセレーネ。それだけだったの? 剣で気持ちを伝えられていたのなら、それは嬉しいよ。でも僕達は今もまだ、「剣術指南役と姫君」だったのかな。僕は君が部屋に戻っても、ずっと君を想い続けてた。帰り道から夕空を見上げて、早く明日の空を連れてきてくれと願ってた。きっと君もって、僕は信じてる。同じであって欲しい。その通りだって、いつもみたいに自信に溢れた声で言ってよ。そうじゃなきゃ僕は……僕はもう、剣を握れない。
『セレーネ様のお好きなもの、ですか?』
『うん。情けないけど、僕には分からなくて』
『我が国の民と彼らの笑顔です』
『そんな月並の答えじゃなくて――』
『冗談です』
(そんな真っ直ぐな目で、冗談、だったんだ……)
『そうですね……本当は、話してはいけないと申し仕っているのですが』
『うん』
『一つお約束いただけますか?』
『何を?』
『セレーネ様には、この密告について、飽くまでも伏せていただきたいのです。さもなければ私は、里に帰されるどころか、命すら危ういものと』
『それも冗談?』
『なぜ私が冗談を?』
(目は、さっきと同じなんだけどね……)
『分かったよ。騎士の誇りに誓って、沈黙を貫くと約束する』
『ありがとうございます。では、お耳を少しこちらへ』
『うん』
『では申し上げます。セレーネ様のお好きなもの、それは――』


 翌日、また競技場で独り、ただ日が落ちるのを待つのかと思っていた僕の目の前に、その事実は衝撃となって現れていた。
 セレーネが、剣を握っていた。
「さぁ、稽古を始めましょう」
 面を付けているから、彼女がどんな顔をしているのかは分からない。競技場に響く声も、ただ平坦に広がるばかりで、彼女の真意をうかがい知る事は出来なかった。
「セレーネ?」
「……思い違いをなさらないでいただきたい」
「え?」
「国を守る者として、そして一人の騎士として、剣の修練を欠かす事は出来ない。それだけです」
 振り上げた剣が、目の前に。その先に、面の隙間からほんの少しだけ垣間見えた彼女の視線は、確かに真っ直ぐだった。真っ直ぐだったけれど、しかし僕の目だけは、決して貫こうとしなくて。見つめ続けていると、微かに剣先が揺れた。
「何をしているのです。早く剣を抜きなさい」
「セレーネ……分かった。じゃあ、始めよう」
 それからは、僕もただ無心になって、彼女と剣を交わした。彼女の剣の先からどんなに違和感が伝わってきても、振り払って彼女の突きに応えた。剣の修行だけが目的なのか、僕をまだ見捨てていなかったのか。そんな事はどうだっていいんだ。それが今の僕に出来る、唯一の事だと思ったから。何のためらいもない剣技で、揺るぎない僕の気持ちをちゃんと伝えたかったから。
 あるいは、全てを打ち明けるべきだったのかもしれない。顔を背けようとする彼女に、「ひとえに君を」と叫んでいれば、少なくとも彼女の痛みは小さくなったはずだ。しかし僕は、剣を振り続けた。約束を、あのメイドとの約束を破る事は、騎士である僕には出来なくて。なによりそれは同時に、同じく騎士であるセレーネへの裏切りに他ならないと思って。不器用に、ひたすらに、想いが届く事を願い続けた。
「やはり私には、あなたが分からない」
 僕の剣が彼女を捉え、一瞬互いの剣が引かれた時、ふいに声が聞こえた。我に返った僕は、彼女の剣気が、いつの間にか困惑の色に染められている事を知った。
 もう一度言おう。僕はただ、気持ちを伝えたかったんだ。遠ざかってしまった彼女の心にもう一度、そして更に深く潜りたくて。でもそれは、決して逃げたわけじゃない。「剣でしか伝えられないなら、剣で」と思ったわけじゃない。そうじゃないんだ。その証拠に、今だって――
「言ったはずです。失望したと。踏み込もうとしても、得られるものは何も無い。だからもう……もうそんな顔をするな」
 もしかしたら彼女の言うように、僕は酷い顔をしていたのかもしれない。もしかしたら、気付かぬうちに涙に暮れていたのかもしれない。気持ちが溢れたんだ。信頼を取り戻したかったんじゃない。僕はただ、君が隣にいない毎日が怖かった。本質は僕の独りよがり、それだけだった。
「くっ!」
 キーン、という鋭い音が競技場に響き渡る。
 振り払った拍子に、彼女の剣が宙を舞っていた。
 窓から差し込む日の光が反射して、四方八方に広がり。
 面を外した彼女が悔しそうな表情を見せて、乱れ舞う剣を見上げる。
 僕の右手が、するりと柄を離して。
 真っ直ぐに行き先へ向かう僕の剣。
 彼女の刃よりも先に耳に届いた。
 彼女は、何事かとこちらを振り返って。
 既に目前まで迫っていた僕の顔を見て驚きの表情を見せ。
 そしてたじろぐ様に一歩下がろうとして。
「佐藤殿?」
 でも叶わなかった。
 僕の右手が。
 彼女の腕を掴み。
 少し強引に。
 それでいて優しく引き寄せて。
 頬を朱に染める彼女に。
 僕が。
「ふぁ……!? ンっ……ぁ」
 口づけ、していたから。
「あ……っ、んっ……」
 初めて感じた唇の感触は、想像していたよりもずっと柔らかだった。離れようと必死にもがく肩を追いかけると、次第にどこか籠った熱が、漏れる吐息から伝わってきた。唇をゆっくり離すと、呆然と立ち尽くしたまま蕩ける様な揺れる視線を向けるものだから、僕は彼女の前髪を撫でて、もう一度唇を重ねた。
「んんぅあ……っ……はぁ、いやっ」
 カラン、という音。セレーネの剣が床に落ちる音が聞こえたのは、彼女が僕を突き放した直後だった。反響する音と、それに続く沈黙が物悲しい。そして数歩後退りした彼女の表情は、それにも増して悲哀に満ちていて。相変わらず頬を火照らせながらも僕を、遣る瀬無い瞳で見つめていた。
「どうしてこんな……卑劣な事を」
「セレーネには、僕の気持ちをちゃんと分かって欲しいから」
「それが卑劣だと言うのだ。何度も言っている。もう触れないで、もう踏み込んで来ないでと」
 セレーネの体と、そして声が揺れる。上気しピンク色に染まった両肩を、交差した腕で抱き、必死に震えを抑えようとしていた。
「それなのにあなたは聞く耳を持ってくれない。それどころか私の……こんなにすぐ近くまで詰め寄ってきて」
「でも僕は――」
「もうダメなんだ!」
「セレーネ……」
「……もうダメなんだ。お願いだから、これ以上私を苦しめないでくれ。私には果たすべき役割がある。この国を守り治めるという使命が。それを忘れたら、私は私ではいられない。生きてゆく事など出来ない。だから……だからお願い。もう進まないで。もう、やめて」
 僕には、それ以上言葉を紡ぐ事は出来なかった。セレーネが好きだという気持ちは持ち続けたままだ。けれど今目の前で、彼女は本当に、心から苦しんでいる。僕の想いが彼女を苦しめているという事実が、大きな罪悪感となって目の前にそびえ立った。
「――ゴメン」
 今自分が出来る事は、たった一つ。この場から立ち去る事だと思った。しかし重い足を持ち上げ、一歩目を踏み出してみると、まるでそれが永遠の別れの様な気がして、たまらなく嫌だった。床を踏みしめる度に、鋭い何かが胸に突き刺さる。戻りたい、でも戻れない。こんなに苦しいなら、好きにならなければ良かったのかと、心の中で自問し始めていた。
 まさにその時だった。
「セレーネ様、佐藤様。火急の事態です。お急ぎください。すぐに、玉座の間へ」


「リベリオン卿が? 父上、それは確かなのですか?」
 セレーネの問いかけに、普段は決して見せない険しい表情で、眉間に皺を寄せ、王は重々しく頷く。
 リベリオン卿、謀反。
 その名前を聞いた時、最も強く感じたのは驚きではなかった。「謀反」という事柄自体が衝撃的である事は確かだ。しかし彼、リベリオン卿の顔を思い浮かべると、衝撃的という言葉がすぐに掻き消えてゆく。かねてから僕は、彼が王に不満を抱いていた事を知っていたし、彼の危険性も理解していたのだ。それゆえに、僕は唇を噛まずにはいられなかった。もう少し前に手を打っていればと思うと、溢れ出たのは王に対して申し訳ないという歯がゆさであった。
 僕の驚きはむしろ、リベリオン卿に付き従っているという農民達に向けられた。どこから集めてきたのだろう。賢君として名高い王が治めるこの国に、反旗を翻す農民がそれ程までにいるとは思わなかった。あるいは反感の思いがなくても、己の欲のために反逆を選んだのかもしれない。成功したとしても、悪しきリベリオン卿が今よりも国を荒廃させる事は明らかなのに。僕の脳裏に、困窮し苦しむこの国の惨状がよぎった。
「セレーネ。お前には、護衛を百人程連れてある場所に隠れてもらう。急ぎ、準備に取りかかれ」
「なっ!?」
 難しい顔をして王の話を聞いていたセレーネが、その時ふいに王の言葉を遮った。玉座に向かって駆けてゆき、兵士達に止められる所にまでにじり寄る。いつにも増して鋭い眼光が、王の両目を射抜いていた。
「待ってください! 私は、固よりこの国に命を捧げる覚悟。そのために、今日まで剣の修行にも励んで参りました。その私に、父上は祖国を見捨てろとおっしゃるのですか」
 セレーネの凄まじい剣幕に王は一瞬怯んだが、しかし彼女に優しい眼差しを向ける事は無かった。玉座に据え付けられた金色の肘掛を握るその両手に、強い力が加わっていた。
「お前が愛する、その祖国のために言っているのだ。お前は私の一人娘。お前を失えば、私の亡き後、この国を誰が守る? 誰が迷える人々を導くのだ」
「それは――」
「それに……本当に覚悟は定まっているのか」
「今更何を。私は! ……私は? ――」
 突然、彼女は言葉を詰まらせその場で俯いてしまった。彼女を包んでいたもの。覇気の様な空気がどんどん小さくなってゆくのが顕著に分かる。俯いたまま、彼女は自分の剣を見つめていた。目を見開き無言の驚きを見せるその表情からは、罪の意識さえ伝わってくるようだった。
 王はそれ以上彼女には何も言わなかった。刻限が迫っている中その様な判断をしたのは、きっと王の優しさなのだろう。王は逡巡するセレーネを見て目を閉じ、再び開いた時には僕を見つめていた。今日まで一向に見通せなかった鋭い瞳に、未だ消える事のない炎を見つける事が出来て、僕は嬉しかった。
「佐藤隆将」
 はい! と過剰に大きな声で応える。王の存在感は圧倒的で、僕はいつもこんな風に緊張しすぎてしまうのであった。その一方で王は飽くまでも荘厳に、一度深い溜息をつき、そして僕に言った。
「運命とは、残酷なものだ」
「え?」
「……騎士団の半数以上が、リベリオンの側についた」
 一瞬、何の事だか僕には分からなかった。兵士長となった時、騎士団を根本から改革した僕は、鋭さを取り戻した騎士団を愛していたし、隊士達には常に王への忠誠を約束させていた。なにより僕は彼らを、心から信頼していたのだ。
「そんな……」
 しかし沈黙が徐々に、それでいて着実に、僕を悟らせた。信じていた分、それだけこみ上げる怒りもひとしおで。目の前に浮かび上がった何者かの不敵な笑みを、乱暴に振り払った。
 それでも、信頼と怒りが正確な反比例を見せる事はなかった。僕を引き留めたのは、僕の要求に応え、付いてきてくれた隊士達の存在。僕が騎士団長になるまで修練を共にした仲間達を、ひたすら憎む事は出来なかった。血の滲むような日々を否定したくなかった。仮に彼らが自ら選択したと言うのなら、その意思を尊重したいとも思う。僕の胸中では、彼らを擁護したい自分と、相反して決して許そうとしない自分が互いに絡み合い、玉座の間に立つもう一人の僕を、双頭の大蛇のごとく攻めたてていた。
「お前にはおそらく、三つの選択肢がある」
「……はい」
「騎士団長としてリベリオン側の騎士達を率いる、あるいは全てを捨て祖国に帰ると言うなら、そのように致せ。私はお前を引き留めはしないし、この場で斬り捨てよと命じる事もない。それが、今日までセレーネが世話になった事への、せめてもの返礼だ。道を選ぶ権利は、お前にある。他の誰しもがそうであるのと同じ様に」
 茫然と立ち尽くしていたセレーネがその時、下唇を噛んだ。王はこちらを向いたまま、彼女に一瞥も与える事はなかった。
「私は――」
 目の前に伸びる道を、僕は選ぶ事が出来る。今、城下町で何も知らないまま、何気ない日常を過ごす多くの民達と同じ様に。しかし、この時ばかりは王の言葉がひどく残酷で、厳しすぎるものに聞こえてならなかった。目の前で王は真っ直ぐに僕を見つめ、その左手では、セレーネが今も青ざめた表情で、剣に映る己と向かい合っている。しかしその一方で、かつての仲間達がそれと同じ時に、どこかで歩みを進めている事も確かだった。道は伸びている。しかしどこもかも、血に染まっていたのだ。
 決して変わる事のないそんな状況の中で、僕は自問する。僕は選ばなければならないのか? いずれの道を進んでも、誰かを傷つける事になってしまうのに。昨日まで挨拶を交わし、あるいはそれ以上の関係を築けていた人を、この手で斬る事になるかもしれないのに。
 理屈では分かってる。選ばなきゃならない。最初から、理屈では分かってるんだ。僕の進む道は、僕にしか選ぶ事は出来ない。誰かが指し示したら最後、それはもう僕の道じゃない。それに。立ちつくしたまま僕は、セレーネの姿を見つめた。それに、僕がこんなにも辛いのに、いったい誰に委ねろと言うんだ。愛しい人に悲しい決断をさせるのは、きっともっと辛いし、痛い。
 それでも、ダメなんだ。僕には答えが出せない。最初から選ばなければならないと分かってはいても、でも同時に、その道が血塗られている事も、僕には最初から分かっていて。そんな道に進む勇気が、どうしても湧いてこなかった。情けない自分に苛立ちを覚えながらも、それでも僕は同じ場所をぐるぐると回り続け、どうしても踏み出せなかった。
「……少なくとも、私がもといた国に戻るという事はありません。五年前、この国と王に忠誠を誓ったあの日から、私の祖国はこの場所なのです」
「そうか」
 少し溜息まじりに答えて、王は続ける。
 続く言葉が僕の運命を左右する事を、この時僕はまだ知らなかった。
「飽くまでも、鬼の道を進むというのだな」


 ――飽くまでも、鬼の道を進むというのだな。
 息が切れる。それでも僕は走り続ける。
 本当の事を言おう。
 それは自分自身に向けられた言葉だった。
『どうした? 何を考えている?』
『……私は、大きな過ちを犯していました』
『過ち?』
『陛下』
『うん?』
『周辺国のいずれかがこの機を見計らい、魔の手を伸ばしてくるのも時間の問題です。残った騎士達を率いる許可を、私にお与えください。必ずや、逆賊を滅すと誓いましょう』
『……お前は、それで良いのか』
『私の道は、王とこの国の繁栄に寄与する道。それ以外の道は全て、罪悪の道に他なりません。それに』
 ――それに。
 さっき僕は、勇気が出ないと言った。どちらかを必ず傷つける事になる選択に、どうしても決断を下せないと。でもそれは、綺麗事だった。嘘と言ってもいい。本当は、答えなんてずっと前から出ていた。僕は、セレーネが好きだ。苦しい程に、切ない程に。彼女の笑顔や泣き顔を思い浮かべれば、隊士達と天秤にかけるまでもなかった。選択は、驚く程すんなりと成されていた。
 それにも関わらず、悩んでいた理由。悩んでいるふりをしていた理由。それは僕の偽善、それに他ならない。隊士達と修練の日々を過ごし、またそれが充実していた事は事実だった。輝かしい記憶、そう呼んで憚らない。しかし、いや、だからこそ僕は偽善に及ばねばならなかったのだ。キラキラしたものを切り捨てる事に、僕は抵抗を感じた。自分の正義に反すると思った。だから僕には、二つの道を並べて、選べないと狼狽する事しか出来なかった。そうしなければ自分が、どこかに堕ちてしまうような気がしたから。やっぱり僕は、ずるかったんだ。
『それに……セレーネ!』
『……私?』
『僕はこれから、隊士達を率いて立つ。この手で、必ずけりを着ける。だから、ここで待っていて欲しい。道を、君を選んで帰ってくるから』
『なっ、何を!? 父上の前で、あなたは――』
『セレーネ』
『え?』
『行ってくる』
 息が切れる。それでも僕は走り続ける。
 僕と隊士達の鎧が、一歩足を踏み出す度に音を立てる。腰にさした剣に手をかけると、自分の手が震えている事が分かった。しっかりしろ、僕はこれから、人を斬るんだぞ。覚悟は決めたはず。そうじゃなきゃセレーネの言葉を、そして自分自身まで、裏切ってしまう事になるから。
『待ちなさい!』
『……良かった。だんだん後悔し始めてた。最期の言葉になるかもしれないのに、あっさり言っちゃって』
『……貴公も酷ですね。私が何を思い立ち尽くしていたのか、貴公は分かっているはずなのに』
『ゴメン。バカの一つ覚えだけど、君には僕の気持ちを、全部知っていて欲しいから』
『本当にそればかりですね……でも、なぜだか安心してしまう。己の立場も忘れて』
『セレーネ?』
『――必ず、帰ってくると約束してください。もう一度、私の前に立って、そしてまた剣を交えると、誓ってください』
『うん……でも――』
『私は待っている。だから、貴公にも約束は守ってもらう。それだけだ』
『……あぁ、分かった。誓うよ。騎士の誇りに誓って、必ず生きて帰ってくると約束する』
『私も同じく、騎士の誇りに誓って、あなたを待つと約束しましょう』
『ありがとう。それじゃ、今度こそ行ってくる!』
 ――礼を言うのは、私の方だ。ありがとう。逃げろではなく、ここで、この場所で待って欲しいと、言ってくれて。


 リベリオン卿の謀反は、我が国にとって大きな分岐点となった。これまでの歴史の中で、最も大規模な事件である事は言うまでもない。また、なおかつ最も多くの血が流れ、痛ましい記憶となった事も忘れてはならない事実である。おそらく、負の歴史として脈々と語り継がれてゆく事だろう。生き残った僥倖の語部達によって。
 後の調べによって、様々な事実が浮き彫りとなった。リベリオン卿は、王の治世をそれが始まる前の段階、具体的には、彼も所属していた枢密院によって王が選出された時から、快く思っていなかった。王の甥にあたる彼は、自分の父親が、その弟である王に権勢を奪われた事に納得出来ず、不満を募らせていたのだ。王の代となった後、彼は暫く影を潜めていたが、枢密院においてある人事を議決する折、彼に賛同する貴族がおらず、賛成票を投ぜざるを得なかった事が、彼を狂気に走らせる直接の引き金となった。彼の死後、邸宅が召し上げられ調査された結果、事実が明るみに出る事となった次第である。
 その際明らかになった事実はそれだけではない。彼の日記を読み進めてゆくと、反乱の全容が次第にその輪郭を確かに描き出す。反乱軍を構成していたのは、ほとんどが地主階級の農民達であった。大規模な福祉体制がしかれた我が国において、彼らは高率の税を課され、その負担を下級農民に負わせる事も禁止されていた。彼らは、下層に位置する人々ばかりが無償の恩恵を受ける状況と、それを作り出した国家に反感を覚えていたのだ。ただ、それでも彼らの収入は日常生活と遊興の費用を引いてまだ余裕がある程充実していたし、下級農民達の間でモラル・ハザードが起きているという事実も存在していない。それに実際のところ、国の方針に激しい反感を覚えていた者は、ごく僅かである。むしろこの反乱という事実は、リベリオン卿の影響を強く鑑みて考察されるべきだろう。人々の心の闇に容易くつけ込む、彼の巧みな悪意を。
 これは十分に留意すべき過程である。反乱という結果を導いた原因が、一直線に国家体制へと帰結するわけではないというのは自明の事実だ。だが国の将来を真剣に考えるなら、やはり努力が必要だろう。すなわち、新たな悪臣を生ませない努力と、心の闇さえ照らす様な国家への努力である。
 そしてもう一つ、記述しなければならない過程がある。それは過程と言うにはあまりに短く、歴史を広範な視点で辿る者の目には、もしかしたら一瞬と映るかもしれない。だがそれは同時に、一瞬と言うにはあまりに重大な出来事。平和が訪れた後、ある者はそれを「伝説」と呼び、別のある者は「奇跡の足音」と呼んで讃嘆した。
 佐藤隆将。この者の名を、この者が我が国の歴史を進めしめんがため、無上の努力を為した事を、国民が永久に忘れないために、ここに記す。あえてそうするのだ。彼の記憶が人々の心にどれほど深く刻みつけられていようとも、ここに記す事でそれがよりいっそう確かなものになるなら、いったい何を惜しむと言うのだろう。
 その時が訪れるまで、佐藤隆将の名を知る者は限られていた。彼は騎士団長として隊士達を統率していたが、しかしその事実を知るのは騎士達自身と貴族階級以上の人間だけ。国を守る騎士団の長たる彼の名を軽々に知れ渡らせる事は、国外はもちろん、国内ですら許されていなかった。
 人々が彼について知らなかった事、いや、今も知らない事が、実はもう一つ挙げられる。それに関してはおそらく、騎士団の者や貴族達も聞かされていないだろう。なにしろ、彼は一度もそれについて語ろうとしなかったし、こちらから問うてもどこか遠い目を見せるだけだったのだ。故に口惜しいが、それをここに書き残す事は出来ない。彼がもといた国を離れ、我が国を祖国とした、その理由を。
 しかし、それによって彼の功績が損なわれる事は無い。彼の名は、さながら夜の空に輝く星の様に、人々の心を照らしている。そして、これからも照らし続けるに違いないのである。リベリオン卿と共に逆賊となった憎むべき農民達、そして騎士達に対し、残された僅かばかりの騎士達を率いて戦った彼の功績。十倍以上の戦力を有する敵に、敢然と立ち向かった彼の功績は、一向に揺るがない。戦いが終わった時、生き残った彼の同志達が言った様に、彼はまさに英傑であった。
 もう一度言おう。誰しも忘れてはならない。我が国を混沌から救いあげようとした男の名を。彼と同じ意志の炎を、何時までも心に灯し続けよう。そして前に進んでいこうではないか。佐藤隆将の記憶を胸に。


「私も変わったな。こうして街を見つめていても、あなたの記憶ばかり蘇ってくる」
 海の方から吹いてきた風が、緑に染まる小さな丘に腰掛けるセレーネの前髪を揺らす。風はそのまま吹き抜けて後ろの木々の方へ。けれども、落ちる葉は夜の漆黒に紛れて見えない。木々のささめきと、虫達の音色が聞こえるだけだった。
「後悔はしていない。国に身を捧げる事は私の本意であり、なによりあなたはそんな私に、頬笑みを投げかけてくれたのだから」
 夜の闇の中で光る街は、溜息が出るほど煌びやかだった。しかしそれでいて一向に、彼女に優しく囁いてはくれない。沈黙の中、ふと夜空を見上げると、満月が暗闇にまた別の光を添えていた。
「でも、あなたはやはり卑怯だ。私に何も言わないまま踏み込んで来た上に、今もそうして黙っているなんて」
 彼女の目尻に、涙がひとしずく。拭おうとしないのは、彼女のプライドだろうか。
 あるいは。
「僕は君を見つめているだけで十分。今更言葉なんていらない」
 そう言って、左隣に腰掛ける彼が、優しくその手を差し伸べてくれる事を知っていたのかもしれない。
「……一つ、聞いてもいいか?」
 セレーネは薄桜色に染まる頬を右の人差し指で掻きながら、照れくさそうに街の方へ視線を移した。揺らめいた金色の髪が月影の中で艶やかに光り、潤んだ瑠璃色の瞳に容易く心奪われる。もう一度手を伸ばし髪を梳いたら怒るだろうかと彼は思い、直後に、不謹慎な想像を巡らせた自分を戒めた。しかし、彼女の美しさ。今もこうして彼を惹きつけるその魅力に気付いていないのが、他でもない彼女だけである事は確かだった。
 彼の目には、隣に腰掛ける彼女が、普段よりもずっと小さく見えていた。戦乱の中、常に張りつめていた緊張がやっと解けたのかもしれない。膝を抱く細い腕を見つめながら、初めて想いを告げた時と同じ様に、町を歩いている少女達と何ら変わらない、と彼は思った。
「なぜ、この国へ?」
 彼女の言葉が、彼を丘の上に引き戻した。しかし、その質問に答えようと過去に思いを巡らせた彼は、再びそれによってさらわれていた。強くはないが、これまでよりも少し冷たい風が、やはり海の方から吹いてくる、その方角を、後ろにまわした両腕で体を支えながら彼は見つめた。どこか遠い目をしていた。
「ちょっと、疲れてね」
 光を灯さない海は、街とは対照的に、暗闇に包まれている。彼はその光景を見つめたが、実際には何も見えず、瞳はただ純粋な黒を捉えるばかりであった。そして同時に、その黒を見つめる彼の瞳も当然の事ながら黒に染まっていた。違うのは、彼の瞳に宿る黒が様々な思いを連れた、より深い黒だったという事だ。黒が純粋でなかったと言っても良い。
「僕は学生だったんだけど、その、何というか……特に人との関わりあいにね」
「人との関わり……しかし、我が国でもそれは同じだろう。本質は変わらない。政争がある分むしろ――」
「でも僕はこの国で、目の前にいる人を見つけたから」
「あっ……」
 肌色と凛々しさを取り戻しつつあったセレーネの表情が、彼の頬笑みと言葉につつかれて再び、花びらを溶かしこんだ様な桜色に染まった。「またその様な事を易々と」。そう呟きながら彼女は、膝を抱いた腕に顔をうずめてしまう。セレーネらしいと思わせるその恥じらいは、彼に、不安へと踏み込む勇気を与えた。
「僕も一つ聞きたいんだ」
 最初、セレーネは顔をうずめたまま、上目遣いに彼の言葉を聞いていた。しかし彼が先程とは違い、真剣な視線。それでいてどこか不安げな視線を自分に向けている事に気付くと、顔を上げ、彼を真っ直ぐに見つめた。
「確認したい。このままでいいか」
「このまま?」
「このまま、踏み込んでもいいのかな?」
 彼の頭に浮かんでいたのは、一つの天秤だった。その天秤の一方には彼自身が、もう一方には、二文字の言葉が乗せられていた。揺れる、天秤だった。
「……貴公はそのような事を聞くな。貴公が踏み込んで来てくれなければ、私は……」
 はっとしたのは彼だった。不安なのが自分だけではない事を知った。これまで与えられた道しか歩んで来なかった彼女が今、方向を変えようとしている。そしてその彼女が、こうして街を見つめながらも、彼の腕を掴んでいるのである。
「セレーネ……ゴメン」
 セレーネの表情を見た彼は、自分の不安などちっぽけなものだと思った。そんな事よりも、彼女には笑顔を取り戻して欲しい。それに彼女の潤んだ瞳こそが、自分の不安への答えだと知っていた。
「っ……謝らなくても、良い。貴公が貴公のままでいてくれれば」
 彼の言葉に、自分の想いが伝わった事を読み取って、彼女は恥じらった。だが同時に微笑んだ。彼の優しさと、一歩進めた事が、嬉しかった。
「じゃあ、新たな一歩として」
 街の灯りが少なくなってきた頃。左ポケットから何か真っ白な、箱のようなものを取り出した彼の腕の向こうで、また一つ家の光が消えた。夜の闇も深まる中、しかし一方で、暗くなってきたという実感は無かった。暗闇が増した分、降り注ぐ月の光が鮮明になったのかもしれない。仄かで淡い光に包まれて二人、同じ印象を覚えていた。
「私に?」
「正解」
 受け取った後、上目遣いの彼女と、開けてみて、という表情を浮かべる彼だった。
「これは――」
 指輪、だった。彼女の瞳と同じ瑠璃色の、スマートなシルエット。月の光を反射して、キラキラと瞬いている。映りこんだ彼の顔は、笑顔に包まれていた。その視線は指輪ではなく、それを受け取った彼女だけを見つめていて。ただし。
「おもちゃ?」
 ただし、随分いたずらな笑顔だったのである。
「またまた正解」
 左の口角を上げて含み笑いを浮かべる彼に、セレーネはこれ以上ないくらい訝しげな視線を浴びせた。「あっ」と焦りの声をあげる彼だったが、その間にも視線はますます厳しくなっていって。折しも吹いてきた冷たい風に悪寒を感じて、彼は次の言葉を急いだ。
「聞いたんだ。君のメイドに」
「え?」
「君の好きなもの」
 考え込む時、眉尻を下げる癖が彼女にはあるらしい。眉間にしわが寄るのは遺伝だろうか。そういえばうつむく時は、いつも右下の方を見つめている。そんな些細な発見にも彼は微笑む事が出来た。また一つ彼女に近づけたと思うと、温かいものが彼の心を優しく包んだ。今二人を照らしている月の光の様に、枯れる事のない愛しさが溢れるのを、彼は感じていた。
 その時、「もしかして」という小さな呟きと共に、セレーネのプラチナブロンドで細波が走った。何度目だろうか。彼女の頬が、恥じらいに染まったのは。
「あれ程他言無用だと言ったのに……」
「許してあげてよ。僕が聞いたんだ」
 相変わらず恥じらいの色を見せながら、しかしそれを隠そうと目を閉じる。そうかと思えば今度はキッと両目を見開いて、彼をたじろがせ。再び目を閉じた彼女は、「はぁ」と大きな溜息をつくと、やけに落ち着き払った声で「分かりました」とささめいていた。半ば捨て鉢だな、と彼は思い、彼女に見えないよう左にうつむきながら、やはりいたずらな笑みを浮かべた。もちろん、彼女を愛しいと思う気持ちの表れでもあった。
 三度、いや、再びだったか。まぁそんな事はどうだって良い。いずれにしても、今一度その瑠璃色を見せた彼女の瞳は、その時には既に先程の恥じらいを連れてはいなかった。すっかり暗闇に包まれた街を見つめて黄昏ているわけでも、憂いを帯びた月影に見とれているわけでもない。彼女が視線を向けていたのは、他でもない、真っ白な小箱に収められた、瑠璃色の小さなトイ・リング。一心に見つめるその瞳は、見つめるその先にあるものよりもずっと、輝きに満ちていた。
「この指輪に、罪は無いから」
「うん。その通り」
 つくづくセレーネらしいと彼は思った。素直でない言葉にしても、また、その順序にしても。きっと彼の意図を理解した時点で本当は、今の様な視線を指輪に向けたかったに違いない。街の少女の如く何のためらいも無いまま、まっすぐに。しかしそれでも彼女にはあの、恥じらいという名の苦言を脇に置いておく事は出来なかった。まず理性を示さなければ性分が許してはくれないのである。さもなければ、「彼女は彼女でいられない」のだから。
 だがそんな遠回りの、一見すると面倒な性格すら、彼は愛しいと思い始めていた。「それがセレーネだから」という理由だけで、頷く事が出来るようになっていた。
「あっ! もしかして、それであの時?」
「うん……ゴメン」
「そう、だったのか……すまない。いや。本当に、申し訳ありませんでした。私の勝手な思い違いで、貴公を……」
 そんな事、気にしないで。そう言おうと思っていた。指輪を取り出した時点で、こうなる事は必然であったから。実際、彼に彼女を責める気持ちも無かったのだ。誤解が生じたのは、自分の想いが十分に伝わっていなかったせい。むしろそれは、彼女を想う気持ちが足りなかった自分の落ち度だと思っていた。彼女の全てを信じ切れなかった自分を恥じ、謝らなければならないのは自分の方なのではないか、とさえ彼は感じていた。
 しかし。いや、だからこそ彼は言わなかった。今、彼女に。自らの過ちを悔い、ひどく落ち込んだ表情を浮かべる彼女に「気にするな」と言っても、それが彼女の心に響く事はない。反対に、自分との距離を感じさせてしまうかもしれないと、彼は思っていた。
「君の誕生日には、ちゃんと本物をプレゼントするよ。ラピス・ラズリ。君の誕生石だったよね」
 そんな事よりも、今自分がすべきなのは彼女を信じる事であり、それを彼女に示す事。彼の言葉に、もう迷いや弱さは無かった。
「……十二月の誕生石は、トルコ石かジルコンでしょう?」
「僕がもといた国では、ちょっと違うんだよ」
 彼女の顔からは、いまだに反省の色が消えない。しかし、明らかに何かが変わり始めていた。口元に、うっすらと頬笑みが浮かんだ。
「ありがとう。それに」
 彼女の表情からも、迷いが消えた瞬間だった。
「……ありがとう」
 セレーネ様のお好きなもの、それは異国より伝来した「祭り」と呼ばれるものです。それは毎年夏になると民達によって催され、多くの店棚が立ち並ぶと聞いています。私は話を伺っただけなので詳細は分かりかねますが、セレーネ様によれば、何もかもが輝いているとの事でした。そこにあるものはもちろん、人々の表情もいつになくキラキラ輝いていると。今も思い返せば温かい気持ちが溢れるのだと、セレーネ様には珍しく、満面の笑みで語っておられました。
 それが、彼がセレーネのメイドから聞いた事の全てだった。
「でも、彼女には謝らないと」
「何を、ですか?」
「約束してたんだ。君には黙ってるって」
 「そう、ですか」と納得した後、彼女はクスリと笑った。指にはめたおもちゃの指輪を見つめそして、「あの子らしいな」と、再び笑った。
「それに、君にも」
「え?」
「騎士として誓った約束を破るのは、君への裏切りだから」
 しまった、と彼は思った。また眉尻を下げたから。だがそれは後から思えば、杞憂だったのであろう。その直後、暗闇に染まる街の方を見つめ、耳を真っ赤に染めながら、しかし彼女は精一杯声をいたずらにして言ったのだ。
「きっ、貴公は今私に、騎士として対峙していたのですか? 私は……私は、違うのに」
「セレーネ……」
「彼女も、私との約束を破ったのです。お互いさまという事でしょう」
 ただ、嬉しかった。自分達の間にあった様々な障害が今、消えた。初めて彼女が、真の意味でまっすぐに剣を振るってくれた。やっと自分は、一番大切だと思える人を見つけられたんだ。見上げると、そこには満月があった。そしてその影の先には、彼女がいた。そっと笑っていてくれた。風になびく金色の前髪をかき分けて、その真っ白な頬に、彼は優しく触れた。


 佐藤殿。その……一つ、頼みを聞いて欲しい。
 頼み?
 貴公が嫌なら強制はしない。だがもし良かったら、その……私と――
 ダメ。順番が違う。
 へ?
 そんなんじゃ、僕は誓えないよ。
 あっ……そうか。それなら。


 隆将。これからも、共に歩いていって欲しい。私は私のまま、それでいてなお、あなたと笑い合っていたい。
 君らしいね。随分遠回りだ。
 隆将、私は――
 セリー、僕は君が好きだ。この気持ちは、いつまでも変わらない。
 タカマサ……ありがとう。


 ンっ……


 ~fin~
 


タイトル通り、ちょっと長いです。すみません。でも自分としては正直、これでも少し足らないかな、と思ってます。ラブストーリーは長くなっちゃいますね、やっぱり。

さて内容ですが……好き放題書かせていただきました(笑)
ただ、これまでの作品(と言ってもそんなにありませんが……)と比べると、よりよいものが出来たと思います。是非感想をお聞かせください。

なおこの作品は、今後行われる名工大の方々との交流に使用される事になっています。参加される方々は事前に読んでおいていただけると嬉しいです。

最近あまりアップ板の作品を読めていないのにも関わらず、「読め!」と言うのは心苦しいのですが……すみません、今日はもう眠いです(笑)
明日以降、必ず読ませていただきます。失礼いたしました。

最終更新:2012年12月22日 01:02