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「読み」の国通信 もしくは 単なる独り言

2006年01月27日(金)18時04分-Κ

 

 「泣き虫」カート・ヴォネガットの話でもしようか。だれそれ? という人もいるかも知らんけど、プロフィールとか主な作品とかはインターネットで調べればわかるんだから、書かないからね。
 ヴォネガットは逆説的な作家だ。彼は、普通は小説に書くことを書かずに、普通は小説に書かないことを書くことにより、他の普通の作家たちが書けなかったことを書いた。それは人生だ。
 彼は小説の登場人物たちの内面を書かなかった。時々書くことはあっても、ほとんど書かなかった。彼はキャラクターを操り人形として書いた。もしくは「ロボット」として。けっして、ある種の小説のように、内的省察とか自意識とかで豊か過ぎる内面は書かなかった。一昔前の評論家が言うような、「血肉の通った」登場人物は決して書かなかった。なぜだろう? それはきっと、ヴォネガットの目には現実の人間がとても「血肉の通っ」ているとは見えなかったからなのだろう。もし「血肉が通っ」ていたら、なぜアウシュビッツが、ドレスデンが、広島が、ありえただろうか。街へ出て、道行く人々を見ればよい。みんなロボットじゃないか!
 ヴォネガットは自らの操り人形である登場人物を酷い目にあわせる。気を狂わしたり、記憶喪失にさせたり、たいした意味もなく殺したり、何の意味もなく水星に遭難させたり、etc。それをみて、ヴォネガットは笑う。でも目は笑っていない。涙ぐんでさえいる。おそらく、何の意味もなく酷い目に会った現実の人々の顔が浮かんでいるのだろう。そしてヴォネガットはつぶやく。
 「ときどきわたしは、創造主の考えがわからなくなる」
 彼は『タイタンの妖女』のなかで、近代以降誰も思いつかなかったことをやる。小説の冒頭で、その小説のあらすじを書いてしまうのだ。主人公格のコンスタントは事故により時空を超越した存在になってしまったラムファードにより、予言を受ける。彼は火星でラムファードの妻と家畜のように番わされる。その後彼は水星に行き、もう一度地球により、そして最後はタイタンに行くだろう。コンスタントは信じないが、結局すべてこのとおりになるのである。これはまず小説全体に奇妙な効果を及ぼす。普通のSF小説は困難な事態を登場人物がどう克服するかを興味の中心におく。ところがこの小説は事態のほうが、登場人物をどう征服するかを興味の中心においているのだ。「このあとどうなるか?」ではなく「どうやって結局そうなるのか?」というわけだ。そしてこれはヴォネガットの人間観人生観もあらわしている。人間観のほうは、さっきの「人間=ロボット論」だ。人生観のほうもそう珍しいものじゃない。「われわれの人生はなるようにしかならない」。安易な宿命論に聞こえるって? まったくそのとおりだと思うよ。陳腐ですらある。でもヴォネガットの小説はすべてこのことについて書かれている。繰り返し、繰り返し。くどいほど。いつまで同じこと書いてるんだろ? っていいたくなるほど。
 宿命があるにしろなんにしろ、その宿命について我々は自分で知ることはできない。『タイタンの妖女』に含まれるもう一つのテーゼは「自分より下のレベルの存在の宿命ならわかる」ということだ。この世界を超越したラムファードには、コンスタンツの宿命がわかる。それどころか、その宿命を操作することすらできる。じつはラムファードは、コンスタンツを利用して愚かな行いを続ける人類に、平和をもたらそうとしたのであった。もちろん酷い目にあう当人であるコンスタンツはそんなこと知るはずもない。
 ギリシャ悲劇だったら、ここら辺で終わっているだろうが、ヴォネガットは続ける。実はラムファードもさらに上のレベルから操られる存在に過ぎないことがわかる。実は地球上の生物の一切合財が、タイタンの上に不時着したトラルファマドール星人の宇宙船の落ちた部品を火星からタイタンまで届けるために因果法則を調整して作られたものなのだ。もちろん、その宇宙船もある任務の途中であり、乗組員のロボットはその任務を知らない。その任務が明かされるとき、読者はそのあまりといえばあんまりなくだらなさに笑えばいいのか泣けばいいのか………
 ヴォネガットにおいて世界は絶望的に下らない。宇宙からどうすれば戦争を無くせるか、どうすればガンを治せるかを地球人に教えるためにやってきた宇宙人。彼の円盤が着陸したそのちょうど近くで火事が起こっていた。その宇宙人は燃え盛る家に飛び込み家主に危険を知らせようとする。しかしなんとその宇宙人はタップダンスとおならで会話する種族だったのだ。宇宙人は踊り、家主はゴルフクラブでそいつの頭をぶん殴る。笑えばいいのか、泣けばいいのか。
 ヴォネガットはこの下らない世界が、どうしようもないこと、変えようも無いこと、これからもずっとくだらないままであることを表現するために、いくつもの手法を開発する。結末の不可避性を強調するため、最初に結末を明かしてしまう、という手法を、『スローターハウス5』や『チャンピオンたちの朝食』で使っている。『スローターハウス5』では主人公ビリー・ピルグリム(意味深な名前)がある事故で時間の流れからはみ出してしまったため、小説のプロットは青年時代から、中年へ、次は少年時代へ、そこから第二次世界大戦下のドイツへ、今度はトラルファマドール星へと、何の脈絡も無く、ビリーの人生のランダムな時点へと飛ぶが、不思議に読みにくくない。なぜなら読者はすでにストーリーへの興味を放棄しているからだ。なるようにしかならない世界でどんなストーリーに興味を持てというのか。さらに、この小説では死者が出るたびに「そういうものだ」というリフレインが起きる。我々が世界について言いうる唯一のことは「そういうものだ」だけであるかのように。
 『チャンピオンたちの朝食』にもストーリーというほどのストーリーは無い。ある売れないSF小説家がある金持ちに出会い、それによって金持ちは気が狂う。それだけだ。ではこの小説には何が書いてあるのか。それはこの二人が出会う人物のどうでもよいようなディティールだ。ペニスのサイズ。一ヶ月に経験するオルガスムスの回数。誰彼の踏んだ犬の糞は、実は作者の知り合いの犬の糞であること。人が麻薬を注射する注射器がどんな格好か。けつの穴がどんな格好か。作中でヴォネガットが言っていることを引用してみる。
 「わたしはビアトリス・キーズラー(作中のゴシック小説家)を、人生には主役と傍役、重要なディティールとそうでないディティールがあること、そこには学ばねばならない教訓と通過しなければならないテストがあり、また、発端と中間部と結末があることを、人々に信じさせるためなほかの旧弊な物語作者たちと手を組んだ人間だと思う。」
 「なにがアメリカをこんなに危険で不幸な国、実生活でなにもすることのない人々の集まった国にしているか、いったんそれを理解したとき、わたしはストーリーテリングを避けようと決心した。人生について書こう。どの人物にも、ほかの人物とまったく同じ重要性を与えよう。どの事実にも同じ重みを持たせよう。なに一つなおざりにはすまい」
 そしてヴォネガットはそれを実行する。それにより彼は、人間たちがみな哀れで愚かで滑稽で、しかもみな健気で美しいことを書こうとするのだ。彼はこの小説では「その他いろいろ」を繰り返し繰り返し使う。「ひとびとを扱ったすべての物語にふさわしい結末」はそれ以外にありえないからだ。それ以外の結末はすべて、語るべきことを語らなかったということにより、語られなかった人々を無視したことにより、偏った書き方であり、嘘だからである。しかし、すべての人々について、すべての事柄について語るのは無理である。ヴォネガットはジェイムズ・ジョイスの偉大な袋小路を迂回するために、断腸の思いで書く。「その他いろいろ」
 彼は嘘が嫌いだ。彼の小説が少し変なのは、できるだけ嘘を言いたくないからだ。でも彼は知っている。我々は嘘しか言えないことを。嘘を言うほかに、我々はしゃべり方を知らないことを。だからヴォネガットは、彼の思想のマニフェストである『猫のゆりかご』の冒頭に書く。
 
 本書には真実はいっさいない。
 「を生きるよるべとしなさい。それはあなたを、勇敢で、親切で、幸福な人間とする」
             ―『ボコノンの書』第一の書五節
 
 ちなみに、『ボコノンの書』というのは『猫のゆりかご』の中に出てくる本の名前で、ヴォネガットはエピグラフとして作中人物の言葉を引用することを(特に初期は)やる。しかも、その人物は作中でそんなせりふ言っていないのだ。これではまるで、その作中人物に作品の外での生活があるみたいだ。
 つまりヴォネガットにとって、登場人物は操り人形であると同時に、生きている一人の人間なのだ。「血肉が通った」といってもよい。それは人類全体がヴォネガットにとって、「血肉が通っ」手いると同時に操り人形に過ぎないのと相似になっている。ヴォネガットはフィクションの登場人物とは何なのかを極めることにより、現実の人間について考えようとした。またフィクションとは何なのかを極めることに現実について考えようとした。嘘から真をひねり出そうとした。(そういう意味で、彼の作品は一種のメタフィクションになっている)
 もう一度言おう。カート・ヴォネガットは逆説的な作家だ。彼の作品は普通「ブラックユーモア」と呼ばれるが、それにもかかわらず、彼の作品は「泣ける」とも言われる。彼の作品は「癒し系」といえるかもしれない。
 もちろん普通の「泣ける」小説とはぜんぜん違う。そもそも「泣ける」小説の多くは下品だ。「泣く」という行為は判断停止を含む。笑える話は同じパターンを二度と使えないが、泣ける話はまったくおんなじ話でも泣けたりする。昔笑った話がつまらなくなることはあっても、泣けた話が悲しくなくなることはまれだ。大体人が死んだら悲しいに決まっているのに、それを使うのは卑怯だ。それに泣くという行為の押し付けがましさもある。みんなが笑っているのに一人だけ笑わなくても、別にどういうこともないが、みんなが泣いているのに一人だけケロッとしていると、どうも精神的圧力を感じる。とにかく「泣ける」とか「癒し系」の多くは驚くほど下品だ。
 しかしヴォネガットは違う。ほかの「泣ける」小説が涙をぼろぼろ流すことにより「さあ泣け」「すぐ泣け」とせかすのと反対に、ヴォネガットは必死に泣くのを我慢するのだ。そして悲惨な人間たちについてギャグを連発する。そして「笑っちゃおう」「あきらめちゃおう」というのだ。でも目は笑っていない。涙ぐんでさえいる。今にも涙がこぼれそうだ。それをみているうちに、みんな泣いてしまうのだ。
 泣くのを我慢することにより、泣かしてしまう。まさに至芸!
 そう、ヴォネガットのスゴイところは、彼が芸人であるところだ。
 彼の作品の大きなテーマの一つは「自殺」だ。彼は繰り返し繰り返し自殺について書いてきた。この腐れきった世の中に失望して死んでしまっても誰が彼を攻められようか。太宰治は自殺した。カポーティも自殺した。ブローティガンも自殺した。その他いろいろ。
 でも、ヴォネガットは生き続けた。そして一時にパワーは落ちたといわれながらも、作品を発表し続けた。それはひとえにこの人が芸人だからではないだろうか。
 同じように1960年代後半に若者の間で熱狂的に受け入れられたヴォネガットとブローティガン。ブームが去った後もヴォネガットが作品を発表し続けたのと対照的に、ブローティガンは社会の表舞台から姿を消し、孤独な生活を送り、自宅で自殺しているのを死後一ヵ月後に見つかった。その違いは、ヴォネガットが嘘を嘘とわかっていながら言うことができたからではないか。嘘はあまり言いたくない。でも僕らは嘘なくして生きていけない。だったら素敵な嘘をつこう。
 「思うんだがね、あんたたちはそろそろ、すてきな新しい嘘をたくさんこしらえなきゃいけないんじゃないか。でないとみんな生きてくのがいやんなっちまうぜ」
 ヴォネガットはしぶとい。良いことだ。会った人が言うには、ジョークをよく言い、よく笑うおっさんなんだそうだ。僕はなんだか、アウシュヴィッツの中でもジョークを忘れなかった人のことを思い出す。平坦な戦場で僕らが生き残ること。
 このおっさんも八十超えたはずだし、そろそろノーベル文学賞でも上げたらどうだろうか。世界初のペーパーバック出身のノーベル文学賞受賞者。早くしないと死んじゃうぞ。
 
 関連書籍
 『プレイヤーピアノ』カート・ヴォネガット・ジュニア(ハヤカワ文庫SF)
 カート・ヴォネガットのデビュー作。すべての人間の将来がコンピュータで決まる未来社会を描いた反ユートピア小説。まったく持って普通に書かれた小説。でも「人間と機械」とか「うまく行かないということ」など後のヴォネガットのテーマがすでにそろっている。また、コンピュータによる管理社会というアイディアを1952年に書くのはかなり早い。さすが一時期ジェネラルエレクトロニック社に務めていた経験が生きてる。しかしここに描かれる社会は『1984年』のような暗さはないけど、妙に明るくて、「さあ、みんなでがんばりましょう」的押し付けがましさなどは、今の社会もこうだよな、という感じを受ける。
 『タイタンの妖女』カート・ヴォネガット・ジュニア(ハヤカワ文庫SF)
 爆笑問題の大田光お薦め! 村上春樹も涙した(らしい)! 僕は爆笑!
 とにかくむちゃくちゃ面白い。もうこれ以上何も言いたくないくらい面白い。
 『猫のゆりかご』カート・ヴォネガット・ジュニア(ハヤカワ文庫SF)
 この作品を、伊藤典夫(高校時代からSFファンの中にこの人ありといわれていた天才)がこの文章で訳さなかったら、村上春樹はなかったかもしれないと、どこかで誰かが書いていたのを呼んだことがあるような気がする。
 冒頭は「わたしをジョーナと呼んでいただこう」で始まるんだけど、この時点ですでに、二つの超有名な文学作品からの引用がなされているんだけど、わかりますか?わかっても何もあげません。
 ヴォネガットの出世作。
 『スローターハウス5』カート・ヴォネガット・ジュニア(ハヤカワ文庫SF)
 時の流れを持ったくランダムに書きながらほとんど読みにくくないという、奇跡のような本。これには映画版もあって、それも時間を切り刻んでいるんだが、これってすごいことだよ。小説ではいくつかの成功例があるけど、映画では時間をいじくるとなかなか成功しない。それは、小説はページを逆にめくって読み直したり、ある部分で立ち止まって考えたり、メモしながら読んだりできるけど、映画ではなかなかそうはいかないからだ。でもこの映画はぜんぜん見にくくない。お薦めだよ。
 『チャンピオンたちの朝食』カート・ヴォネガット・ジュニア(ハヤカワ文庫SF)
 いろんなヴォネガットの作品に登場するSF作家キルゴア・トラウト(実在のSF小説家シオドア・スタージョンがモデルとか?)が主人公の小説。ヴォネガットの社会風刺性が一番直接的に出ている本。環境汚染、金権主義、コマーシャリズム等にびしびし発言するヴォネガット。そういやあ、他の本だって、風刺として読めるものだったんだとこれを読んで気がついた(少し気づくのが遅いかもしれない)。日本の文学の弱点は質の高い風刺を産めなかったことだ、なんて言ってみたりして。ヴォネガットの味のあるイラスト多数。
 『スラップスティック』カート・ヴォネガット(ハヤカワ文庫SF)
 この作品からジュニアがとれるけど同一人物である。意味はよくわからない。ハイホー。
 そしてここら辺から、急にパワーが落ちる。ハイホー。
 『貝殻の上のヴィーナス』キルゴア・トラウト(ハヤカワ文庫SF)
 ヴォネガットの作中人物のはずのキルゴア・トラウトが実際に小説を出した?もちろんそんなはずはない。この作者の正体はSF作家のフィリップ・ホセ・ファーマー。彼はスランプで小説がかけなくなって、スランプ脱出のため、ヴォネガットの作品『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』の中に出てくるキルゴア・トラウトの作品の一部を利用して、長編小説を書いたのだ。物語は人生の意味を求めて宇宙を冒険する話で、確かにヴォネガット風味。
 『スカーレティンの研究』ジョナサン・スウィフト・サマーズ三世(講談社文庫『世界SFパロディ傑作選収録)
 『貝殻の上のヴィーナス』を出した後、ファーマーは他のトラウト作品も書こうとしていたんだが、そこで問題が発生。最初はOKを出していたヴォネガットが急にだめだといい始めた。どうも、『貝殻の上のヴィーナス』をヴォネガットが書いたと勘違いした人間が大量に発生してストレスを感じていたらしい(インタヴューを読むとかなり怒っている)。しかしファーマーはまだノイローゼから脱していない。そこでファーマーは、『貝殻の上のヴィーナス』の中に出てくる小説家ジョナサン・スウィフト・サマーズ三世(ふざけた名前)の小説を書くことにしたのだ。それがこの作品。内容は題名を見ればわかるようにシャーロック・ホームズのパロディで、しゃべる犬が主人公。さらにファーマーは調子に乗って、この作品の中に出てくるハリイ・マンダースの作品を書き……という風に永遠に連鎖を続けようとした……のかはよくわからないのだが、こんなふざけたことを繰り返しているうちに、ファーマーは無事にノイローゼから立ち直り、自分の名前で作品が出せるようになりましたとさ。めでたしめでたし。
 『百億の昼と千億の夜』光瀬龍(ハヤカワ文庫JA)
 ものすごく苦労したうえで、このオチかよ! というのが、効果を成しているという意味で、ヴォネガットと共通している。この作品の場合、オチのくだらなさが無常観をかもしだすのである。日本SFに燦然と輝く傑作。アメリカ人に読ませてやりたい。なんと、キリストが適役として出てきて、仏陀とビームを打ち合うのである。無茶苦茶面白いです。萩尾望都のマンガ版もある。
 『虚人たち』筒井康隆(中公文庫)
 『脱走と追跡のサンバ』同著(角川文庫)
 『夢の木坂分岐点』同著(新潮文庫)
 小説の登場人物であるとはどういうことかを、ヴォネガットより露骨な形で追求したメタフィクション群。『虚人たち』の冒頭にはせりふの中に、ヴォネガットの小説の題名が折り込まれている。筒井康隆の到達点を見ておけ。
 『銀河ヒッチハイクガイド』ダグラス・アダムス(河出文庫)
 ヴォネガットの影響をかなり受けている爆笑SF。宇宙の究極の問いの答えはなんと………これ以上は言えない! そして人間はこれまで地球で二番目に知能の高い生物だと思われていたが、なんと本当は三番目だった?
 最近河出文庫で新約で出ましたが、カヴァーがダサい! 昔の新潮文庫版のほうが絶対かっこいいって!
 『あなたの人生の物語』テッド・チャン(ハヤカワ文庫SF)
 この短編集の表題作が、ヴォネガット風味。
 この人、作品数が少ない代わりに、どの作品も恐ろしく完成度が高く、また面白い。
 「テッド・チャンを読まずして、SFを語るなかれ」(グレッグ・ベア)


やるやる言ってた書評をようやくup。

できれば続けたいけど、どうなることやら。

関連書籍は新たに読んだり思い出したりするたびに増えます。

 

最終更新:2012年12月28日 22:07