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ヴァージンロード

2006年04月18日(火)15時10分-きんぴらごぼー

 

   1


 売店横のベンチに座って電光掲示板のぶつぶつした文字を眺めていると、我々の特急スーパーやくもが厳粛な空気のうねりと共に、その巨体をプラットフォームに滑り込ませる。オレはもう一度バッグを開いて保険証と判子の存在を確認する。そしてバッグを閉じる。やくものドアが開く。

 禁煙車両の自由席に腰を下ろし、買っておいた500mlペットボトルのウーロン茶を一口分だけ飲み込む。七月の終わり。車両はすいている。かすかに響く機関音。心地よい冷気。今、ここにある『旅の始まり』。窓ガラスの向こう、さっきまでオレが座っていたベンチに一羽の鳩が舞い降りた。鳩は首を上下させながら三歩進んで踵を返した。オレと鳩は見つめ合った。
 我々の特急スーパーやくもはその荘厳なる巨体を発進させる。鳩は見るみる小さくなる。差し込む朝日。遠ざかるSATY。遠ざかる川の向こうの平べったい町並み。
 我々の雄大なる特急スーパーやくもの揺れの激しさはちょっとしたものだ。松江駅で買った牛乳が米子駅に着く頃には立派な生クリームに、岡山駅に着く頃には一人前のバターへと変貌を遂げるくらいだ。
 しかしオレは乗った。この霊験あらたかな特急スーパーやくもに。この異国情緒溢れる特急スーパーやくもに。三日分の下着と、ランチのTシャツ(おしゃれ着)と、『微分方程式入門』と、保険証と判子とウーロン茶をバッグに詰め込んで、満を持してこの格調高き特急スーパーやくもに乗り込んだ。昨日の夕方に電話をかけてきた父が、母方の祖母の死を告げたからである。

 祖母が死んだということを聞いても、必要以上の悲しみは感じなかった。成人式で地元に帰ったときに、癌だということは聞いていたし、そのときに何度か見舞いをしたのだが、確かにもうそれほど長くはなさそうだった。だから特に驚くべきことは何もなかった。祖母の子も孫も、彼女の死を受け入れる準備を進めていた。交通事故だとか自殺だとか、最後の力で犯人のイニシャルを書き残して死んだとかいうのとはわけが違うのである。それになんといっても、老人というものは放っておいてもどんどん死んでいくものなのだ。
 或いはあの鳩はこう言いたかったのかもしれない。
「星はめぐり、唄は遠のいて、人は死ぬ」

 人が死ぬと葬式が執り行われ、松江の大学に通っている孫が由緒正しき特急スーパーやくもに乗り込む。それは物事のあるべき姿だ。あるべき姿――――
 例えば二十年前には四万人を超えていた人口が、今年とうとう二万人台を割り、JRの廃線が決まったことも過疎地としてのあるべき姿だとすれば、長年もめていた原子力発電所建設の問題のせいで、周囲の市町村の合併候補からことごとく外され、ついでに原発の撤退が決定して市の財政がお先真っ暗なのも時代の流れとしては、あるべき姿ともいえよう。
 あれほど綺麗だった女の子達が、十把ひとからげの厚化粧女になって、どこの馬の骨とも知れぬ外の男に抱かれるのもあるべき姿だし、知り合いが次々とできちゃった婚を(ろくな稼ぎもないのに、何かを成し遂げたわけでもないのに)していくのもあるべき姿だ。 
 そういったさえない一連の出来事がオレを地元から遠ざけるのもあるべき姿である。何も好き好んで人生のみじめな部分を直視する必要はないし、オレにはちゃんとやるべきことがある。オレは割と頭がいい上に、努力家で、女にももてる方だ。地元に帰る必要はない。

 まだ高校を卒業したばかりの頃は地元というものを、成功し、祝福された人間が最後に帰る場所のようなものとして考えていた。しかし、どのような人間でも二十一にもなれば気付くように、地元というのは要するに、身内に葬式が出たときに帰る場所である。 




   2


 岡山駅で新幹線に乗り換え、大阪駅でもう一度特急に乗り換え、県庁のある街で更にバスに乗り換えて山道を揺られること三時間、やっと地元に辿り着いたときにはもう日が暮れかかっていた。バス停に父が迎えに来ていた。
「去年、うちのじいちゃん(父の父)が死んで、一昨年は寺家のばあちゃん(母の母の母)が死んで、その前は蛸島のばあちゃん(父の母の母)死んだやろ。なんかもう、ばたばた死んでくよね」
「ほんなもんねんがよ。自然と、周期てができるげんがよ。親戚のもんがたて続けに死ぬような。でも、ほんでもうしばらくは誰も死なんわいや」
「そうなんや」
 オレの地元は半島の先端で、海と山に挟まれている。海沿いに街が細長く連なっているため、絶対に道に迷わない、というのがセールス・ポイントだ。
 まず実家に寄り、祖母(父の母)に顔を見せ、まだ中学三年生である弟がオレの身長(178cm)を上回っていることによりも金魚が錦鯉並みの成長を遂げていることに驚き、荷物を置いて再び車に乗り、海岸沿いの道を母の実家に向かって進んだ。
 オレが通った小学校があり、漁港があり、ハマグリが取れる砂浜があり。
 オレはそんな道を行く中で、昔、母から聞いた祖父(母の父)の話を思い出していた。

 祖父は母の実家の周辺では昔から有名だったらしい。祖父は若い頃、働き者で家族思い、そしてとんでもなく酒癖が悪い男だった。酔っ払うと外に出て行っては、野良犬や、電柱や、風に向かって「バーロぶっかけたろかい!」と叫んでいたという。ちなみに「バーロ」とは肥料として使う糞尿のことである。
 オレの記憶にある祖父は、そんな手に負えないような馬鹿ではなく、孫に優しい、楽しい酔っ払いだった。そんな祖父もここ数年、めっきり年寄りくさくなった。それはかなりショッキングなスピードでの変化だった。その上祖母を無くしては、へたをすると父の言う周期の終わりを延長しかねない。或いはそれも、所謂あるべき姿なのだろうか? 




   3


 母の実家、川島の家の脇には四台の自動車が駐まっていた。父がそこに五台目を並べた。星空だ。広い畑。畑の上の、何もない夜の空間。遠くで水の流れる音がする。
 玄関から庭に灯りが漏れていた。柿の木が一回り大きくなっている。広い玄関に、靴がたくさん並んでいる。そういえば、靴箱の上の鳥篭はいつから空っぽになっていたのだろう?

「おお、あきカツヒコか」
「われ、でこぉなってぇ」
 それらしく線香の匂いがたちこめる座敷で、見覚えのある大人たちが集まっていた。見覚えはあるのだが、誰がどういう親戚なのかオレにはよくわからない。それは多分、オレ達が魚の名前や草木の名前を殆ど覚えずに育ったのと同じようなことだろう。
「われ男前になったなあ」
「ほんでもちょっこし痩せたんじゃないか?ちゃんとまま食っとんがかよ?」
「早よばあちゃんの顔見たれ」
 座敷は全ての戸が外され、隅々まで掃き清められていた。お祭りみたいだ。祖母は布団と白い布切れをかけて横になっている。傍らには太い蝋燭と二本の線香を立てた台が置かれている。オレは、枕もとに膝をついて白い布切れを捲くった。
「きれいな顔やろ。入院は長かったけど、最後はほんなに苦しまなんでん」
「でも痩せたよね」
「ほんとに」
 祖母は少しだけ不満そうな困ったような表情で目を閉じていた。オレ達が家の中でカクレンボなどをして騒いでいると、祖母はこんな顔で叱ったものだった。考えてみると、祖母の笑顔も他の表情も、全てはこの困った顔を基調としていたような気がする。苦労に次ぐ苦労、要するにそれが祖母の人生だったのだ。苦労することが板について離れなかった人間なのだ。
「カツヒコ、よう来てくれたな」
 叔父が奥の部屋から出てきた。
「バス着いて、すぐ来たがか?元気かいや?」
「うん。ねえ、じいちゃんどこにおるん?だいじょぶなん?」
「居間におるわ。まだ気ぃ張っとるさかい大丈夫なんやけど・・・」
 オレは居間に行った。祖父は無表情にブラウン管を眺めていた。こまめに白髪染めをし、櫛で分けていた髪は、白い丸刈りになっていた。
「じいちゃん」
 祖父の目が動いた。
「カツヒコか」
「なっとないけ?」
「おお」
 それ以上の反応は無かった。去年会ったときにはまだ、オレの顔を見て大騒ぎする元気があった。その変化は祖母の死という断絶がもたらす深い悲しみの結果とは、明らかに違ったものだった。オレ達にとっては必要だった、祖母の死を受け入れる準備、それが祖父を完膚なきまでに憔悴させきったのだ。

 出張を切り上げて帰って来ていた父と、すぐに葬式の準備を手伝いに駆けつけて来ていた母は疲労困憊のようだった。
「みんなおるし、あんたもほんなに無理せんでいいげんよ」
 親はそう言い残し、一旦引き上げていった。


 大人達は酒を飲んで、けっこう盛り上がっていた。
「兄貴(オレの叔父)な、だらみたいに酒飲んで動かんなって、どうしょうやーってみんなして慌てとったら、寺家ばあちゃんな」
 どうやら三十年近く昔の話のようだ。
「竹箒持って来い! って怒鳴るさかいに、何やろうと思ったら、何のおまじないか知らんけど、えい、えい、って兄貴の腹の上で振り回したげんぞ!」
 どっと笑いが起こった。ほんとにお祭りみたいだ。

 このようにして、通夜の主役は孫である。本家のミサキはオレよりひとつ年上であり、その弟のサトルはオレと同い年である。小さい頃はよく三人で遊んだ。近くの空家を探検したり、防砂林を越えて、砂浜で蟹を捕まえたり。しかしいつ頃からか、ミサキはオレ達と一緒に泥だらけになって遊ぶのをやめた。一緒に風呂に入り、納戸で並んで寝るのをやめた。盆や正月に従兄弟が集まると、オレとサトルはひとつ年下のヤスオを連れて遊ぶようになった。この四人が、孫の年長組である。
「じいちゃん、すっかり弱ってもたな」オレが言った。
「もう、元気にならんかもしれんわ」サトルが言った。
 そもそも祖父が目に見えて変わり始めたのは、一昨年に病気をして酒を禁止にされた頃からだった。

 昔は人並み外れて陽気な男だった。時々、缶ビール片手に農作業をしていた。孫が集まると、まとめて耕耘機に乗せ、畑でトマトや苺をかじらせたり、貯水池のバルブをちょっとだけ捻って、入れ食いの鮒を釣らせたりした。海沿いの道を延々と耕運機で進んで、古い大きな神社まで連れて行った。あの頃の祖父の、日に焼けた逞しい腕を、オレは今でも鮮明に覚えている。

 ヤスオが蝋燭と線香を取り替えた。この火を守り通すのがオレ達の役割である。
「ミサキ、ビールとって」
「はいよ」
 ちゃんとコップについでくれた。こいつも気が利くようになったものだ。
「線香は二十分、蝋燭は四十五分やな」ヤスオが言った。
「まめな奴やな」サトルが言った。
 残っている大人達は相変わらず盛り上がっていたが、我々孫ズはなんとなく気まずかった。四人も揃うなんて久し振りだし、こういう場所でどう振舞ったらいいのかもよくわからなかった。なので、四人ともただぼんやりと、蝋燭と線香を眺めていた。

「あの写真どこからとったん?」不意にヤスオが言った。
 遺影は、痩せこける前の、微笑んでいるけれどちょっと困っているような、オレ達がよく知る祖母の顔だった。
「確かね……」
 ミサキが立ち上がり、備え付けの戸棚からアルバムを取り出した。
 アルバムにはオレ達の成長がささやかに記録されていた。線香とローソクを取り替える以外にすることが無いので、オレ達は戸棚のアルバムを全部出して、写真鑑賞に耽った。サトルの弟が生まれ、オレの弟、ヤスオの妹、どんどん孫が増えていく。
「あ、神社や。これ改築前やろ?」
「よう蛙捕ったよな」
「ほしたらじいちゃんに、お参りに来た蛙捕まえたら駄目やって怒られたがいや」
「ほうやったか?」
 そのとき、どこかのページに挟まれていたらしき小さな白黒写真が一枚落ちた。いかつい顔で筋骨隆々のプロレスラーのような男が写っている。
「誰やこれ?」
 男は上半身裸で、家というか、それに類する木材をバックに、中腰で右肩を突き出している。
一同首をかしげていると叔母が、
「あんたっちゃ、これじいちゃんやがよ。後ろに写っとるがは、この家の、……どっかの部屋やな」と教えた。
 オレは言葉に詰まるくらいびっくりしていまった。いくらなんでも逞しすぎる。年は、たぶんオレと同じくらいだ。
「そういやばあちゃんって、じいちゃんの顔も見たことないがに結婚してんろ?」
「え、そうなん?」
「昔はほんなもんやってんがよ」叔母が言った。
 昔というのはつまり、五十年前のことだ。それはオレの想像が及ぶ時間ではない。モノクロームの祖父はいかつい顔で、しかし幸せそうに笑っていた。
 苦労という言葉――――それはオレが使うとずいぶん軽い。そんな気がした。オレが精一杯努力しながら生きている人間だとしても。




   4


 三人の坊主が念仏を唱えていた。喪服の群れが座敷を埋めていた。蝉の声をバックにした三人坊主の念仏は一人だけコンマ何秒かずれていた。よーく聞いているとそのずれ方には周期性があるようだった。オレは波線を思い描き、その揺れに身を任せた。何かしら、特急スーパーやくもの揺れに通じるものがある。


「寝るな、だら!」ミサキがオレの二の腕をつねった。
 オレはもうすっかり葬式に飽きていた。
 この部屋の大人達の殆どはオレの事を知っているようだったが、オレがきちんと把握している親戚はせいぜい四親等までなのだ。こんな人数でお経を聞いていても、いまいち祖母を弔っているという実感が湧かない。
 祖父はじっと座っている。どこか一点を見つめているようでもあり、それでいて虚ろだ。五十年前のプロレスラーも、今や枯草同然である。星は、めぐる。

「なあ、ミサキ」オレは小声で言った。
「ヤスオのおばちゃんの右に座ってるおばちゃんおるやろ」
「狼煙のおばちゃんか」
「のろし?ほんじゃあれ、ハルノリのおばちゃん?」
「あんた昨日しゃべっとたやろ。ハルノリこれんとかゆっとったがよ」
「そうなんか。いや、それでその、狼煙のおばちゃんの前に座っとる綺麗なお姉ちゃん二人おるよな。あれ誰かわかる?」
「だから、ハルノリの姉ちゃんやろ」
「なにい……。じゃあオレと又従姉妹? うちの親戚にあんな美人おったんか」
 オレは改めて又従姉妹を眺めた。それにしてもどうして、喪服というのはこんなに艶かしいのだろう。死と性が結びつくのだろうか。デザインの問題もあるのだろうか。それだけではないような気がする。象徴性。黒という象徴。線香の匂いがついた髪。規範としての黒。なんだかよくわからない大きなものへの服従。輝き。うなじ。
「だから寝んなや!」ミサキがオレの頭を数珠で叩いた。

 焼香を終えたとき、一番後ろに座っていた三人組の年寄りに声をかけられた。今日集まった年寄り達の中でも、ひときわ年をとっている。
「あんた、カツヒコ君か」右手前の年寄りが言った。
「はい」オレは正直に答えた。
「でこうなったねえ。昔はよお、ここら辺りに遊びに来とったやろ」左手前の年寄りが言った。
「わたしみたいな九十超えたもんが残って、まだまだ若い人が亡くなってもて、ほんとに」右が泣き出した。
「あんちゃあ、ナッちゃんとこの、子供の、カツヒコ君か」
中央の、この三人の中でもずば抜けた年寄りが言った。オレはこれほどまでに年を取った人間を見たことがなかった。皺だらけというか、全部皺なので表情を読み取れない。見事なまでにくちゃっと縮んでいて、冬のキンタマそっくりだ。
「あんちゃあ、あいすきゃんでえ、好きなカツヒコ君じゃ」
 オレはもちろんこんな婆さんなど記憶にない。
「あんたこの人、坂倉の婆やがいね」左が言った。
 坂倉とは近所の坂倉商店であろう。
「あんちゃのな、じいちゃんと、ほれからばあちゃんな、わしゃが仲人やってんや」キンタマが言った。


 そして棺が持ち上げられる。男達が、ばあちゃんを運び出す。弟が神妙な面持ちでオレの隣に来て、棺桶を支えた。こいつはもう、一人前の男のつもりなのだ。仲人立会いの葬式のラスト、ばあちゃんは五十年前に嫁いできたこの家を去る。
 喪服の男達は、靴下を床に擦るようにしてそろそろと死者を運ぶ。顎を引いて、段差に気をつけ、目は合わせずに。
 玄関にて、祖母は外に出て待っていた男達にゆっくりと手渡しされた。
 皆が靴を履き、外に出ようとしていたとき、何故か居間のテレビに気が行った。急に目の前に、昔の映像が浮かんできた。

 オレ達はアニメのビデオを夢中で見ていた。そこへ昼食の後片付けを終えた祖母が来て言った。
「わっちゃほれビデオやろ。ばあちゃんドラマ見たいさかい、後で見てや」
「ドラマぐらいいいがいや!」

 そうだ。あれはオレが言ったのだ。突然息が詰まり、涙が出てきて止まらなくなった。何故あの時オレは昼ドラを見せてあげなかったのだろう。あの日の昼ドラを。




   5


 地元で過ごす最後の日、オレ達は寺家の海岸にサザエをとりに来ていた。
 父が高校生の頃から毎年サザエを取りに来ているここは、川島の家から海沿いに車を十五分ほど走らせたところにある。この海沿いの道も僅かながら変化を見せていた。老人ホームとして改築された小学校。撤去された『原発反対!』の看板。新しいテトラポット。うらぶれた個人商店のあった場所に、大きな家。
それでもまあ、全体の感じとしては大体前と同じだ。この道をもう少し進むと、苔をまぶした長い石段のある、大きな神社が建っていて、そのすぐそばが祖母の実家である。

 冬の寒い時期、海が荒れると祖母は次の日の早朝にこの辺りにやって来て、カジメを拾った。カジメとは苦味と粘りのある海藻の一種である。店に出回るのは漁師が刈り取ってきたものなのだが、味は浜に打ち上げられたものの方が上だ。祖母が拾ったカジメを、祖父がバイクで孫達の家に配ったものだ。カジメは細切にされ、粕汁に入れられる。冬の日の朝に、これよりうまいものはない。
「そういやカジメって外で聞いたことないわ。ここらのもんしか食わんがかな?」
「だら。呼び名が違うだけやがよ」
 父は岩場をずんずん進んでいく。波が高いので、弟は母と共に、足がつく所でシタタメをとっている。浮き輪を離さないところを見ると、未だに泳げないのかもしれない。
 
オレは実は、サザエをとるのは初めてだ。小学校一年のときに、父についていこうとしてこの海で溺れかけて以来、一度もチャレンジしたことがなかった。
 履いてきた古い運動靴の底に、岩の尖った感触。もう父はあんな遠くにいる。オレは海面に水中眼鏡を浸して進む。赤黒い岩、イソギンチャク、いろんな種類の藻、小さな魚がゆらゆら揺れている。
 時折、それらしきものがいる。目を凝らすと岩肌に浮かぶ三角錐は、引っぺがすと、―――シタタメだ。オレは幾度となくその落胆を繰り返した。


「どうや、とれたか?」
「いっこもとれん!」
 すると父はこっちまでやって来た。
「見とれ」と言って、浅く潜る。父は、すぐに何かを見つけたようだ。
「ほらここ」
「え? どこ?」
「一緒に潜るぞ」
 水中で父が指し示す先に、巨大なウニがいた。そのすぐ横に、これまた巨大な塊がある。
「おった! ウニのそばに!」
「ああやって身ぃ守っとんげんがよ」
「一石二鳥や。ウニってどうやってとるん?」
「だら。あんなん食うとこないわよ。バフンウニと種類違うわいや」
 オレはもう一度潜った。シタタメとは比較にならないこの大きさ。掴む。引っ張る。とれない。思いもよらない手応えだ。オレは左手で岩にしがみつき、体を固定した。水中眼鏡が曇る。もう一度、力をこめて引っ張る。
「とれた!」
 サザエの中身はうにょっと急いで角のついた鎧の中に身を隠し、白くて硬い蓋を閉じた。巻貝の分際でやたらカッコイイではないか。
 振り向くと、もう父は遠くに行っていた。ありがとうを言うタイミングを与えないのが、あの人の特徴だった。


 波が激しくなってきたので、オレ達は早めに海から上がった。
潮の関係だろうか、ここの砂浜には実に様々のものが打ち上げられる。流木、貝がら、そして色とりどりの海ガラス。波に打たれ、砂に混ざり、長い時間をかけて丸く小さくなったガラス。それは水に濡らすと、透明さを取り戻す。
 オレは昔からこういうものが好きだった。子供の頃のオレには、女の子とか本の他にも好きなものがあった。部屋の机の引き出しや、小学校の机にたくさん綺麗な石のコレクションを入れていた。オレは綺麗なものや珍しいものを見つけるのが得意だった。そういえば、拳くらいの大きさの水晶と紫水晶を沢で拾ったことがあったっけ。岩をひっくり返したらぎざぎざの透明な石英の結晶で、あれは驚いた。どこに行ってしまったのだろう?小学校の近くの砂浜で変わった形の骨を見つけたことがあった。オレはイルカじゃないかと思ったな。お墓をつくってあげて、何日か後で掘り返したら骨がなくなっててあれも驚いた。まあ砂浜だから。

海ガラスを拾い集めていると、どこかにいってしまった古い世界と少しだけつながったような気がした。
父と母がサザエを数えていた。




   6


 我々の愛すべき特急スーパーやくもの揺れの激しさはちょっとしたものだ。岡山駅で買ったジャックダニエルの角瓶が、松江駅に着く頃には海ガラスになっているくらいだ。
 旅の終わり。窓から差し込む、焦げ付くような陽射し。オレはとうとう地元では着る機会がなかったランチのTシャツ(おしゃれ着)を汗で湿らせる。そうして今が夏だったことを思い出して苦笑する。ジャックダニエルを流し込む。旅の終わり。祖母の死によって導かれた、過去とつながる旅の終わり。
祖母の死。平凡な老人の平凡な最後。七十年前に誕生した人間の消滅。それなりに悲しく、それなりに優しく、それなりにみじめで、それなりにあっけない消滅。
 いつかオレが死んだら、オレもそのようにしてこの世界から消え去るのだろう。
 あの日、祖母は焼かれた。敷き詰められた花とともに。母は花をくべるとき、なにやら祖母に話し掛けていたが聞き取れなかった。女達があらためて泣いていた。そして親族が見守る中、棺は分厚い扉の中に消えた。不思議な静寂の中に、いつしか最後の啜り泣きも消えた。

 祖母が焼かれている間、オレ達は別室でささやかな食事を取り、ビールを飲んだ。ちびどもが騒ぎ始めた。
「従兄弟ってこんなにおったけ?」
 ミサキがビールを注ぎながら言った。
「あいつらついこの間までねんねやったんやけどな」
 祖母の孫が一堂に会したのはこれが初めてかもしれなかった。オレ達は一列に並んで点呼を取った。ミサキ孫1、オレ孫2、最年少はヤスオの下の弟である、ケンゴ孫10だった。

 祖父は隅の方でぼんやりと茶を飲んでいる。大人達がかわるがわる話しかけて、元気付けようとしている。でも殆ど反応がない。うんとかああとか、言ってるような言ってないような。
 ここはオレが行くべきだろう、と思った。孫のリーダー格であるオレが。それに、今度帰省するのは何年先になるかわからない。そのときまで祖父が達者にしているという保証はない。オレはどうしても今のうちに、祖父に聞いておきたいことがあったのだ。

 オレは祖父の横に座り、耳元でゆっくりと言った。
「坂倉の、婆が、仲人、やったんやろ」
 すぐに動きがあった。
「ほうや、あの婆がの」祖父がはじめてまともに喋った。
「馴初め聞かせてよ」
「馴初めてゅうたって何も無いわよ。俺が坂倉の婆に嫁ほしいて頼んで、坂倉の婆が寺家の婆と話して決まったんや」
「じゃあ、じいちゃんもばあちゃんのこと知らんかったんけ?」
「ほんなだらな。俺は学校で何べんも見たことあってんがよ。ほんで、坂倉の婆に頼んだんや」
 祖父は顔を上げて言った。頬に赤味が差していた。
「カカァ、若い時分なえらい別嬪やんてん。薄く、紅でも塗ったらもう」
 祖父はそう言って、ようやく笑った。
「会うとき不安じゃなかったん? 話したことも無かったんやろ? 家だって壊れかけの牛小屋の焼け跡みたいやったやろ? 幸せにする自信あったん?」
「ほんなこと考えんわよ。おりゃ、うれしゅうて、箪笥とカカァ一緒にリヤカーで引っ張って、寺家から走って帰ったわいや」


 それが物語の始まり。白黒写真の時間の向こう、五十年前に二人は結婚した。
 あの、長い長い石段のある大きな神社で式をすませ、若い二人を祝福した親戚たちは帰途につこうとする。
 突然、祖父が羽織と袴を脱ぎはじめた。若者の、太い美しい肉体がふんどし一丁になる。周囲があっけにとられているのも構わず、若者はこう叫んだ。
「セイコさん! リヤカー乗らし!」
 日本髪に飾り、紅を塗った花嫁はためらいながら、そっとリヤカーに乗り、ロープに掴まって箪笥の横にちょこんと座った。
「ヨシオさん、酔うとんがか?」
 寺家ばあちゃんが竹箒を握り締める。
「ほぞこくなま、このだら!」
 坂倉の婆が慌てて止めに入る。
 祖父は走り出す。一族郎党が追いかける。
 リヤカーはぐんぐんスピードを上げていく。
 ばあちゃんはそのとき何を思ったのだろう。そのときどんな匂いの風が吹いていたのだろう。リヤカーの上から見た寺家の海は輝いていただろうか? あの困ったような顔をして、川島の家(の原型)まで続く海岸沿いの道を、その先にある数々の苦労と、三人の子と十人の孫を予感していたのだろうか。
 祖父の高らかな叫びが聞こえた気がした。
「バーロぶっかけたろかい!」

 さえない物語の続きを運ぶ特急スーパーやくもが県内に入った頃、オレはうっつらまどろんでいた。
 


もしどこかでこれを読んだことがある人がいたら、知らん振りしといてください……orz
 

最終更新:2012年12月30日 09:53