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掌編三つ

2006年05月07日(日)01時16分-如仁

 



 世界が終わったしるしにお前は私に会った筈だ。
 誰が私に会ったのだろう。あの街に通じる一本の道の上で誰が私に会ったのだろう。
 それは私だ。
 私は私の後ろから来、私の先へ歩いて行った或る者に出会った、それが誰であるか私は知っている。それが何を意味したのか私は知っている。 福永武彦


 なめらかな

 聞こえているのは風の音だ。
 彼はふと思う、感覚など失せてしまえばいい。聴覚は邪魔なものだ、舌や鼻なんてもってのほかで、この両目すらいらないかもしれない。彼が欲したのは皮膚感覚だった。体の表面から離れ、水銀のように世界を映しそして不定形に、ある部分は尖り、またある部分は内側へと潜り込むような、滑らかで鋭敏な感覚が欲しい。
 そう思った。
 風の音は、徐々に消えていく。
 彼は小さなころは風船になりたかったことを忘れている。息を大きく吸い込み、ぐっと体中に力をこめると、皮膚がぼわんと膨張し、風船のようにふわふわと浮かんでいられると思っていた。そんな彼のたくらみは、酸欠と鼻血によって終わってしまった。
 忘れてしまっている。何しろ、彼の鼻に詰められたティッシュは、捨てられてしまったから。
 また、ざわざわと風が鳴る。
 彼はある場所を目指していた。
 ものすごいスピードで移動している彼の耳に、一匹の虫が入ろうとした。小さな羽虫だ。羽虫は耳の穴をひょいと覗き込み、そこに流れている凶暴な音楽に驚いて飛びのいてしまう。体全体を揺さぶるような重低音。それは血管を拡張させ破裂させようとしている血液のパルス。
 彼はその音を聞いている。
 体中からの乱暴な悲鳴のようで、血液など止まってしまえ、と彼は思う。かわりにアクエリアスでも詰めこめられれば良いのに。そしてそのままは虫はどこかへ行ってしまう。羽ばたくことも無く、ポトリと。少しばかり平衡感覚が狂って、うっかり鳥か何かに食べられてしまうかもしれないが、今は関係ない。
 世界にたった一人だけの気分。
 自分だけ。
 彼は山道を自転車で登っている。ペダルが一漕ぎごとに軋み、音を立てる。ライトはつけていない。瞳が闇に慣れてしまっている。時折の街の光が視界の中にぼんやりとした白い染みを作ってしまう。光というのはわりと濁っているのだな、と彼は思う。
 純粋結晶が、脆く弱いといったのは誰だ。
 彼らは、生まれながらにして庇護を得ることが出来るのに。
 夜はすでに更け月明かりが満遍なく下界を仄かに照らしている。山には広葉樹が多く、光は遮られがちだが、彼の視線は迷うことは無い。
 ガシ、ガシ、チェーンが歯車をがっしりと噛み、駆動する力を伝えていく。心臓から送り出される血流が、足の裏を抜け、自転車にまで通じているような力強さだ。
 こめかみを伝う汗が、飛び散った。汗滴は着地すると、音を立てて弾けた。
 天空から降り注ぐ黒い粒子が、音を絡めとり地面に押さえつけているようだ。しんとした空気のなか、風が作り出す葉擦れのかさかさと言う囁きも、飛び出すと暗い空気に圧し掛かられて地面に落下する。時々跳ねると、ガードレールにコツーンと当たる。
 もちろん、ぶつかるときは三方向に星が散る。レモンイエローの星が散る。
 息は荒い。のどの奥に糸か何か絡まってしまった気分で、呼気の奥のほうにちろちろと揺れるのは、ほつれたボタンの所為なのだ。ふとそれに気づき、漕ぐ足を緩める。シャー、と空転する音。こめかみがずきずきと痛み、まぶたが絞られるようにして自然と閉じてしまう。体が熱かった。
 とん、と足を突き、ハンドルに額をつける様にして、呼吸を落ち着けようと、深く息をつく。咳き込んだ、彼は目を瞑っているので良くわからないがきっと糸の欠片をいっぱいに吐き出しているだろう。それを辿っていくときっと誰かの臍の緒にたどり着くのだ。証拠は無いけれど。
 彼は自転車から降り、それを押してまたさらに上り始めた。道は右に緩やかにカーブし続いていく。ソフトクリームの山を登っているかのように。彼の肩に黒い粉が降り積もっていく。時々掃うと、一瞬光り、路面に降り注ぐ。よく見ると、それらの残骸がアスファルトに積もり、タイヤとスニーカーの跡が続いている。
 この先通り抜け出来ません、そう書かれたゲートは、剥げたオレンジ色で、押すと開く杜撰なもので、彼はそのことを知っていた。ぎぃ、と蝶番が軋み、少し迷った後、そこに止まった。誰も閉めてくれなかったからだ。
 やがて、獣道へと彼は入っていく。その足元には虐げられた草草がある。ひどく荒れているが、ごく最近に誰かが侵入した形跡がある。枯れ枝を踏む音は靴裏から飛び出し、顔の近くを掠めると、夜の支配に侵されることなく、木々の間をさまよっていく。それらの音は山の奥深くに吸い込まれ、帰ってくることはない。
 獣道はある場所で途切れる。獣はそこまでしかいないのだ。獣はそこまでしか来ることが出来ない、獣は獣道の途切れるところで引き返すか死んでしまうかだ。
 自転車を押して歩く。そして、辿りつく。
 彼は自転車を担ぎ上げると、近くにあった木の幹に放り投げる。彼は体格の良いほうではない。よろめき、しりもちをつく。自転車はかしゃんと弱弱しい音を立て、地面に落ちる。
 彼は荒い息をつきながら、転がった自転車を二度三度蹴りつける。がしゃん、がしゃん。しゃがみこんで、サドルをはずすと、それを更に遠くへと放り投げる。ハンマー投げの要領で、ぐるぐる回ってから、いささかファウル気味に投擲をする。
 彼は笑いたがっている。
 更に破壊行動は続く。蹴りを繰り返しているうちに、スポークが変形してしまった。彼は地面に座り込み、どうにかしてタイヤを外そうとしたが手が痛むだけだった。レンチを持っていても、分解は出来なかっただろう。何しろ自転車を壊す経験なんかつんでいない。
 しばらく悪戦苦闘した後、ふと、彼は後輪に備え付けの錠をロックした。そして、キーホルダー(ユニオン・ジャック)付きの鍵を、周りにいくらでも広がっている暗がりに向けて、思い切り放り投げる。しかし期待したとおりの放物線を描くことなく、鍵はふらふらと落下していった。落下音。
 一連の行為を終えて、汗を拭きつつ、彼は衣服を脱ぐ。けっして自転車の破壊に満足していなかったがとりあえず脱ぐ。じっとりと湿ったシャツも、裾の破れたジーンズも脱ぎ散らかし、靴下はちゃんと脱ぎ(裏返しにすることなく)、ボクサーパンツ一丁になった。最後に、自転車にもう一蹴り。足の裏にスポークが食い込んで痛がっていた。
 おしまいだ、これで、おしまいだ。
 そうして、彼は色々と叫びながら森の奥へ、道のないほうへと入っていく。彼の後に道はできない。
 彼の言葉を捕まえたのは、夜空だけ。趣味の悪い冗談だらけでつまらないから、すぐに吐き出してしまった。

 三日後、衰弱した姿で彼は発見される。保護。山は静かで、風も無く、眠っているようだった。
 このようにして物語は終わる。



 Christmas Steps

 ベッドに腰掛けている。壁が白い。モノクロームのポスターだ、目隠しをして、白いカーテンの前に立っている、中性的な姿。誰だったろう。
 六畳間の天井は低くて、そこにぶら下がる電灯にはクリーム色のダックスフントの縫いぐるみが首を吊っている。女の子がこの部屋に来たときに「きゃあ可哀想」と言ったのでそのままにしてある。
 蛍光灯はオレンジ色だ。
 ブランケットは紫色、ラヴェンダーの色。ヘッドフォンからは、浅井健一の甲高い(大人になってしまった子供の)声。
 「核爆弾を搭載したB52爆撃機が、北極の近くで、行方不明になったって……」そんなことを誰かも言ってた。
 ブコウスキーだったか。

 吹雪の中を飛ぶB52は(見たこともないので、よく近所を飛んでいる自衛隊機にそっくり)エンジンから火を噴き、乗組員がパラシュートで脱出している。
 メーターは振り切れる、赤い警告灯が輝き、サイレンが響く。ぎしぎしと揺れる機体、時々、爆発音。緊急通信、エエ、エ、エ、エマージェンシィ。
 何が起こったのかはわからないが、乗組員二人のうち片一方は恐慌状態だ、もう一人が殴りつけて、さらに症状は悪化する。シートベルトがぎちぎちと張り詰め、口の端から泡を吹いている。既に黒目の部分が遠くへ飛んでいる、ハッピィバースデイの風景を見ている、テディベアを見て歓んでいる。
 外は真っ白。空は灰色。比較的まともな方は自問するだろう、これで平気か? 俺たちは、生き残れるのか? 緊急事態用のキットを携え、メーデーを発信する。
 全世界へ、全世界へ。
 全世界に存在する、僕を救うことが出きるあなたへ、
 それでも、今ここで死のうとしている僕をどうか助けて。
 彼はまず、隣のシートを強制排出。爆発とともに空中へと放り投げられる。奴は何か喚いていたがすべてはその後だ。
 そして、レバーを引く。爆発音。強烈なGが体を押さえつけ、意識を彼方へと放り投げる。吹雪だ。瞬間の冷気で体中が強張り、そして出血しているかのように、ぴりぴりと痛み始める。視界は白い、それ以外には何もない。彼が今しがた乗っていた機体が、赤い火を噴いた。雪を舐める舌のようだった。すぐに純白のスプレイにかき消されてしまう。
 心が痛んだのは、核爆弾のことではなくて、機体から流れ出る黒い油のせいだった。

 窓が開いたままだった。ふとこみ上げる寒さに身震いする。良くあることだ、そう言いながら窓を閉めた。雪が降っていたらしく、カーテンは濡れていた。床にも水溜りが、そこに浮かぶ白い欠片があった。ヘッドフォンからはもう浅井健一の声が聞こえてこない。
 しんとした空気。静電気よりも静かだ。
 空気の底に溜まるような静寂。
 遊覧船がスクリューでかき回しても、この部屋はずっと静かなままじゃないのか。
 そんな気分で、しばらく、座っていた。
 どれだったかなと思って、C・ブコウスキー「町でいちばんの美女」を開く。「政治ほどくだらないことはない」これだ、いや、違った。
 消えたのはスペイン沖で、水爆を積んだ爆撃機だった。
 成る程、と思った。それだけだった。今この時勢に、スペイン沖で水爆が爆発したって、その音に耳を傾ける奴が、いったい何人いるって言うんだ?
 ブコウスキーなら何て言うんだろう。北極で核爆弾が爆発しようとしている、今。
 
 チャイムが鳴る。目を伏せたままで、もう一度鳴るのを待った。そして。
 床は何かでひどく濡れていた。玄関には軍服の男が立っていた。顔は今しがたまで凍り付いていたのが、やっと溶けてきたみたいだ。
「お帰り」
 そういうと、彼は、
「あ、ああ、ただいま」
 と言って、洟をすすり上げた。雪まみれの姿で、顔は寒さで真っ赤になっていた。
「仕事はどうだった?」
 僕は尋ねる。
「まあまあだね」
 と彼は答える。

 ひどい吹雪だ。いや、これが普通なのか。北極の風は凪ぐことは無いのだ。彼は大昔、子供のころに読んだ、図鑑か絵本かなにかを思い出していた。World Geographicのドキュメンタリーも、思い出した。あれは、南極の話か。どちらにも変わりは無い。
 彼は顔を伏せ、その足だけをじっと見ていた。一歩ごとに雪から救出し、また沈む。すでに末端の感覚は無くなり、痺れが指先の代わりにそこにあった。徐々に広がっていく。呼吸が自然と細くなる。肺が凍った空気を拒絶している。まぶたが重くなり、上がらなくなっていく。
 彼は同僚のことをぼんやりと考えていた。俺が死ぬのなら、あいつが生き残るんだろう、そうなんだろうと思いながら、穢れの無い雪面に、ゆっくりと自分の体を押し付けた。

 シャワーを浴び、コーヒーを飲むと彼は幾分落ち着いた様子で、俺の部屋を見回した。BGMを変えた。こんな気分に合う曲なんか、無いだろう。
「あのポスターは?」
 彼が尋ねた。
「大昔のパンク・スターだよ」
 俺もよく知らなかったから、大嘘を答えておいた。
「いいね、パンクか。俺も昔はギター、弾いてたんだ。」
「へぇ、そうなんだ」
「昔の話だよ。憶えていないくらい、すっと昔だ。不思議だな、君の部屋は、俺の部屋にそっくりだ。大昔の、ギターを弾いていたころの」
「偶然だろ? 第一、この部屋にギターなんてないからな」
「ああ、」彼は微笑んだ。「そうみたいだ」

 河馬に似た形の半島で戦争が起こり、夕方の長靴の島で、クリスマス・キャップの海で、歯軋りのような楕円形で、戦争が起こり、彼は出て行かなくてはならなくなってしまった。
「また帰ってくるかい?」
「ああ、もちろんだ」
 彼は笑って答えた。

 核爆弾を搭載した、B52爆撃機が、いまさら俺の部屋に落ちる。こういう運命だったのだ、と、俺は日記帳に書きこんだ。
 黒い煙と赤い炎を添えた、待ち望んでいた終止符だ。


 僕の父親

 僕の父さんは宇宙船に乗って月へと飛び立った最後のチームの一人だった。
 もちろん、非公式の。
 その頃には月からキノコ型のステーションが延びていたから、そこまで乗りつければ済む話だったのだ。月面まで行く必要は無い。酔狂の一単語で表される行動だったわけだ。
 それでも、チームはわざわざ足を延ばし、三日間ほど通信途絶。救助隊は機体の固有信号をもとに必死で追いかけたのだがその発信源が点いたり消えたり、隠れたかと思ったらずっと遠くの海からひょっこり現れたりした。業を煮やした救助隊は、遊んでいるとしか思えない(実際、父さんたちは遊んでいたようなものだ)厄介な遭難者に脅迫紛いの信号を送りつけ、また宇宙軍(もちろん、単なるあだ名である)を呼びつけて徹底的に捜しまわった。そしてそのまた三日後にみんなとっつかまえられて、油ももう出てこないくらいにぎゅうぎゅに搾り取られたあとで地球に送りかえされた。希代のお騒がせ者として、父さんとその仲間は一時期有名になったものだ。

 母親が中華ナベ(彼女の実家の隣にある、チャイニーズ・ショップで購入した)をふるいながら、僕を呼んだ。胡麻と唐辛子の、素敵な香りがしている。
 僕は足の爪を切っていた。
 実家は小さくて雑然とした印象を受ける。そこかしこにものが積まれていて、しかし秩序を保っている(らしい)。ここで育った者で無ければ不快になることうけあいである。
 僕は爪の端のほうに溜まった滓を、爪切りが噛む所を慎重に使ってこそいでいた。小さな頃からの特技だ。
「なに?」
「お父さんを呼んできてくれない? もうすぐ夕御飯だって」
「もう晩御飯? 嘘だろ? まだ四時半だぜ」
 僕は女の人の脚が短針と長針になっている下品な腕時計をしていた。妻に見つかったら呆れかえられるような、ひどい時計だが、けっこう気に入っていたのだ。そのなまめかしくも安っぽい両足が、四時半を示していた。ある時刻になるとあられもない姿を見せてくれるのに、今はいたって慎ましやかだ。人の家という事で気を遣っているのだろうか。
「いいから呼んできなさい。いまから夕御飯なの。晩御飯じゃないわ。まだ夕方だもの」
「そらそうだ。わかったよ。父さん、いつもの所かい?」
「多分ね。いなかったら大声で悪口を言ってやりなさい。飛んで襲いかかるわよ」
 殺されるって。
「僕の悪口じゃあ動かないよ。プロがやってくれなきゃ」
 僕が母さんを指差すと。母さんは優しく笑った。「人を指差すのは最低に屑な奴だけよ。全部指をへし折って自分しか指差せないようにしてやろうかしら」 怖いことを言うので指を引っ込めた。相手はプロの余裕という奴だ。僕は爪切りをしまって、サンダルをはいて戸外に出た。
 夕方の代名詞として辞書にのっけてやりたいくらいの夕方だった。月が薄く上っている。今夜は満月らしい。上層圏の組成の関係で、ここらの空の色はめまぐるしく変化する。こんな、らしい夕方は中々見られない。ポーチから門をくぐり、舗装されていない土の路を歩いた。少しだけ背の高い草がふくらはぎの辺りをくすぐるので、ときどき立ち止まって、サンダルで掻きながら、北の方へ向かった。
 一本道には背の高い広葉樹がきれいに整列している。
 道の両側には広大な農地が広がっている。今は穀物生産の最大手の企業に土地を貸しているだけで、見知らぬ機械が動いているが、あれは僕達の一族の土地なのだ。その広さったら半端無い。静止軌道から撮影したって「ああ、このへんだよ。ほら、この緑色がちょっと禿げているところ」みたいに指摘できるんじゃないかってくらいだ。これは言わずもがなだが、僕や父親が獲得したものでは無い。うちのじいさんのじいさんの……直系なのに十親等くらい数えなきゃいけないくらいのじいさんが大した人物で、こんなに広い土地を買収しておきながら米粒みたいな大きさの家しか建てなかった。
 それ以来、僅かながら減り続けていたが、それも川の流れが武骨な風体の岩をまろやかな表情に変えるよりもゆっくりで、代々、バクチを打つような人物が余り出ない事もあって(代々、決して小心者ではないと言い張る。良い例がうちの父親だ)まだまだあくびが出るくらいの土地を持っている。
 やがては僕に受け継がれるのだろうが、僕だってそれで特に何をしようとは思わない。鯨のプールも華やぐ後宮も作るつもりは無い。もしかしたら、空き地のど真ん中に小さな簡易トイレでも作るかもしれないが、予定は未定だ。二百ヤードくらいのボーリング・レーンでも作るかもしれない。
 とにかく、思春期の信念よりもまっすぐな道の途中に、父さんの空間がある。といっても、木と木の間にハンモックを渡し、小さなテーブルとロッキング・チェア(これのために土台がそこだけコンクリートになっている)、ラジオ、テレビ、アイスボックスが置いてあるだけなのだ。テーブルの上には新聞や、大昔のブッカー賞の文庫や、一人で遊ぶためのトランプなんかが置いてある。もともと日光がそれほどきつい土地ではないので、本を読むにも目が疲れることはないらしい。ずっと遠くからでも父さんの脚がひょっこりと突き出ているのがわかった。茶色くて、毛むくじゃらな、太い両足。

 父さんは月から帰ってきて三ヶ月後に、大きくて茶色い熊になった。最初に気がついたのは母さんだった。朝の四時くらいにダブルベッドから蹴落とされて、文句を言おうとしたまま、熊にすっかり変身していた父親を見て絶句してしまった。
「でもグレゴ-ル・ザムザみたいじゃなくて良かったわ。とっさに、潰してしまったかもしれないもの」
 と、母さんは言う。その横で父さんは気難しげな顔をしている、熊だった。潰されても仕方ないと考えているか、それかボーリングでガーターを取ったときのリアクションを考えているかだった。

 んごるる・すぴぎゅぅ
 というのが父さんのいびきで、これは太陽の出入りの方角や三角形の内角の和と同じ位の真理として、僕たちは認識している。父さんは土の上で寝ていた。ハンモックをこしらえてあるものの、どこででも眠れるのだ。ラジオが流れっぱなしだった。随分古い音楽だ。ジョークで、ポスト・ポスト・ポスト・ロックとか呼ばれていた時代だと思う。あのころから、それほど音楽は飽和したっきりだ。しかし、聞き流すぶんには大差ない。
 サングラスがずり上がっている。僕は父さんの肩を蹴っ飛ばした。父さんは薄く目を開いた。
「ん、おぉ、ぐむふ、どうした。珍しいな」
「ちょっとね。母さんが呼んでる。御飯だって」
「お、もうそんな時間か。寝すぎだな」
 2メートルとちょっとくらいの巨大な熊が二本足で立ちあがり、僕の傍で首を回して肩をゆすってゴキッ、と何処かの骨を鳴らした。僕はいまだにこの姿に慣れていない。父さんが変身をした時期が、僕の人生をちょうど半分にするくらいだからかな、と思う。僕はこの姿を見るたびに、どんな事があっても驚かない、と再確認をしている。もしも父さんがその頭部をぽこっと外して、中からくたびれたちょっと老人顔が出てきても、きっと驚かないだろう。嘘だ。とても驚く。
 父さんは四つ足になった。こちらのほうが楽であるらしい。
「乗ってみるか?」
「嫌だよ。恥ずかしい。ミカじゃないんだから」
「おうまさん、じゃなくて、おくまさん、だからな」
「おくまさん、て。間抜けな名前じゃないか」
「この姿で充分間抜けだ」
 押しきられたような形になって、結局僕は父さんの背中に乗せてもらう事になった。跨るのではなくて、腰掛けたのだ。父さんの毛並みはふさふさしていて柔らかくて気持ちが良い。
「今日は、孫はどうしたんだ?」
「嫁さんと一緒にカーニバルに行ってるよ。今から俺が行っても花火はもう消えてるだろうから、明日の朝早く出るよ。二日めは一緒に出るんだ。サーカスも来るし」
「そうか、カーニバルか。良いな。まだサーカスなんてものがあるんだな。まだ、火を吹いたりしてんのかな」
 父さんは少し懐かしむように呟いた。
 僕の正面、紫色へとにゆっくりと変化しつつある空に、満月が浮かんでいた。
「月だな」
「うん。月だ。父さんが体を忘れてきたところだよ」
「ああ、そうだ……うん、あれは良かったなぁ」
「は?」
「良い経験だったんだよ。良い経験が出来て良かったよ。結果はどうであれ、月での六日間は素晴らしいものだったということだ。わかるか?」
「え、後悔はしてないの? 熊になったんだよ」
「そんなことは些事だ。俺はな、人生において後悔なんぞしたことが無い。あったとしても、五秒間が限度だな。そんな事をしている暇は無いんだぞ。人生は奔流だ」
「父さんは熊だからまだ良いさ。みんな変身して、その、あれだよ船長なんかひどかったろう? 名前なんだったっけ」 ジットのことか? 「そう、ジット・キーファン。彼なんか、フットボールになっちまったんだろう?」
 ジット・キーファンはチームのキャプテンで、船長だった。父さんたちが見事にかくれおおせ続けられたのもひとえに彼のおかげだと言われている。ベテランの航宙士で、電磁気学のエキスパートで、フットボールのランニング・バックだった。
「違うな。バスケットボールだ」
 バスケットのポイント・ガードだったかな?
「変わらないね。どっちにも縫い目があって、革製品だし。そういうのに比べれば、父さんは熊だ。可愛いもんだよ」
 彼は、僕も彼が人間だった頃に何度か会ったことがある、彼は、今は孫たちにてんつくてんつく突かれたあとで、リビングでごろごろしているのだ。人間だった頃は、眩しいくらいに頭の良い人だった。あんな丸っこい姿で彼は今何を思っているのだろう。
 ちなみに、意志疎通は可能だ。電極をぶすぶす刺されたバスケットボールが、「やぁ、また大きくなったな。親父の七百倍はハンサムだな」とか(ディスプレイ上で)言うのだ。
「人間に比べれば、何だって慎ましくて可愛らしいさ」
 こんな風に皮肉を言い合う気は無いのに、父さんと話をしていると、時々こんな事起こってしまう。やがて何も話せなくなってしまうのだ。
 父さんの爪がじゃりじゃりと土を噛んでいる。僅かに揺れる背中は、座り心地が良くない。山脈のように盛りあがっているのは、背骨なのだろうか。尾底骨にゴリゴリ当たって痛いのだが、父さんの背中の上で身じろぎをして、尻の位置を直すというのは、なんだか気が引けた。
 恒星だってその役目を終えて冷たくなってしまうんじゃないか、それくらいの長い沈黙のあとに、父さんがポツリと言った。
「お前……月に行く予定はあるか?」
「んん、なんだい突然に。ちょっと待って……話もあるにはあるけれど、一ヶ月や一年先の話じゃないよ。まだ、いつかその先、てくらいだけどね」
「まぁ良いか。なぁ、これからはなす事は母さんには内緒だぞ。お前に、とっておきの真相ってやつを話してやる。本当は、遺言状でばらすはずだったんだけどな。まぁいいや」
「ぜんたい、どうしたんだい? 急にそんな事言うなんて。なにか縁起が悪いよ」
「単なる思い付きだ。気にするな」
 それから、父さんはのそのそと僕を乗せて歩きながら、事の真相を話し始めた。

「俺はな、本当は月で死ぬつもりだったんだ。少なくとも、俺は。大小の、つまらなくて反吐が出そうな悩み事ってのがあってな、燃やそうにも、煙が出てかなわんかった。要するに、何もかも嫌になったんだな。それで、死んでやろう、と思ったわけだ。他はよく知らないけれど、それぞれ目的があったんだろう。思索したかったとか、写生したかったとか」
「おいおい……本気? 勘弁してくれよ。母さんとか俺とかどうするつもりだったんだよ」
「行く前に聞いたさ、『もしかしたら、事故か何かで俺は死んでしまうかも知れないから、葬式の準備をしておいてくれ』て。そうしたら、『あー、はいはい』って言ってたぞ。俺の一世一代の告白があっさりとかわされて、もう、俺は何となく思ったんだよ。きっと、大丈夫なんだろうなぁ、って。母さんは、俺がいなくても」
「はぁ!? 俺には聞いてないだろう?」
「いや、聞いたよ。『月に行くけれど、お土産いる?』って。お前、要らないって言ったじゃんか。何か、架空地名事典が欲しいとかいったけれど、月に売ってないし」
「んな回りくどいことわかるかこの馬鹿! お土産に饅頭でも買って来いっつったら帰ってきたのか」うん。「うん、かよ!」
「まぁ、そんな事どうでも良かったんだがなぁ。あと、お前、馬鹿って言ったな。後で母さんに言いつけてやる。必殺のグラウンド・コブラをくらえ。昇天したくなるほど痛いぞ」そんな技あったんかい。
 親父はでかいあくびをかました。
「でだ、俺は月へ行った。特に理由は無かったけれどな。地球で死にたくなかったんだよ」

 船から下りて、俺達が見たのは、世界だったよ。いや、俺だけかもしれないけれどな、でも、全員が見たことを、一番短い言葉で表すとしたら、やっぱり世界なんだよ。俺が見たのはこの土地だ。ここだ。ヴァイザーを通しても、俺にはこの土地の太陽が見えたよ。胸糞悪い太陽が。くるくる変わる気持ちの悪い空が。で、この道を、はじめは歩いた。でも、だんだん、どうしようもなくなってきて、走り始めた。わかるか、この気持ち。こう、あばら骨の下の辺りに何も無くなってしまって、その、息を吸っても何を食っても満たされない空白がそこらへんにあるんだよ。いつの間にかスーツも無くなってたしな。ポロシャツにジーンズでサンダルで水虫の毛むくじゃらの足だ。俺が走ってまず捜したのは母さんだった。次にお前だ。もう、狂った様に捜したけれど、見つからなかった……言わんこっちゃねぇって顔するなよ……段々に理解し始めた。そうかそういうことか俺はまだ不充分なんだ、てな。ここに来ちゃいけないんだ。俺がそこで瞬きを一つする度にどんどん俺は退行していった。お前が産まれ、母さんと出遭い、ハイスクールで喧嘩をし、初恋をし、おねしょをし、一番古い記憶までもどったよ。動物記か図鑑かなんかでな、俺が見ているのは、熊だった。でかい灰色熊で、小熊の写真も載ってたけれど、それが無敵なくらいに可愛いんだ。こんな可愛いのがどうして人を殺して猟銃で撃ち殺されるような、あんなデカイのになるんだ、って、不思議に思ってたな。俺はそこまで戻ってしまって、もう戻れなくなった。そこで、俺は、俺のお袋に呼ばれたんだよ。飯だか、なんだかわからなかったけれど、俺の名前を呼ばれたんだよ……

「眼を覚ましたら、他のやつらがみんなして走りまわったり泣いたりしているんだ。俺はみんなが鎮まるまで待った。それで、やがてみんな落ちついてきて、それで見つかって帰されたというわけ」
「え? でも話が違うぜ。報道じゃ、そのキーファンさんがなんかどうたらこうたらで」
 父さんは歩を止め、左前肢を上げて頬をぼりぼりと掻いた。
「キーファンは資産家だったしな。バスケットのチームも持ってたな、そう言えば。一番納得できる理由を報道側が選んだんだろ。当人がそう言ってるんだ。あいつは、失踪する気だったらしいぞ。他の銀河に行ってみたくなったってさ、しがらみ抜きにして」
 まったく、僕は頭が痛くなった。いい年をしてなにをしようと思っていたんだこのおっさんは!
「……帰ってからしばらくして、俺は熊になるんじゃないかと思った。その時には、もうキーファンはボールになってたし。奴はバスケットの夢しか見ていなかったらしいから」
「ふぅん……おい、その幻覚みたいなのの原因は?」
「磁気嵐でもフレアでも無いらしい。なんだろうな。知ったこっちゃないよ。お。そうだ、で、もう一つ話す事があるんだ」
「何だよ。もう飯食うまえから腹一杯だ」
「たった一人だけ。戻ってきてないやつがいるんだよ」
 僕と父さんは、同時に月を見た。

「すごいな」
「ああ、すごい」

 だんだんと尻が痛くて我慢できなくなってきたので、自分の足で歩くことにした。
「おい、息子。月に行くとしたら、俺の孫は連れていくのか?」
「本人に聞くよ。なるべくなら残していってやりたいけれどな。環境の変化が、大気圏の内と外じゃ激烈だから」
「それが良い」
 父さんは言った。
「それが良い」
 エプロンを着けたまま母さんが門のところに立っていた。ポケットに手を突っ込んで、怒ったように笑っている。
「俺は、行った事も帰ってきた事も後悔していない。今は幸せだが、今が過去の色を決定するわけじゃないんだぜ。同様に、過去が今の色を決定するわけじゃない。つまり、後悔をしていない」
「よくわかんないよ」
「じきにわかるさ。わかんなかったら、それはそれで幸せってことだ」

 僕はその三年後に月へと行った。結局、ミカは置いてきた。ミシェルはついて行くと言って聞かなかったが、どうにか説き伏せた。娘よりも妻の方がずっとわがままだった。あの熊のところに娘を預けると考えただけで帰りたくなる。
 月での生活に違和感は無い。長期休暇になって、娘とミシェルが月へやってきたので、僕達はドライブへをした。スーツを着たままバギーで丘陵を走る。車を止めて降りる時、僕はミカとミシェルの手をがっちりと握った。
「いやだよパパ。せっかく宇宙に来たんだもの、飛んだり跳ねたりしたいよ」
「駄目だよ」
 僕は断固として譲らなかった。
「ジャンプをするなら、三人、一緒だ。跳ねたりするのも一緒だ。嫌いか?」
 この「嫌いか?」は殺し文句だ。敵うやつはいない。
 僕達は飛びあがった。滞空時間。娘と妻の呆けたような喜びの声。ちょっとだけ見えた遠くに、僕は父さんたちの姿を捜した。僕は、彼らの抜け殻がいまでもこの土地の上を泣き叫びながら走りまわっていると信じている。


『成功した』一人は、きっと死んでいるだろう。父さんは彼の名前を覚えていなかった。誰も、覚えていないという。報道もされなかった。しかし、彼はそこにいたのだと父さんは言う。
 彼はいなくなった。なんだか僕にはそれが、正当な手続きを踏んだ上での、まるで役所仕事みたいな自殺に思える。
 名前は知りたくも無いが、何となく、会ってみたい気はする。


 その二十六。我が人生の映像部がおかしくなった。私はフェードインとフェードアウトを繰り返した。 フランソワ・カモワン/小川高義訳


冒頭の引用句は『世界の終わり』(新潮文庫 福永武彦「夢見る少年の昼と夜」収録)、末尾の引用句は『いろいろ試したこと』(文春文庫 R・シャパード/J・トーマス編『Sudden Fiction 超短編小説70』収録)より。
 


泡 用です。結局ごたまぜに。反省してます。

最終更新:2012年12月30日 10:01